兼俊 ~兼元の兄 極美品の九四式改九八式陸軍刀拵入り~

兼俊 ~兼元の兄 極美品の九八式軍刀(元九四式)拵入り~
兼俊
– Kanetoshi –
 
銘鑑によりますと三阿弥派の刀工で兼則の孫であり、美濃の名工兼元の兄とのことです。活躍したのは京都を灰塵にした応仁(応仁の乱)の翌号である文明頃。
 
杢目肌が良く練れて肌立ち、地景入って美しく、刃文は冴えた互ノ目を焼き、刃縁に砂流かかり、所々に尖りごころの刃を交えた作品。表に刀樋と添え腰樋。裏は二本樋を共に丸留めにし、非常に手が込んだ造り込みです。古来より二本樋の刀に鈍刀無しと言われるように、二本樋を掻いた刀剣には名品が多く見られます。
指表区上20センチ程の刃境にふくれが見られますが、格好の良い姿と美しく肌立った地鉄が、ふくれがあることを忘れさせます。丁度この部分が他所より匂口が沈んでいますが、これは恐らく後世に熱を加え、反りを少し抑えたことによるものと思われます。※中心の反りや刀身の反りを後世の人が自分の好みに合わせ、伏せたり強くしたりすることがままあります。
 
附属する九八式陸軍刀拵は元々九四式軍刀(中期型)の第二佩鐶を取り払ったもので、余程の高級将校が携えていたのでしょう。ほぼ未使用状態で金具の桜花葉もしっかりと角が立った抜群の保存状態です。鞘は鉄鞘で塗装の剥離は全く無く、凹みも皆無と言って良い状態です(一箇所目立たない程度の小さな凹み在り)。佩鐶の台座は低く、また、他の軍刀にはあまり見られない『204186』『實用新案』の刻印があり、旧軍装資料としても価値が高い逸品です。鐔や切羽、縁や駐爪には、番号の刻印ではなく、『坂本』と所有者の名字がけがきされています。中に仕込んだ在銘の古刀などからも、坂本氏が位高く裕福な高級将校であったことが覗えます。
御購入後には是非とも上研磨をおかけ頂き、本刀の地刃を目いっぱい引き出してお楽しみ下さい。
 
裸身重量768グラム。  拵に納めて鞘を払った重量1,123グラム。

備州長船祐定作 天正二年八月日 ~昭和の大実業家、崎山好春氏旧蔵品~

備州長船祐定作 天正二年八月日 ~昭和の大実業家、崎山好春氏旧蔵品~

備州長船祐定作 天正二年八月日
– Bishu Osafune Sukesada saku –
 
末備前物と称される室町末期の刀工中、祐定銘の作刀は多く、中でも与三左衛門尉、源兵衛尉、彦兵衛尉が有名です。刀剣の需要が多く求められた戦国期、備前刀は数多の戦に向けて数多く鍛えられ、そうした実用刀で俗名を銘切っていない末備前物を、数打と卑下する悪習が刀剣界にはありますが、粗製乱造されたわけではなく、俗名を銘切っていない作品の中にも、驚く程出来が良い作品が多々見受けられ、中には俗名個銘極めまで可能な出来優れた作も見られます。
 
この脇指は、杢目肌が良く練れて肌立って地景入り、中直刃基調に小足を交えて小乱れを呈し、刃縁上品に沸づいて金筋入り、砂流顕著に現れるなど、単調な直刃のイメージを覆す出来良い逸品です。
 
附属の拵は切羽の一枚に至るまで、すり替えられることなく保存された製作当時のオリジナル。小柄が失われていることだけが惜しまれます。
兵庫県の大きな御屋敷からこのたび売却された名品で、旧所有者は昭和を代表する大物実業家で、愛刀家としても知られた崎山好春氏。重要美術品指定の刀剣をはじめ、数多の名刀を秘蔵されていました。既にそれらの多くは売却されましたが、今回同家に残る刀剣類5振を引き取らせていただき、極上研磨を施して皆様にご案内差し上げる次第です。
 
※崎山 好春(さきやま よしはる 1897年(明治30年)9月19日~1974年(昭和49年)6月10日)
日本の実業家。大同海運社長、大日海運会長を務めた。東京都知事石原慎太郎、俳優石原裕次郎兄弟の実父石原潔の前妻勝子は崎山の妻の姪にあたる。
 
裸身重量505グラム。  拵に納めて鞘を払った重量796グラム。

今年も新潟で修心流居合術兵法の演武が見れる!! アートミックスジャパン 4月15日(日) りゅーとぴあ能楽堂

アートミックスジャパン

昨年に引き続き、今年も新潟のりゅーとぴあ能楽堂において、修心流居合術兵法の演武を披露させていただきます。

昨年と同様、形の理合や術理の解説を交えながら、居合・剣術・体術について、皆様に古流居合術をご覧頂こうと思っています。

現在、英信流系(神伝流含)を修行されている方は勿論、居合術・古武術ってなんだろう?とご興味をもたれた方、是非新潟のりゅーとぴあ能楽堂にいらしてください。

お待ちしております。

 

アートミックスジャパン WEBサイト  http://artmixjapan.com/

演武詳細ページ  http://artmixjapan.com/program2018/artist18.php

公式パンフレットデータ  http://artmixjapan.com/pdf/amj2018_pamphlet.pdf

関兼秀作之 昭和十九年二月日 ~陸軍造幣廠検査印☆打刻在り 旧軍による厳しい検査を合格した利刀~

関兼秀作之 昭和十九年二月日

関兼秀作之 昭和十九年二月日
– Seki Kanehide –
http://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/katana/735/00.html

本名中田勇。大正2年8月24日、長野県基礎軍大桑村にて生誕。昭和3年大桑村の尋常小学校を卒業し、高知県安芸市にて十二代川島正秀鍛錬所で徒弟として八年間の鍛錬技術習得後、同12年2月に岐阜県関市に移住。渡辺兼永の門下で日本刀美濃伝の研究に着手しました。同12年10月から15年10月まで日本刀鍛錬塾の塾生長になり、 昭和13年10月にはヒトラーユーゲント来日記念刀の短刀31口を鍛え上げ、ヒットラー、ムッソリーニ両首相にも日本刀を献上。同16年に関刀剣株式会社に入社。優秀な鍛錬技術を認められ、陸軍受命刀工として鎚を振るい、東條英機総理大臣に軍刀を、同32年に天皇・皇后両陛下への献上刀を鍛錬。同38年『兼秀日本刀鍛錬所』を設立して日本刀の鍛錬と研究に専念。人生を日本刀に捧げ、同51年11月22日『関市重要無形文化財』の認定を受け、翌52年3月11日には『岐阜県重要無銘文化財』に指定されるなど、昭和を代表する刀匠として活躍しました。

本刀は昭和19年に鍛えられた高級士官用の軍刀で、古式にのっとり、和鋼を用いて入念に鍛えられた逸品。陸軍造兵廠において、厳しい試験に合格した刀にのみ打刻される『☆』の刻印が打たれており、美術性のみならず、その耐久性と刃味が軍部によって証明されています。
地鉄は小板目または杢目が良く練れて詰み、匂口明るく冴えた互ノ目乱れを焼いて、足よく入り、刃縁に沸が頻りについて、互ノ目の焼き頭は二つ三つと足が入って複数の小互ノ目となり賑やかな出来口です。

附属の九八式拵は後期型で、鮫皮部分はセルロイド製。鉄鞘に凹みや塗装剥離は見られず保存状態良好です。

現状では古研ぎで目立つ観賞を妨げるほどの錆はございませんが、ヒケや鎬地の針磨きムラが見られます。出来良く、更には軍部による厳しい試験を合格した、大東亜戦争期の昭和の名刀だけに、御購入後には美術鑑賞用の上研磨を是非施してあげてください。本刀の出来の良さを存分に御堪能頂けること間違いございません。御希望の方には当店にて13万円(税込)にて美術鑑賞用上研磨を承ります。
※現在、無知な登録審査員により、☆刻印が打刻された古式本鍛錬軍刀も、塑造乱造刀と誤認され、登録不可とされるケースが増えています。今後益々入手し難くなるであろうと思われますので、この機会に☆刻印入りの本刀をお求めください。

裸身重量784グラム。  拵に納めて鞘を払った重量1,140グラム。

各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。

大磨上無銘 ~保存状態良好なる九八式軍刀拵入り~

大磨上無銘 ~保存状態良好なる九八式軍刀拵入り~
無銘
– Mumei –
 
古刀を仕込んだ九八式軍刀。
小板目肌杢交じって柾流れ、肌立ち地景入る。刃文は匂口明るく冴えた直刃で、小沸本位。腰元の表裏に長く延びた飛焼を交え、刃中沸え、細かな金筋入り、帽子は先掃きかけて沸筋食い下げて大丸に返る。
現状では反り浅く感じられますが、中心で反りを伏せているため、元の姿は腰より先で反り始める所謂先反りの姿。時代を室町中期と表記しましたが、前期まで遡るやもしれません。
古研ぎのためヒケが多数見られますが、生まれの良い大磨上の古刀ですので、再研磨の上、是非保存刀剣鑑定を御受審下さい。
 
附属の九八式陸軍刀拵は、鉄鞘濃国防色畔光沢塗りで、鞘の状態極めて良く、柄頭と石突の桜花葉の摩耗も見られません。鯉口の胴金と佩鐶に変色が見られるのは、長らくこの軍刀拵が野戦用革覆いに包まれていたためであり、現在その革覆は失われています。金具は『6』刻印が打たれた完全なオリジナル。
 
裸身重量599グラム。  拵に納めて鞘を払った重量966グラム。

無銘(尾張関) ~明るく冴えた地刃見事な一刀~

無銘(尾張関) ~明るく冴えた地刃見事な一刀~
無銘(尾張関)
– Mumei(Owariseki) –
 
尾張関は美濃國から尾張國に移住して繁栄した一派で、中でも相模守政常、信濃守大道、飛騨守氏房、伯耆守信高が著名です。
 
この刀は鎬地と刃縁が柾流れた杢目鍛えの地鉄が肌立ち、地景入り、匂口明るく冴えた互ノ目乱れを焼いた作品。刃縁には大粒の沸が微塵に絡み、指表は角張った互ノ目乱れ、指裏には兼友や兼房を偲ばせる兼房乱れ風の互ノ目を焼いており、こちらもどこかしら角張った感のある刃取構成で、大粒の沸の付き方などは信高を思わせる出来口です。
 
付属の拵は保存状態良く、鞘には目立つ凹みも見られません。柄頭を角で製作し、返角が取り付けられているところを見ると、登城指の大小であったのでしょう。金具は植物を題材にした仕事の良い物が添えられており、特に縁金具の極小魚子は、気が遠くなる程に根をつめた作業で造り上げた力作。縁には縄目模様の台まで設けられた手の込みようで一政在銘。目貫も刀に相応しい大振りの物が添えられ、鐔は記内在銘且つ、記内が得意とした葵図透かし。
はばきと切羽は痛みが目立つため、当店にて新調し直しましたがそれ以外はうぶ伝来のままで、縁金具を外すと細かな文字が見られます。なんとか判読できる範疇のみ記載しますと、『一三号拵付 古○○ト金?○ 小野了?所用了? 二○の黒糸』と読めます。
町人が隆盛を見、士が貧困を極めた江戸時代、十三振以上の刀剣を所有し、これだけ仕事の良い拵に納められた刀を腰に指せたところから察すると、尾張徳川家の縁戚にあった者の指料であったのかもしれません。
※銀はばきは拵主体に新調しておりますので、白鞘に移しますと極僅かな隙が空きます。
 
裸身重量679グラム。  拵に納めて鞘を払った重量967グラム。

無銘(金房) ~興福寺の僧兵を支えた大和の古刀~

無銘(金房)
無銘(金房)
– Mumei(Kanabo) –
http://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/katana/732/00.html

金房派は大和五派(尻懸、千手院、当麻、手掻、保昌)のいずれとも関係が明らかではないものの、手掻派の末とも言われる大和興福寺門前の子守郷(現在の奈良市本子守町付近)に住した刀鍛冶の一派で、南都宝蔵院の僧兵をはじめ、武将や武辺の者に数多の刀剣を鍛えました。中でも兵衛尉政次や隼人丞正實らが著名です。
作風には伝統的な大和気質は鑑られず、身幅の広い先でも反りがついた末備前や末関などと共通する打刀姿であり、刃文も互ノ目調の大乱れで匂口が沈んだ感じの物が多く経眼され、元先の幅差が少なく、如何なる堅物をも断ち切らんばかりの頑丈な造り込みであり、十文字槍で有名な宝蔵院流槍術の始祖、覚禅房胤栄の槍も金房一派の刀工の手により鍛えられました。現存する作品は刀や槍、薙刀が多く、短刀や小脇指の類は少ないです。

この刀は上述した金房の特徴をふまえた典型的な出来口で、先でも反りがつき、切先が延びた鋭い造り込み。地鉄は小板目がよく練れて詰むも少しく肌立って地景入り、匂口締まった直刃調の刃取りに互ノ目を交え、特に指裏の物打辺りには、足が盛んに入って複雑な丁子風の刃を焼きあげており、殊更同派の特徴が強く出ています。

附属する打刀拵は、黒を基調とした変わり塗りの手が込んだもので、菊花透かしの鐔は風に靡いたように逆がかった意匠溢れるデザイン。

裸身重量665グラム。  拵に納めて鞘を払った重量869グラム。

各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。