修心流居合術兵法誕生の経緯

以前にも触れたことがありますが、改めて修心流居合術兵法創流の経緯について記述させていただきます。長文に及ぶと思われるので数回にわけて記述することになるでしょうが、刀と居合が大好きで仕方ない時代錯誤の一人のオヤジが、歴史ある英信流の名を捨て、修心流居合術兵法に改名創流したいきさつを、是非とも知ってください。

 

私が奈良にある無雙直傳英信流の道場に通いだしたのは19歳の時でした。

幼い頃から刀剣類が好きで、趣味にしているうち、どうせなら使いこなせるようにもなりたいと思ったのが、道場に通いだしたきっかけであり、わざわざ遠い奈良の吉岡道場(龍心館)を選んだのは、当時好意を寄せていた女性(彼女)の家から近かったと言う理由からですが、後にこの道場で英信流を学んだことが、今の私の居合術理の基礎を作り上げることに繋がるのです。

入門して最初の二回か三回くらいは、基本所作や初伝形(大森流)一本目を個別に指導していただけましたが、その後の稽古は他の門弟と同じように、中伝や奥伝などを師が手本を示した後、皆と一斉に抜くという稽古でしたので、物覚えが悪い私は、なかなか形を覚えられず苦労したものです。

通っていた道場は、当時、全日本居合道連盟に属する道場で、段位は師や道場ではなく、連盟が允可していました。

よほどのヘマをしない限り、受験料を納めれば六段まで毎年昇段できます。私も道場に通いだして半年程で初段になりました。その後毎年昇段試験を受けることで五段迄はエスカレーター式に取得。そこで色々と疑問を感じるようになりました。

「昇段試験ってこんなに簡単でいいの?」

三段を取得した頃からでしょうか。様々な疑問が蓄積し、道場と言うよりは現英信流に飽き始め、“初太刀は牽制であり、二の太刀で斬る”と言った解説や、あまりにも自分に都合の良い業の解釈に不満が爆発。道場へ通う頻度も少なくなりました。

今では何故居合が刀一振だけで稽古するのか理由も解りますが、当時は私も“武士が嗜む武術なのに脇指を指さないのはおかしい”と考え、道場の自主錬時間には脇指を添えて形稽古をしたものです。その姿を見た吉岡早龍師はただ一言

「居合は大刀一本だけでやるもんや」

とだけ言われ、何故一本だけなのか理由は語られませんでした。

理由を説明されないその一言にも疑問を感じ、更には抜付の初太刀で樋音を発する人が、道場のみならず連盟所属の他道場の先生方、諸先輩方の演武からも聞こえないことに、益々疑念を抱くようになり、

「居合は抜付の初太刀こそが命。斬撃力無き抜付しかできず何が居合だ?」

と考えた私は、五段を取得してからは、連盟が発行する允可状に価値を見出せなくなり、道場へ通う頻度も、年に一回、二回程度となり、昇段試験を辞退すると共に、畳表を相手に、独自に抜刀道(※ここで言う抜刀道とは単なる試斬道)を研究するようになりました。

畳表と向き合うも、英信流では右から左にかけての斬上を稽古したことがないため、上手に斬ることができず、苦労したものです。

当時、畳表の準備や試斬稽古後のゴミ処理など、個人で行うには難しかったため、有料にて試斬稽古場と畳表を提供していた大阪の某流派の一角をお借りして、左斬上(※右から左への切り上げ)を稽古していた時、あまりもの下手振りに、その某流で一番の試斬の手練であったM氏が、私に声をかけ、自宅にお招き下さり、斬上他、試斬技術の基礎を指導してくださいました。

自然と師弟関係が芽生え、上述の某流を離れ、独立されたがっていたM氏の創流を私は手伝うようになりました。

日本刀剣愛好保存会※1のお客様の中で、抜刀道にご興味ある方をお誘いし、S流という新派が出来上がり、私はそこで師範代として活躍。M氏の跡を継ぎ、二代目を襲名するのも面白いなと考えていた矢先、M氏と私の間で亀裂が徐々に深まりました。

※1 美術刀剣 刀心の前名。美術価値の高低に関わらず刀剣を愛したいとの思いから敢えて美術という文字を外し、愛刀家皆で刀剣を保存愛護しようと言う目的で命名した。初期の頃は会員制だった。)

当初S流を立ち上げるにあたり、M氏は私に

「私は試斬はできても、居合はできない。居合は町井さんの方が実力あるから、形創案の際には色々と助言して欲しい。」

と仰っていたのですが、

「下緒を結んだままでの居合は宜しくないので、古式通りに垂らしましょう。」

「この動きには無理を感じるのでこうしませんか?」

と言った私の助言を煙たがられるようになり、更には門弟間で刀剣の売買が始まったりと、刀剣商である私の生活にも支障をきたす状態になりました。

私は雲霞食べて生きる仙人ではありません。家族を養うには利益も得なければなりません。S流の活動の中で、弛んだ柄巻き、鞘の修理や研磨など、それらの諸工作は私の店が引き受けるはずでした。

更に溝が深まったのは、演武時の衣装と披露する技について制約が出た時でした。

S流としての初めての古武道演武会への参加。師範代という立場もあり、私は裕福でもないのに清水の舞台から飛び降りる覚悟で紋付羽織に縞袴の一張羅を購入したのです。着物も上を見るときりがなく、私が買い揃えた物は安物ではありましたが、それでも一式で12万円程したでしょうか。

出来上がった紋付に袖を通し、演武会を楽しみにしていた私に、M氏側から紋付着用を禁ずとお達しが来ました。M氏だけが紋付で門弟は全員黒で揃えた稽古着でなければいけない。更には試斬演武での私の演武は三本横並びまでしか披露してはいけないと言われたのです。

当時五本横並びの袈裟、斬上を必死に稽古してきた私は、当然演武会でもそれを披露しようと考えていたのですが、

「町井さんが紋付着て五本斬ったら、先生(M氏)目立たないでしょ?」

と言うのが制約をかけられた理由でした。

私は師範代という立場上、また、S流の初演武ということもあり、自分なりにS流を盛り上げるべく衣装も用意したことを当然お伝えしましたが、M氏を宗家に崇め、事実上私が作り上げたS流から、「従えないのなら辞めろ」と言う冷たい言葉が私へ返ってきました。

演武会当日、そこに私の姿はありませんでした。S流を辞するまではなくとも、それ以来少しずつS流(M氏)との距離は広がりましたが、稽古に使う畳表の確保。稽古後のゴミ処理など、影ながらサポートは続けさせていただいていました。

私がS流を離れるもう一つの要因に、門弟の一人が、ヤフオクでうぶ中心無銘の新刀だか新々刀だかを購入し、それを自作の拙いはばきや拵に合わせ、中心を削り、刀の方を加工した事件があります。

日本刀が大好きで、刀を傷めぬ試斬技術を広めたい、それでいて自分の生計を立てることもできればこれほど嬉しいことはない。そんな純粋な思いからM氏を立てて創流したS流が、自分が思い描いた団体とは間逆のことをし始めたことに、大きな落胆と失望を感じました。

何よりも自分自身を責めたのは、“私がS流を作らなければ、長い年月を生まれたままの姿で残ってきた一振りの刀が、姿を変えられることもなかっただろうに…”という、例の中心加工事件。

やがてS流のメーリングリストでは、私が自らS流を辞するように、わざとらしい配信が続きました。

「町井さん一人に畳表の準備(畳表の水浸作業は全て私がしていました)やゴミ処理をお願いするのをやめよう」

言葉だけを見ると優しく美しい気遣いのように見えますが、早い話がこれまで頼りっきりだった畳表の確保と準備、ゴミ処理を自分たちで行い、私を追い出そうというものです(苦笑

メーリングリストで配信されてきたそのメールを見た時、私はS流を辞することを決意しました。

 

英信流修業時代の道場名や師の御尊名を公表しているのに、S流とM氏に関しては公に公表していないのは、こうしたいきさつがあって、私の居合人生から抹消したい黒い記憶であるからに他なりません。

私がS流を立ち上げなければ、一振の刀が健全な姿を留めることができ、少なくとも文化財破壊に加担する結果にならなかったはず。

私は今でもそのことが悔やまれてならないのです。

 

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