嫌な奴

私は天心流兵法と名乗る団体に対し、その系譜の信憑性や三つ葉葵紋と柳生笠紋の盗用、初心者や外国人に誤解を与えかねない刀剣所作などについて、批判を繰り返している。
逆の立場になって考えれば、私の言動は辛辣であり、とても嫌な奴であると思う。
因果応報と言う言葉があるように、人に対して行ったことは自分にも返って来る。
当然ながら私自身も天心流関係者と思しき者から嫌がらせを受けている。
これに対しては自ら噛み付かれる言動をしたため致し方ないものと腹は括っているが、いやはや疲れるばかり。

勘違いして欲しくないのは、私が天心流兵法や中村氏、鍬海氏を嫌い、憎んで批判をしているわけではないということだ。
全ては深すぎる愛刀精神と、日本武術史に対する思いからである。

柳生のブランドには憧れる者が多いためか、実は柳生の系統を騙る系譜捏造が疑わしき団体は他にも存在する。
柳生に限らず槍術や体術の流派にも系譜が怪しいものを私は知っている。
過去、とある団体に関しては、語学堪能なる知人を頼り、その系譜が捏造されたものであると海外において発表したことがある。余計なお節介なのは百も承知だが、日本の古流武術だと信じて稽古している海外の方に、事実を知らせる必要性を感じたからだ。

天心流に関し、過去のブログ記事にも記述したが、私はネットで知り合った方が居合・剣術の道場を探されている際、天心流にお世話になろうと思うとの報告を受けた時、それを反対することはしなかった。むしろ、たまにしか稽古に出れないがためにモチベーションが下がってしまうよりは、近くで頻繫に通える道場を選ぶのも方法の一つだと答え、天心流に入門するのもよかろうと答えた。ただ、彼らが発信する情報全てを鵜呑みにするのではなく、しっかりと咀嚼する必要性があることだけは覚えておいた方が良いとアドバイスした。

天心流の技法に関しては、私が求めるものとは路線が異なるため、私がとやかく言うべきことでもないが、これまで培ってきた経験から言うと、武術色が濃い殺陣であり、武術そのものとは言いがたいと私個人は考えている。
その根拠としては刀の構造、物理的な現象を理解できていないからで、私は空想世界での剣術のように感じられて仕方がない。

柳生の系統を騙る道場で真摯に汗を流す知人がいるため、これは書くか書くまいか非常に悩んだのだが、私はとある柳生系統と騙る団体と天心流が、元は同じところの出自ではないかと考えられてならないのだ。共通点が非常に多い。
知人に遠慮してその団体の名は出さないが、その団体の出自は柳生新陰流の使い手を演じる映画や時代劇の中で、とある殺陣師が創作したとされるものである。天心流兵法のサイトはご都合よく改編されているので、今ではその記述も写真も削除されているかもしれないが、私の記憶が確かなら、写真付きで天心流兵法が時代劇と関わりがあったとする記述があったように思う。
天心流と名を伏せるもう一つの団体(以降便宜上団体Aと呼称する)に共通点が多く、また、刀をぞんざいに扱う様子にも疑問を感じた私は、名古屋で柳生新陰流を教授されておられる加藤先生の門弟さんにいくつか質問をしたのだが、天心流と団体Aが行っている所作に対し、柳生新陰流ではそのような所作は行わないと、ハッキリ否定される言葉が返ってきた。

本家柳生新陰流では行わない所作を天心流と団体Aは当然のように行っている。それがどの所作なのかはここでは割愛するが、この二団体の出自が時代劇の殺陣師創作の流儀なら、天心流が発信する情報に関しても合点納得いくものが多い。

当然の所作のように天心流が言うところの杖太刀の所作をとる三船敏郎氏。

レッド・サンという映画の中では刀(太刀)をそれはそれは大層に扱っていた三船敏郎氏も、撮影の休憩時には下写真の有様だ。

今では大量生産品の模擬刀等が小道具として使われているが、数十年前までは刀身を竹光に差し替えた本物の日本刀の拵が映画・時代劇小道具として使われていた。
黒澤映画ではシルエットにも拘った黒澤明監督が、本物の甲冑と刀装具を撮影に用いている。京都に在る小道具会社「高津商会」では、そうした映画小道具として使ってきた武具甲冑が多数収蔵されており、中には重要文化財に指定されているものもある。

映画や時代劇に携わったことがある私は、現場での武具甲冑の取扱を見て驚きを隠せなかった。映画関係者にとって刀は魂ではなく、あくまで小道具に過ぎない扱いなのだ。だから平気で跨ぐし、故意ではないにしろ蹴飛ばしてしまったりもする。他分野のことでもあるし、私はギャラを貰ってその場にいる立場上、それらの行動を諌めることは憚ったが、とあるADが私が貸し出した真剣を跨いだ時には、撮影監督に「あれは小道具ではありません。武士の魂です。」と、そのADに謝罪させるようお願いしたことがあります。
と、まぁ撮影現場はこんな様子ですから、上に紹介した三船敏郎さんの写真にも、刀に対する思い入れは感じられません。役を演じている中で監督の指示通りに杖太刀をしているわけではない休憩時の写真がそれを物語っています。
三船さんの職業は武士ではなく役者であり、役者にとって真剣・竹光に拘らず、刀はあくまで小道具なのですから…

水月塾のブログに於いて、綿密な調査によって系譜に誤りを示唆された天心流兵法。江戸時代に存在したとされる天心流とのつながりを証明するものは現在のところ何一つありません。伝書類はその価値を知らない石井家の縁者?が全て焼却処分にした等都合が良すぎます。
時代劇や時代物の映画がお好きな方、また、天心流贔屓の方、古い古い時代劇や映画をご覧になると、どこかで見覚えがある所作が劇中に発見できるかもしれませんよ。※剣術に限らず槍術にも注意

最後にもう一度記述します。

私は天心流兵法なる団体が憎いとか、中村氏や鍬海氏が嫌いだとか、ましてや天心流兵法への嫉妬などから天心流兵法を批判しているわけではありません。
度が過ぎる過大広告や、素人・外国人に誤解を与える情報の発信、刀をぞんざいに扱う所作の動画と、なんの証拠も根拠も無き逸話の公開を自粛し、将軍家から使用許可を得たわけでもなき三つ葉葵紋と柳生笠紋の盗用、江戸柳生や宝蔵院の名を騙る行為を謹んでもらえれば、私はネチネチと批判し続けることはしません。
と言いますか、そろそろ天心流兵法批判から私を卒業させてはいただけませんかね? 正直疲れているんです。正論説いても理解しようとしないどころか、ネットで嫌がらせしかしてこない天心流兵法関係者との小競り合いに(苦笑

正確さを磨く ~抜付の初太刀~

昨夜の大阪北道場定例稽古から

抜付の正確さを養う稽古です。

正面に座す者の視力を初太刀で奪うという修心流居合術兵法(無双直伝英信流町井派)の形想定に従い、巻いた畳表の上に直径3センチ程に丸めたティッシュペーパーを置き、それを正確に抜付で斬りつけるというもの。

単にティッシュを落とせば良いというものではなく、確実に狙いが定まっているかをティッシュの飛び方、落ち方、落ちる方向などから精査していきます。

畳表は高さ90センチ程、己と同じ背丈の人間の目線の高さはこれより10~15㎝程高くなるのですが、相手は常に己と同じ背丈とは限りませんので、様々な高さに対応できなければなりません。そう言った意味でもいつもよりやや低めの仮標に斬り込むことは良い稽古になります。

この動画の中では 01:26 と 01:44 あたりの抜付が自己評価としては良い方で、両者で言えば 01:44 の抜付が最も理想的です。

両者の違い、また、他の抜付動画との違い、読者の皆様はお気づきでしょうか?

私が追い求める抜付とは、鞘払いの音も無く、繰り出される刀の樋音しか聞こえない抜付なのです。

音を発さぬ抜付は非常に難しく、私も毎回理想通りに抜けるわけではありません。何故音がしない方が良いのか? その答えは単純なもので、刀に一切の負担をかけさせないためです。

近頃は速く抜けばそれが居合・剣術だと勘違いしている修行者が目立ちます。勿論速く抜くことも大切なこととは思いますが、まともな身体捌き、鞘引きを身につけていない技量不十分な者が速さに頼ると、以下の写真のようになります。

未熟者による抜付1-1 未熟者による抜付1-2 未熟者による抜付1-3

 

お解かりでしょうか?

まともな修業を重ねていない者による速さに頼り切った抜付では、刀が大きく撓り、正確に狙い定めた位置に剣先が行かないどころか、骨に当ると刃毀れを招き、刀身を曲げてしまいます。

同じ動きを正面からも見て見ましょう。

未熟者による抜付2-1 未熟者による抜付2-2 未熟者による抜付2-3

 

たとえそれなりに速く抜けたとしても、見る者が見れば使えない、侍の真似事でしかないことが判ります。斬撃性が無く、平叩きなので打ち身または打撲程度の怪我しか負わせることはできません。

しかし、悲しいかな世の中の人全てが居合や剣術に精通しているわけではありませんので、速さにごまかされてしまう素人が多いのが現実です。素人でも眼が肥えてくれば自ずと可笑しいことに気付き、本物の古流武術に鞍替えするのでしょうが、それに気付けず数年、十年と続けている夢見る素人がたくさんいます。

悪い見本として丁度良い動画から画像を抽出させて頂きましたが、これは各連盟で居合を修業されている方々にも言えることです。

稽古を重ねていく中で、刀の横手にヒケが多数入っていたり、横手が消えたり、横手が変形したり、鯉口を削ったり、鞘の刃方を削りながら抜付を行う者が居合修業者の99%と言っても過言ではありません。

師匠選び、道場選びの大切なポイントは、私の拙著「最強のすすめ」にも記していますが、本物の抜付ができているか、身体捌きができているかは、その人の刀と鞘を見れば一目瞭然であり、抜付の初太刀で樋音、刃音が出ていない者から学ぶべきものは何もありません。

まともな抜付を身につけたい場合は、まともな抜付ができる者に指導を受けるのが宜しいでしょう。速さでごまかすところからも得るものは何もありません。