伯州住秀春 慶應三二月 – Hakushu ju Hideharu - ~研磨工作前だからこの価格~


伯州住秀春 慶應三二月
– Hakushu ju Hideharu –
 
伯耆國八橋の刀工である伯州秀春は、本名を藤本和一郎と言い、文政4年8月7日、藤本林蔵の長男として八橋村に生まれました。天保9年17歳の時に汗入郡(現西伯町)の野鍛冶貞島伸吉の所に8年間奉公し、単調な野鍛冶に飽きて刀工を志し、弘化3年25歳の時に江戸に出て、出羽國出身で大慶直胤の門人である山本嘉伝次秀直の弟子となりました。鍛刀修行すること5年、師匠の名前を一字貰い受け『秀春』と命名。彼は帰国の途中、伊勢の神戸山田新町にて3~4年鍛刀しました。『伊勢国山田新町住一雲斎秀春』と銘切られた作品があると伝えられおり、安政4年、郷里八橋村に帰り刀鍛冶を開業。壮年以後の作刀に『尚春』と切ると言われ、『秀春』『尚春』は同一刀工であり、長男は『尚家』と切りその後『直綱』と改名したとも伝えられています。
作風は備前伝をよくし、鍛えは小杢目良く詰み無地風となり、刃紋は、匂の締まった直刃が多く、互の目の乱れ丁子刃等もあります。
また、【秀春】は出来上がった刀を雨石の間に渡し、その上から大石を落として強度試験を行い、折れたり曲がったりするとまた打ち直し、満足できる作品にしか銘切りを行わなかったと言います。
慶応2年八橋城主(池田家の家老)津田元永がこのことを聞き、抱え工となるよう勧めるも聞き入れず、その為八橋から追放され赤崎町の別所尻夫婦岩付近に追放されました。赤貧の中にも作刀に精魂を傾け力作を作ったといい、秀春が鍛える刀は折れず、曲がらず、良く斬れたそうで、原材料には日野産の印賀鋼を用いたそうです。
秀春は明治22年3月1日、69歳にて没し、その墓は八橋の妙覚山法輪寺にあります。廃刀令後は和一と銘し親子仲良く刃物、農具等を作るも、こちらも切れ味が良く、和一鍛冶の刃物は評判が高かったと言います。
 
この刀は緻密に練られた小杢目肌が詰んで美しく、一見単調に見える直刃は、匂口が明るく冴え、刃縁には細かな金筋が多々見られ、刃中には葉や、葉が連続してあたかも雲棚引く様を見せる玄人好みの出来口を示した一刀。
区が送られ、中心尻が切られていることこそ惜しまれるものの、磨り上げても尚腰に帯びていたいと思わせる一刀だったのでしょう。特筆すべき疵欠点は無く、現状は擦れ傷多数で切先先端を欠いているも、帽子の焼も幅広くしっかりとあるので、再研磨後が非常に楽しみな逸品です。
 
銀切羽の新調並びに美術観賞用上研磨予定です。工作未着手の期間のみ表示価格でお譲り致します。工作後は大きく価格も変わりますので、低価格でお求め頂ける工作未着手の今の期間に是非お申し込み下さい。
 
裸身重量770グラム。  拵に納めて鞘を払った重量1,048グラム。
 
 
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無銘(武蔵大掾是一)

無銘(武蔵大掾是一)
– Mumei (Musashi Daijo Korekazu) –
 
 
武蔵大掾是一は、川上左近といい、生国は近江国蒲生郡石堂村で近江石堂一派に属し、後に江戸に出て江戸石堂派の祖と称されています。出羽守光平、対馬守常光などと共に江戸石堂の名を大いに高め、是一門からは福岡石堂派の是次を輩出しています。
作風は鎌倉期の備前一文字派に範をとって丁子乱れの刃文を得意とし、地鉄、刃中及び鎬などに柾目肌がでる処が古作と相違するところで、初・二代の代別は存外に易しく、「是」の字における「疋」の第三角目が右下より左上に跳ね上げる様に切るのが初代であり、右から左へ真横に切るのが二代となります。
是一の名跡は幕末迄連錦と続き、運寿是一が七代目を継いでいます。
 
この刀は大磨上ながらも刃長はしっかりと保っており、反りが浅い典型的な寛文新刀体配で、地鉄は小板目よく練れて詰み、総体に柾がかり、処々流れ、刃文は小湾れ調子に互ノ目丁字を焼き、足よく入り、細かな砂流かかり、処々大きめの沸が刃縁に絡み、帽子は直ぐに先丸く返っています。
 
付属の拵は柄及び鐔・切羽、全てにおいてガタツキ無くしっかりとしていますので、即武用刀としてもご活用いただけます。手持ちバランスは手元重心で心地良く、居合における片手操作にも適しています。
 
裸身重量714グラム。  拵に納めて鞘を払った重量965グラム。
 
 
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関福本天秀

関福本天秀
– Seki Fukumoto Amahide –
 
 
福本天秀は本名をは福本秀吉と言い、株式会社関日本刀鍛錬所に所属した刀工で、一文字天秀と名乗りました。活躍したのは昭和前期で、数多の軍用刀身を鍛え、その強靭さと刃味には定評があり、聖代刀匠位列に於いては、上工の列、大業物関脇格に列しています。
 
この刀は当時としては刃長が長く二尺三寸近くあり、元先の差が開き、切先延びごころで鋭い造り込み。現状では白研ぎのため地鉄は見えませんが、刃文は匂口明るく冴えた三本杉風の互ノ目乱れで、鍛錬疵は今のところ見受けられません。
茎には桜に昭の名古屋陸軍造兵廠関分工場刻印が打たれており、当時の規格に合格した証がしっかりと残っています。
現状では改正砥(#1000)まで研磨がなされています。試斬にはこのままでも充分ご活用頂けます。仕上げまで研磨をご希望される方は、126,500円(税込)にてしっかりとした研磨を承りますのでお気軽にご用命ください。
付属の拵の鐔は正阿弥重次在銘。手元重心で扱い易く、武用刀として心からお薦めする一刀です。
 
※柄にガタツキ在り。経木を添えて簡単に補修可能。当店にてガタツキ補修ご希望の場合は、5,500円(税込)にて承ります。簡易武用柄新調ご希望の場合は33,000円(税込)にて承ります。
 
裸身重量763グラム。  拵に納めて鞘を払った重量1,072グラム。
 
 
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無銘

無銘
– Mumei –
 
https://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/katana/1242/00.html
 
元先の差が開き、反り深い優雅な太刀姿に、フクラ枯れ気味の鋭い切先が目を惹く。見るからに古名刀を模した姿であることが窺える。
地鉄は小板目柾流れ、地沸厚く付き、刃文は匂口明るく冴えた直刃で緩やかな湾れを交え、帽子は表裏共に焼詰となる。
付属するはばきは、元来、金または銀が着せられた高級品であったことが窺え、仔細に茎を見ると、銘を消した痕跡が見られ、本刀の優雅な体配故に無銘の古名刀として扱われていたのでしょう。
銘を消されてしまったことと、刀身中程で匂口が沈んだ箇所が見られるのが惜しまれるものの、二尺三寸ある刃長と上品な姿は魅力的です。
お求め易い低価格でご案内致しますので、是非この機会に優雅な反り姿の本刀をお求めください。
 
裸身重量682グラム。  拵に納めて鞘を払った重量グラム。
 
 
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播磨住宮野平次郎元吉作

播磨住宮野平次郎元吉作 明治十七年甲十一月吉日
– Harima ju Miyano Heijiro Motoyoshi –
 
 
播州三木で鋸を江戸時代の中期から鍛えていた鋸鍛冶の名門『宮野平次郎』家。幕末から明治初頭にかけて、三木の「宮野平次郎」は江戸の「中屋平次郎」や会津の「中屋助左衛門」と並び称された鋸鍛冶の名工です。
「宮野平次郎」の鋸は、水の上に浮かべた浮木をも切れるほどの優れた切れ味を持つと評され、この「宮野平次郎」鋸の歴史は、「加茂屋平次郎」から始まると指摘され、彼を初代に九代目宮野平次郎の宮野貴一まで名門鋸鍛冶として続きました。
その中で「宮野平次郎」鋸の名声を高め広めたのは、六代目(五代目とも)宮野平次郎の宮野元吉で、弘化四年三木町で生まれました。
家代々の鋸鍛冶で元吉が父の名である平次郎を継いだ時には既に五代目だったという。元吉は幕末多端の折に成長して父の技たる鋸製造に従事したが、刀剣製作には青年時代から憧れと研究心を抱いていた。しかしそれを実現するまでに鋸の製造に精魂を打ち込む事が第一義と考え、意を決して京都伏見の名門鋸鍛冶『谷口清兵衛』に弟子入りし、当時としては最新の焼入法であった油焼入技術を修得して三木に戻り、優れた切れ味の鋸を製造して、今まであまり有名でなかった「宮野平次郎」鋸の評価を一気に高めました。この元吉が「宮野平次郎」として「中屋平次郎」、「中屋助左衛門」と並び称された人物です。
その後、宮野平次郎銘の鋸は七代吉之助、八代目胤吉、九代目貴一と続きました。
※宮野平次郎元吉を宮野平次郎鋸の初代とする説も在り。
 
修行後帰郷した元吉は更に研究工夫を加え、その名声は高く昇り、彼の下に弟子入りする者が日に月に増加した。以後宮野平次郎は鋸鍛冶として播州のみならず全国的に見ても名工として知られている。
明治11年30歳の頃より刀剣製作の道にも入っていったものと思われ、明治17年神戸湊川神社御用鍛冶師を拝命し、神剣一振を奉納している。
刀匠仲間では備前輔高と交友があり教えられる所があったようです。また、有栖川宮家お抱えの刀匠桜井正次に相州伝の鍛法を伝授してもらい、相州伝の皆焼を会得しました。
明治36年第5回内国勧業博覧会に日本刀を出品して大判の褒状を貰っている。刀銘は宮野義定。老境に入った晩年まで刀剣の製作は続けていたという。子の吉太郎も平次郎として鋸を作り国次として刀剣を作っています。孫の胤吉も吉太郎から受け継ぎ、鋸と刀と同じ道に進みましたが、時期が日支事変太平洋戦争のために刀剣の製作は祖父や父より多かった様です。
※2014年11月には胤吉作の日本刀が三木市立金物資料館に寄贈され、話題となりました。
 
 
この刀は宮野平次郎家初代元吉の手になる非常に珍しい作品で、上述のように彼が刀銘を義定と切っていたことからも、義定と名乗る以前の元吉銘での初期作と言えるでしょう。当時彼は36歳の壮年期であり、且つ本刀の年紀には明治17年とあることから、本刀は湊川神社奉納刀の影打であるやもしれません。
元先の幅頃好く開き、短寸ながら姿美しく、地鉄は小板目に杢交じり、少しく肌立って地景入り、刃文は直刃調子の刃取りで匂口明るく、足、小足、葉入り、小乱れを成し、刃縁よく沸付き、変化に富んだ千変万化の景色を見せ、帽子は直ぐに掃き掛けて先丸く返っています。
鋸の名工として名高い元吉ながら、上述の通り、刀剣の鍛錬にも強い意欲を持っており、本刀の出来口を鑑てもその技量の高さに驚かされるばかりです。
現存数少ない希少な作品故に、できることなら三木市立金物資料館にて末永く展示保管頂くか、名のある大工の棟梁さん等、本刀の価値を理解できる御仁によって御秘蔵頂きたい一刀です。
 
裸身重量671グラム。
 
 
各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。

龍神子源義房作 昭和六十一年八月吉日

龍神子源義房作 昭和六十一年八月吉日
– Ryujinshi Minamoto Yoshifusa –
 
 
本名、稲田義房。愛媛県喜多郡五十崎町吉田甲。
 
元先の差がさほど開かず、粗見すると元の方が細く見える大磨上物のような体配。切先は大きく、少し延び、地鉄は小板目肌柾流れて一部大肌立ち、刃縁から地へ沸零れて地沸を成す。刃文は直刃調子に浅く湾れた刃取りで足が入り、小乱れを成し、随所に砂流が見られ、金筋入り、変化に富む。帽子は表裏直ぐに掃き掛けて丸く返る。
 
付属の拵は当店にて誂えました簡易武用拵で、店主町井勲による入念な芯合わせがなされています。鮫は暗朱とし、柄糸の黒色との配色に合わせた洒落た下緒を付けました。鐔は後にお好みの物に交換されることも想定し、現在付いている鐔より厚い物にも対応できるよう、切羽を一枚多めに仕立てています。鞘を払って構えると、重心は中程にあり、実際の重量よりも軽く感じられ、先幅が広い豪壮な一刀故に、斬撃力は大きなものでしょう。鑑賞用としてはもとより、居合や刃筋確認(試斬)にもご活用頂ける一刀です。
 
裸身重量953グラム。  拵に納めて鞘を払った重量1,198グラム。
 
 
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豊後住本荘鉄心士國行作 昭和六十年九月日

豊後住本荘鉄心士國行作 昭和六十年九月日
– Bungo ju Honjo Tesshinshi Kuniyuki –
 
 
本名本荘鉄男。大分県日田市三芳小淵町で作刀。戦時中には陸軍奨励賞を受賞した経歴を持つ名工です。
 
この刀は元先の差が程好く開き、反りやや浅目で切先やや延びごころの斬撃力高い姿。地鉄は大板目肌が柾流れ、総体的に柾気が強く肌立った地鉄に、匂口明るく冴えた直刃を焼き、刃縁には解れ風の刃や湯走、打除等が見られ、金筋を交え、帽子は直ぐに先掃き掛けて沸筋を食い下げ、先大丸に横手下まで長く焼き下げています。
 
付属の拵は時代金具が用いられており、柄にがたつきも無くしっかりとしています。鞘塗は石目なので鞘送りや鞘引きに適しており、鞘から払って構えた際には、手元から中程の重心なのでバランスが良く、扱い易さを感じさせます。
 
裸身重量801グラム。  拵に納めて鞘を払った重量1,115グラム。
 
 
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無銘(義光)

無銘(義光)
– Mumei(Yoshimitsu) –
 
 
長船義光は通説に景光の子、兼光の弟と言われている。現存作による上下限の年紀を見るに、鎌倉時代末期の元亨から南北朝期の貞治にわたり、凡そこの間四十年、兼光と活躍気をほぼ同じくしている。通常、兼光同様北朝年号を使用するが、興国六年(貞和元年)の短刀など南朝年号を用いたものも現存している点が注目される。彼の初期の作風は兼光風であり、南北朝期に入ったものは兼光に類似している。
 
この刀は、板目に杢が交じった鍛えに、地沸が微塵に厚く付き、地景が細かに入って、乱れ映りが立ち、刃文は小互ノ目に小丁子風の刃・尖り刃・小湾れなど交じり、総じて乱れが小模様となって小足入り、金筋がかかるなどの出来口を示している。鍛えは精微でありがら、野趣に富み、乱れは小模様となり、義光の特色がよく現れており、刃中や刃縁の働きが秀逸で、同工極めの優品と言えよう。
 
裸身重量685グラム。
 
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大和守藤原金蔵

大和守藤原金蔵
– Yamato no kami Fujiwara Kanekura –
 
 
金蔵は関の刀工で、主に江戸前期の寛文頃に活躍しました。江戸に於いても作刀しています。銘字の『金蔵』が「金の蔵」に語呂が通じることから、寿命同様に験の良い刀剣として、士のみならず商人もこぞって金蔵の作品を蔵したと言われます。
 
この鍛刀は薙刀の如く、元から先に行くに従って身幅が広い異形の造り込みが印象的。地鉄は杢目肌少しく肌立ち、刃文は湾れ調子に互ノ目を交え、刃中に砂流現れ、刃縁には大粒の沸が豊かに取り巻き、帽子は表裏共に乱れこんで先丸く返っています。
 
付属の拵は赤銅槌目地の一作金具の合口拵のうぶ品で、当時の頃から付属したいたものかは判りませんが、鉄地に瓢箪図の小柄も付属しており、合口部分は柄側が凸で鯉口側が凹の造り。小柄櫃には茶系の羅紗が貼られています。良い拵ですので拵も保存刀装鑑定を是非御受審下さい。
 
裸身重量166グラム。  拵に納めて鞘を払った重量258グラム。
 
 
各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。

無銘(宇多國宗)

無銘(宇多國宗)
– Mumei (Uda Kunimune) –
 
 
宇多派は鎌倉時代末期の文保頃に、大和国宇陀郡から古入道国光が越中に移住したことにより興り、以後室町時代に渡って繁栄しました。
中でも鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての作品を古宇多、室町期の作品を宇多と、それぞれ称呼しています。
宇多國宗は國光の子で、國房の弟であり、同名が数代に渡り繁栄しました。
 
この刀は磨り上げられても尚、元先の差が開き、切先延びごころで、スラリと鋭い印象の姿に、よく練られた小板目が柾流れ、少しく肌立ち、淡く映りごころも観られます。刃文は湾れ調子に互ノ目を交え、幾重にも金筋砂流かかり、刃中の働きに富む。帽子は直ぐに丸く返る。
 
付属の拵が二つ在り、一つは特別貴重刀剣認定書が付いた時代物で、塗華やかで柄は卯の花色。もう一方の黒蝋塗の拵は居合稽古用に誂えられたもので、鯉口から栗形下部迄鮫皮で補強がなされ、柄糸は深緑に金茶の胡麻模様で人目を惹く仕立てになっています。
それぞれの拵を鑑賞用と実用とで使い分けてお楽しみ頂ければと思います。刀身、拵、共に認定書付きで更にはもう一つ拵が付いてのこのお値段。お買い得かと存じます。
 
裸身重量698グラム。  拵に納めて鞘を払った重量 変塗1,019グラム。 黒蝋塗989グラム。
 
 
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