無銘(美濃千手院) ~かなり早い時期の東京都大名登録刀~

無銘(美濃千手院)
– Mumei(Mino Senjuin) –
 
赤坂の地は美濃国の西部、畿内と東海道・東山道諸国を結ぶ交通・軍事上の要地である「不破関」(関ヶ原町)に隣接する宿場町として古くより栄えました。
『観智院本銘尽』によると、美濃千手院派は東大寺の荘園・大井荘の近くでもあり荘官として寺領を守護していた武士の需により、大和国千手院重弘の子『泉水』が鎌倉時代中期頃、美濃国赤坂(現・大垣市)に移ったことに始まるとされていますが、鎌倉時代の美濃千手院派の作刀に関する現存資料は殆ど無く、現存するものでは南北朝時代『國長 応安元年(1358)』の短刀が最も古く、同銘が数代続き、『光山押形』には『濃州住藤原國行 応安七年甲寅八月日』がみられ、以降、室町時代を通じて『正國』、『弘長』、『重長』、『道永』、『道印』、『康道』らの作刀が現存し、室町時代を通じて繁栄しました。
南北朝時代の美濃千手院鍛冶の作風は『國長』のごとく大乱れになるものがあり、やや粗めの地沸が厚くついて地景を交えるものがあり、室町時代になると同派の作風は直刃や直刃に小互の目・尖り刃を交え、共に解れ、地は白けるものが多くなる傾向にあります。尚、美濃千手院は赤坂の地で作刀していたことに由来し、赤坂千手院とも別称されています。
 
この脇指は元々太刀或いは刀であった物を大きく磨り上げたもので、かなり大きく延びた切先を見るに、如何に長大であったかが想像されます。
鎬高く、卸が急な造り込みで、身幅と重ねを出すも重量を軽減したその姿には、武器としての実用面を第一に考えた刀工の苦心が垣間見れ、柾気が強く現れた地鉄は肌立ち、刃文は時代が下がった後代の同派と異なり、匂口の形成にやや不完全さを感じさせるも、刃縁に沸がよく付き、砂流等の刃中の働きも顕著で、後代には見ることができない古雅な出来口を誇っています。
 
現状は古研ぎのため拭いぼけが感じられますが、地刃の観賞には支障ない状態。昭和26年4月と、かなり早い時期の東京都大名登録刀であることからも、この脇指の伝来の良さを窺い知ることが出来ます。
余力有る方は是非とも上研磨を施して頂き、本刀の地刃の冴えを更に引き出してお楽しみ頂きたく思います。
 
裸身重量581グラム。
 
 
各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です