播磨住宮野平次郎元吉作

播磨住宮野平次郎元吉作 明治十七年甲十一月吉日
– Harima ju Miyano Heijiro Motoyoshi –
 
 
播州三木で鋸を江戸時代の中期から鍛えていた鋸鍛冶の名門『宮野平次郎』家。幕末から明治初頭にかけて、三木の「宮野平次郎」は江戸の「中屋平次郎」や会津の「中屋助左衛門」と並び称された鋸鍛冶の名工です。
「宮野平次郎」の鋸は、水の上に浮かべた浮木をも切れるほどの優れた切れ味を持つと評され、この「宮野平次郎」鋸の歴史は、「加茂屋平次郎」から始まると指摘され、彼を初代に九代目宮野平次郎の宮野貴一まで名門鋸鍛冶として続きました。
その中で「宮野平次郎」鋸の名声を高め広めたのは、六代目(五代目とも)宮野平次郎の宮野元吉で、弘化四年三木町で生まれました。
家代々の鋸鍛冶で元吉が父の名である平次郎を継いだ時には既に五代目だったという。元吉は幕末多端の折に成長して父の技たる鋸製造に従事したが、刀剣製作には青年時代から憧れと研究心を抱いていた。しかしそれを実現するまでに鋸の製造に精魂を打ち込む事が第一義と考え、意を決して京都伏見の名門鋸鍛冶『谷口清兵衛』に弟子入りし、当時としては最新の焼入法であった油焼入技術を修得して三木に戻り、優れた切れ味の鋸を製造して、今まであまり有名でなかった「宮野平次郎」鋸の評価を一気に高めました。この元吉が「宮野平次郎」として「中屋平次郎」、「中屋助左衛門」と並び称された人物です。
その後、宮野平次郎銘の鋸は七代吉之助、八代目胤吉、九代目貴一と続きました。
※宮野平次郎元吉を宮野平次郎鋸の初代とする説も在り。
 
修行後帰郷した元吉は更に研究工夫を加え、その名声は高く昇り、彼の下に弟子入りする者が日に月に増加した。以後宮野平次郎は鋸鍛冶として播州のみならず全国的に見ても名工として知られている。
明治11年30歳の頃より刀剣製作の道にも入っていったものと思われ、明治17年神戸湊川神社御用鍛冶師を拝命し、神剣一振を奉納している。
刀匠仲間では備前輔高と交友があり教えられる所があったようです。また、有栖川宮家お抱えの刀匠桜井正次に相州伝の鍛法を伝授してもらい、相州伝の皆焼を会得しました。
明治36年第5回内国勧業博覧会に日本刀を出品して大判の褒状を貰っている。刀銘は宮野義定。老境に入った晩年まで刀剣の製作は続けていたという。子の吉太郎も平次郎として鋸を作り国次として刀剣を作っています。孫の胤吉も吉太郎から受け継ぎ、鋸と刀と同じ道に進みましたが、時期が日支事変太平洋戦争のために刀剣の製作は祖父や父より多かった様です。
※2014年11月には胤吉作の日本刀が三木市立金物資料館に寄贈され、話題となりました。
 
 
この刀は宮野平次郎家初代元吉の手になる非常に珍しい作品で、上述のように彼が刀銘を義定と切っていたことからも、義定と名乗る以前の元吉銘での初期作と言えるでしょう。当時彼は36歳の壮年期であり、且つ本刀の年紀には明治17年とあることから、本刀は湊川神社奉納刀の影打であるやもしれません。
元先の幅頃好く開き、短寸ながら姿美しく、地鉄は小板目に杢交じり、少しく肌立って地景入り、刃文は直刃調子の刃取りで匂口明るく、足、小足、葉入り、小乱れを成し、刃縁よく沸付き、変化に富んだ千変万化の景色を見せ、帽子は直ぐに掃き掛けて先丸く返っています。
鋸の名工として名高い元吉ながら、上述の通り、刀剣の鍛錬にも強い意欲を持っており、本刀の出来口を鑑てもその技量の高さに驚かされるばかりです。
現存数少ない希少な作品故に、できることなら三木市立金物資料館にて末永く展示保管頂くか、名のある大工の棟梁さん等、本刀の価値を理解できる御仁によって御秘蔵頂きたい一刀です。
 
裸身重量671グラム。
 
 
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