居合形

私は英信流を修行してきた身ですので、英信流以外の流派については疎いです。

以下、私が英信流をベースとした居合を研鑽してきた感想を述べていきます。

人それぞれ考え方や受け捉え方は異なるものですから、私の意見を押し付けるつもりはありませんが、同じ英信流系の居合を研鑽されている方に、何かしら刺激になれば幸いと考えております。

 

英信流には様々な形がございます。

正座から始まるもの。立膝から始まるもの。立ったままから始まるものなど色々です。

形にはそれぞれ想定というものがありますが、私が19歳から現在まで修行と研鑽を重ねてきた結果言えること。

それは、居合形の想定は後付けであるということです。

 

形を演武する動画をアップしますと必ずと言って良い程目にするのが、

「刀を指したまま正座するなんてありえない。」

と言う言葉なのですが、まず、その既成概念を払拭しなければ居合は語れないものと思います。

 

正座したまま帯刀はありえるのです。

 

居合は主に身辺警護の士が嗜むものとお考えください。

武家屋敷には武者隠しと称する小部屋があったりします。

この遺構を今に伝えている建物も現存しており、山口県の萩で見ることができます。

襖で仕切られた部屋と部屋の間に畳一畳ほどの幅の小さな部屋があるのです。これが武者隠しの間。来客があれば警護の士はここで帯刀したまま坐しているのです。襖の向こうに異変を感じればすぐさま対応できるように。

 

また、一尺七寸や八寸と言った長脇指が納められた拵で、小サ刀拵と呼ばれる形式があるのを御存知でしょうか?

通常大小刀の脇指の鞘尻は丸となっていますが、小サ刀はその名の通り、寸法こそ二尺を切る脇指でありますが、事実上は刀として帯刀されました。故に鞘尻の形状は刀と同じく一文字切になっています。

大刀を帯びたまま正座する姿は見かけることがなくても、脇指を指したまま正座する姿は時代劇でもよく見かけますよね。

居合形で長物を抜き差しする技術を身に付けたものが、短寸の刀を扱えばどうでしょうか? 抜刀は更に速く、難なくできることでしょう。

以上のことからも刀を帯刀したまま正座するということは、士の時代には日常茶飯事であったと言えます。

 

そもそも居合とはなんでしょうか?

書いて字の如く居合ったところから始まるものが居合だと私は考えております。

刀を鞘から抜いて「さぁ立ち合え!」とするのが立合なら、その逆が居合。

腰に刀を帯びているからと言って刀に固執する必要はなく、手元に茶碗があればそれを相手に投げつける。長物よりも短物が有利と思えば脇指や短刀で応じる。長押の槍や薙刀を手に取る時間があればそれを持って応じる。素手の方が手っ取り早いと思えば素手で応じる。それが居合ではないでしょうか。

それなのに居合や剣術に興味を示す素人の方は、腰に帯びている刀に固執し過ぎなのです。だから形演武を見ても、実戦向けではないなどと発言されるのではないでしょうか。

 

居合形の想定は後付けと最初に記載しましたが、これはまさにその通りだと近頃は更に実感するようになりました。

居合形(英信流)は想定された位置の相手を斬り伏すものではなく、その想定に沿って演武をする中で、身体操作を学ぶものだと実感しています。

 

例えば正座の形にあります介錯と呼ばれる形は、介錯人が介錯するための形ではなく、手裏剣(棒手裏剣)を打つ所作と術理を学ぶためのもの。

中伝立膝の浮雲と呼ばれる形は、合氣道で言うところの一教裏を学ぶためのもの。颪と呼ばれる形は合氣道で言うところの二教の術理を学ぶためのもの。奥居合の袖摺返と呼ばれる形はこの二教を更に小さく、実用的に学ぶためのものと私は捉えています。

 

合氣道のように二人一組で稽古する武道と異なり、相手を置かずとも同じことを単独で習得するために練られた形。

ただ、それでは稽古する側には物足りないので、仮想敵を置いて、それを斬る動きの中で学ぶのです。実によく考えられたものだと感心せざるをえません。

更に私が思うには、想定を後付けした理由として、居合形を学ぶ者にその真意を隠すという役割があったものと思うのです。

始めから「この形では体術のこうした動きを学ぶためのもの」と教えることなく、ただただ、敵がこの位置に居ればこのように斬るのだ。と教える。

ベストキッドと言う映画の中で、ミヤギさんにひたすら「ワックスかける」「ワックス拭きとる」と、単調な動きばかりをやらされるシーンがありますが、意味も解らずひたすら単調な動きをさせられるよりは、仮想敵があるだけ学ぶ者に対し、やる気を起こさせるものであったのではないでしょうか?

 

今現在の英信流修行者の方で、形の真意を御存知の方は殆どおられないものと思います。だから英信流の宗家が代替わりする度に形が改変されていくわけです。それは後付けの仮想敵を斬ることしか考えていないからであり、居合形を通じて学ぶべき真意を見落としている証拠と言えるのではないでしょうか。

 

そういった真意を知らずして居合道や居合術の普及を口にされる御仁を見ると、僭越ながら「まだまだ居合を語るには早すぎるのではありませんか?」とついつい喉まで言葉が出そうになります。御節介焼きな私は時折老婆心からちょこっとコメントをしてしまうのですが、それが原因で相手を怒らせてしまう、または相手の気分を害してしまうことがしばしばございます。

少し賢くなりましたので、今後は「あぁ、まだ御理解されていないな。」と傍観する姿勢で参ります(苦笑

 

体術を学ぶための後付け想定の形なら居合形は宗家が代替わりしても不変のはず。たった1ミリずれただけで体術はかからないからです。それが改変されては形を創案した古の先人達に申し訳が立ちません。

私は現在、無雙直傳英信流町井派から名を修心流居合術兵法に変えて居合術を指導しておりますが、私の英信流居合形は本家や正統派と称される英信流とはかなり異なるものとなっております。

自分で言うのもなんですが、私は己が演武する英信流ベースの居合形こそ、本来の改変される以前の古い居合形に限りなく近いもの、更に言えば古い英信流そのものだと自負しております。

 

とにかく居合形に隠されたその真意を読み解くことが今は楽しくて楽しくて仕方ないのです。刀を腰に帯びずとも、護身術として生活の場でも役立てることができる居合こそが本物の居合であり、「居合道」ではなく「居合術」だと信じてやまないのです。

近頃はそうした形に隠された真意を教授しているためか、私の道場に通う方々は、合氣道や少林寺拳法の指導者や現役自衛官や警察官等が熱心に稽古に打ち込んでおります。稽古の中では「○○さん、警視庁24時の取材を受けることがあったら、この業を応用して恰好よく犯人逮捕するシーンを!」なんて笑いも交え和気藹々と皆で先人達が遺して下さった居合形を楽しみながら修業しております。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です