無銘(尻懸)

無銘(尻懸)
– Mumei(Shikkake) –
 
 
大和五派(当麻・保昌・手掻・尻懸・千手院)中、尻懸派は則長を事実上の祖として大いに繁栄した、現在の奈良県天理市岸田町尻懸の刀工郡で、尻懸との名の由来は大和神社の神輿が休息する為に設けられた四角い台石(尻懸石)からきています。 尻懸派の事実上の祖とされるのは、則弘の子と伝えられる初代則長で、文保三年(1319)48歳の行年銘が入った作品や暦応三年(1340)69歳の行年銘が入った作品が残されており、それによって逆算すると、文永9年の生まれであることが窺がえます。 この時期の大和物は地鉄が極めて精美な作が多く、尻懸派の特徴としては、鎬が高く、鎬幅広く、板目が流れごころで刃文は直刃基調ながら小互の目が連れて焼かれている点が挙げられます。
 
この刀は大きく磨り上げられるも、今尚身幅重ね共にごりっと健全な姿を留めており、地鉄は小板目流れて柾がかり、良く練れて詰むも少しく肌立って地景入り、直ぐ映り立つ。刃文は匂口明るく冴えた直刃調で僅かに湾れ、小足入って小互ノ目を成し、刃縁は盛んに砂流がかかり、打除風の刃を交える等、古雅で趣深い出来口を示しており、帽子の焼刃も焼幅広くしっかりと残っています。
是非とも重要刀剣審査を御受審下さい。
 
裸身重量830グラム。
 
 
各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。

豊州高田住藤原統行

豊州高田住藤原統行
– Hoshu Takada ju Muneyuki –
 
 
豊州高田派は、豊後国高田地区(現大分市鶴崎近辺)で栄えた刀工一派で、南北朝時代豊後高田(現在の大分市内で大分郡高田村)を中心として栄えた一派で、建武頃の筑前左文字の門人『友行』を始祖としています。
古刀期の作に平姓を銘切るものが多いことから、それらを平高田と称し、新刀期以降は藤原姓を銘切るようになったことから藤原高田と汎称し、古来より実用刀としての評価が高い一派で、武用刀として数多の武将に愛用されました。
戦国時代の同派は豊後国の大友宗隣のお抱え工となり、また九州各地の豪族達の需めに応じて美濃国の関鍛冶や備前国の長船鍛冶に匹敵する繁盛をしました。作風は備前・相州に私淑した物や、美濃伝風の三本杉尖り互の目、山城風の腰反り付いた姿の良い作に直刃を焼くなど広範囲で、直刃は刃中に針で突いた様なと形容される葉の働きが特徴的で、新刀期に入ると高田を中心として豊前小倉や豊後中津などで鞴を構えて鍛刀しています。
 
統行は新刀高田物を代表する刀工で俗名を中摩新五郎。戦国大名大友義統より一字を賜り統行と名乗り、新刀高田の祖と呼ばれ、業物としても知られる名工です。
 
この刀は二代辺りの作と鑑せられ、元先の差がさほど開かず、先幅広めで切先延びごころの力強い姿。地鉄はやや黒味を帯び、小板目が詰んで流れ肌が交じり、淡く映りごころがあり、刃文は匂口明るく、締まった直刃を基調に処々小湾れを交え、刃中には足や葉が頻りに入り、古調な雰囲気を漂わせ、帽子は直調に焼きたっぷりと丸く返っています。
 
附属の拵はうぶの品ではありませんが、四分一磨地の一作金具で、殊更鞘の仕立てが面白く、網を掛けた上から漆で塗り固めて研ぎ出した蜂の巣模様が印象的。現在このような特注鞘を誂えようと思えば相当な費用が必要でしょう。雰囲気良く拵だけでも独り歩きできる逸品です。柄にガタツキは無くしっかりとしています。
美術鑑賞刀として内外共に価値ある一刀を是非この機会にご入手下さい。
※鐔鳴りが気になる方は責金をなさってください。
 
裸身重量704グラム。  拵に納めて鞘を払った重量1,037グラム。
 
 
各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。

関住兼門

関住兼門
– Seki ju Kanekado –
 
 
銘鑑を繙くに、新刀期に兼門と名乗る刀工が四名見られますが、この刀は寛文頃の作品かと思われます。
緻密に練られた地鉄は詰んで精美であり、小さな鍛錬疵一つない見事な鍛えには感嘆するばかり。刃文は匂口明るい互ノ目乱れで、焼頭は丸く、高低差が少ないため上品であり、刃縁には細かな砂流が看取され、帽子は表はやや乱れ、裏は直ぐに乱れごころに先丸く返っています。
古研ぎではありますが、研磨は下地も仕上げも良い真面目なもの施されているため、姿は凛としており、地刃のご観賞も清々しい心持でお楽しみ頂けます。
手元重心でバランスが頗る良く、手にとって構えてみると非常に軽く感じられます。本刀のような刃長短い刀は上士の註文による物が多く、現存する作品には名品が多く残されています。
 
尚、既製品の鞘に綺麗に刀身が納まりますので、安価にて拵の製作が可能です。御希望の方はお気軽に御用命下さい。
 
裸身重量665グラム。
 
 
各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。

相州住助廣

相州住助廣
– Soshu ju Sukehiro –
 
 
この刀は元先の差が開き、切先延びた豪壮な造り込みで、茎はいかにも相州物らしい舟形。地鉄は小板目がよく練れて詰み、地沸付いて少しく肌立ち精美。刃文は沸本位で湾れ調子に互ノ目を焼き上げ、刃中には砂流や金筋が入り、飛焼風や打除風、湯走風の刃が交じり、鋩子は直ぐに丸く返っており、賑やかな出来口を誇っています。
 
残念ながら銘は感心できませんが、美術鑑賞刀としての力は強く、ご所持頂くに恥じない出来栄えの良刀ですので、是非とも銘を潰し、無銘にして保存刀剣鑑定を御受審下さい。
 
裸身重量746グラム。
 
 
各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。

鐔3点追加いたしました。

鐔3点追加いたしました。

無銘


無銘
– Mumei –
 
 
元先の幅差程好く開いて反り浅目。如何にも物斬れしそうな姿。地鉄は杢目肌よく練れて肌立ち、ほのかに白気映りごころがあり、地景入る。刃文は兼元に代表される三本杉。匂口は明るく、乱れの谷に足入り、尖りごころの互ノ目を交え、細かな砂流見られ、沸筋、金筋入る。後代の兼元のような仰々しい尖り三本杉ではなく、総体に丸みを帯びた三本杉故に、柔らかみを感じさせる出来口。帽子は乱れこんで先丸く返る。
保存刀剣鑑定を受審された場合、後代兼元や末関辺りで極めがつくかと思われます。
 
裸身重量618グラム。
 
 
各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。

杉王正友作 昭和五十年十月日

杉王正友作 昭和五十年十月日
– Sugio Masatomo –
 
 
元先の幅差さほど開かず、先幅広い豪壮な造り込み。地鉄は小板目肌よく練れて詰み、地沸ついて細かな地景入り、刃縁柾となる。刃文は小沸本位で緩やかな湾れ調子に互ノ目を焼くも、互ノ目が丸く独立し、あたかも直刃の上に数珠を並べたような面白い刃文。刃縁には所々大粒の沸が絡み、刃中には砂流も顕著に見られ、帽子は直ぐに先掃き掛けて焼き詰め風となる。
手元重心で手持ちバランス良く、武用刀としてもお薦め。
現在店主町井勲監修の下、武用拵を製作中です。
 
裸身重量858グラム。
 
 
各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。

無銘


無銘
– Mumei –
 
 
元先の幅差程好く開き、切先延びた鋭い姿。地鉄は小板目杢交じりで柾流れ、少しく肌立ち、地景入り、刃文は湾れ調子に互ノ目と丁子を焼き、尖りごころの刃や蛙子丁子風の刃を交え、刃中砂流顕著に見られ、足入る。
 
付属の拵には柄にがたつきもなく、柄の金具は全て三ツ星紋で統一されており、格式の高さを感じさせます。鞘を払って構えてみると、手元重心でバランスが良く、片手操作にも適しています。
時代を江戸前期と表記しましたが、室町末期迄遡るかもしれません。
 
裸身重量769グラム。  拵に納めて鞘を払った重量1,082グラム。
 
 
各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。

藝州住出雲大掾正光 嘉永六年八月日


藝州住出雲大掾正光 嘉永六年八月日
– Geishu ju Izumo daijo Masamitsu –
 
 
石橋正光は尾張国青木元長の弟子と伝えられ、享和2年(1802)に刀工正長の四男として山県郡高野村(現同郡北広島町)に生まれました。兵七、弘之進とも称し、三人の兄も刀工だったようですが、現存する作品が少なく、詳しい事は不明ですが、技量的には正光が最も秀でていたようで、数多くの優品が遺されています。
正光の年紀入りの作品で最も古い物は天保五年(1834)とされてますが、文政十二年(1829)には出雲大掾を受領しており、三十歳頃にはそれなりの実績をあげていたものと思われます。天保八年(1837)には隣村移原(現北広島町)に移住して独立。安政5年(1858)には扶持米取りとなり、広島藩浅野家の御用鍛冶となりました。
元治元年(4864)十月には、背景に長州戦争が深く関与していると考えられますが、隣藩である浜田藩から200振もの注文を受け、息子の卯吉、弟子の宮太と共に、翌年7月には納品したと記録にあり、一年もかからず200振の刀を鍛え上げたその仕事の早さには驚嘆させられます。
武士の世が終焉を迎え、文明開化の明治に入っても、正光は槌を振るい続け、確認されている最晩年作は明治八年(1875)で、正光はこの時75歳。翌年には廃刀令が布告され、日本刀を巡る環境の激変を見届けつつ、その三年後の明治12年(1879)に78歳の生涯を閉じました。
 
この刀は嘉永六年(1853年)の年紀があることから、正光51歳の作品で、元先の幅差やや開き、反り深めで切先延びた姿は、優雅さの中にに刃物としての鋭さを感じさせます。地鉄は小板目よく練れて詰み、地沸ついて細かな地景入り、刃文は匂口締まりごころで中直刃調に互ノ目を巧みに焼き上げ、互ノ目の間隔が詰まって互ノ目足が目立つ部分は、馬の歯を連想させます。所々に柔らかい感じの小沸が付き、帽子は表裏共に直ぐに先丸く返り、茎は生ぶで錆色も良く、鑢目も刻銘も文句無し。
芸州正光は鍛、焼刃ともに非常に上手で腕前に定評がある名工。手元重心で非常にバランスも良く、広島のお客様には郷土刀としても御奨めの一振です。手元重心で非常にバランスも良い。
 
裸身重量682グラム。
 
 
各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。

(大小)重秀 嘉永元秋

(大小)
重秀 嘉永元秋
– Shigehide –
 
 
重秀は直胤の門人で、大村藩士と銘切る作品が見られることから、肥前国大村藩の士(さむらい)鍛冶であったようです。
大村藩は肥前国大村(現:長崎県大村市)を本拠地とした外様の小藩で、中世から続く在地領主の大村喜前(よしあき)が、豊臣秀吉により所領2万7900石を安堵され、初代藩主となり、関ヶ原の戦い後も徳川家康に所領を安堵され、幕末まで存続し、倒幕の際に立てた功から賞典禄として3万石を受給しました。
 
この大小は年紀に至るまで同銘で、明らかに註文打であることが窺い知れます。
大刀:元先の幅差程好く開き、切先延びた豪壮な造り込み。地鉄は板目肌よく練れて少しく肌立ち刃縁柾となり、地沸付き、地景入る。刃文は小沸本位の匂口明るく冴えた互ノ目乱れで、互ノ目は丸く、間延びし、足入り、総体に砂流が顕著に現れ、二重刃風の刃や金筋も見られる。帽子は表裏共に直ぐ調にやや湾れ、砂流顕著に先丸くに返る。
脇指:元先の幅差程好く開き、切先延びた豪壮な造り込み。地鉄は板目肌よく練れて詰み、刃縁柾となり、地沸ついて地景入り、少しく肌立つ。刃文は小沸本位の互ノ目乱れで、匂口は明るく冴えており、丸く背が高い互ノ目の間に、湾れ調子に間延びした互ノ目を挟み、湯走、金筋現れ、総体に砂流が顕著。帽子は表裏共に直ぐ調にやや湾れごころを交え、砂流かかって先丸く返る。
 
大小共に板目鍛えを主とした作品で、刃中の柾目に絡んで現れた砂流は、あたかも霞がかる山々を見るが如し。まさに地刃の中に、自然の雄大なる姿を鑑賞することができる重秀傑作の大小です。
 
大刀:裸身重量745グラム。
脇指:裸身重量415グラム。
 
 
各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。