先のブログ記事を掲載した後、天心流兵法を名乗る団体が、いつものように後出しジャンケンの如く、言い訳記事をブログやツイッターで発信するであろうことは予測していました。
案の定必死になって刀を立てていたり、杖にしているような古画を引用して自分達の主張を正当化しようとしています。
必死になってネット検索している姿が目に浮かびますが、その努力をもっと別の方向に使えば良いのにと思うばかりです。
間違いを認める勇気も必要。そうしなければ人は成長できません。
三枚掲げたうちの下二枚は、刀を杖のように立てているのではありません。更に補足しますと鐺を傷めぬ場であることが想像できます。
例えば二枚目の絵なら、店先の板の間もしくは畳の上でのこと。無論鐺は痛みにくい場所です。
三枚目は莚の上と推測され、こちらも刀を杖のようにしている画ではなく、周囲に第三者が詰めて居るため、刀を踏まれたり、跨がれたりしないように立てているだけの画です。
問題なのは一枚目の彦根屏風の一部分を抜粋したもの。
これは明らかに刀を杖のようにしてもたれかかっていますが、花見の酒宴の席を描いたものであることを忘れてはいけません。また、この人物のいでたちにも注目すべきであり、派手な服装からしてかぶき者と言われる小姓の可能性が考えられます。
解り易く言えば、中学校や高校の校則で定められた制服とは異なる変形学生服で登校するヤンキーです。
天心流が言い訳として発信した情報では、校則違反の変形学生服をまとった生徒のみを指して、「これがこの学校の制服です! 古画でも証明されています!」と言っているようなものだと思います。
もう一つ付け加えますと、抜粋された画だけを見ると、屋外で刀を杖にしているように見えますが、屏風の全景をご覧下さい。
画では省略されているものの、これは屋外ではなく屋内を描いたものであることが履物を履いていないことからも解ります。
つまり、刀の鐺は痛みにくい場であり、ましてや酒宴の席でのことですから、サラリーマンが酔った勢いでネクタイを鉢巻のように頭に結んだ状態を描いたようなものではないでしょうか。
天心流兵法なる団体の言い分には矛盾が多々見られ、あくまで自分達が発した情報が正しいものだとしてごまかそうとしていますが、人に教える立場の人間は、間違いを繕うのではなく、間違いを間違いだと認め、是正すること、改善することこそ絶対的に必要なことだと私は考えます。
間違ったものであってもそのまま受け継ぐのが伝統だと天心流兵法の鍬海氏はネット上で書いていますが、そんな伝統ならさっさと消滅した方が後世のためではないでしょうか。
こんな格言もあります。
伝統とは革新の連続である
と…
情報と言うものは発信する側によって意図的に操作できるものであることを忘れないで下さい。
抜粋された写真や記事は、全景全文を目にするべきです。
さすれば自ずと真実と答えは見えてきます。
間違った情報、操作された情報に惑わされないで下さい。
真実を見抜く眼を養いましょう。
私は居合や刀剣について全くの素人ですが 天心流の抜刀動画を見て身体の正中線がぶれているのに疑問をいだき このブログに辿り着きました
大刀は屋外に出るとき腰に帯び 室内に上がるときは外し 手に持つものではないでしょうか 状況に応じ座ったとき立てて持つことがあったかもしれません 特に所作とかいうもんじゃないと思います
天心流の公式サイトで自ら書いているように あれは香具師の大道芸ですね 明治になって職を失った武士が 剣戟や抜刀術を見世物にしたといいます ガマの油売りです 古流武術ではありません
正中線についての知識と眼力をお持ちであることは、とても素晴らしいですね。近頃は系譜捏造を当たり前のように行う団体が増えました。求めるものは肩書きや看板ではなく、技術鍛錬であることを忘れているように思います。
町井さんの指摘は正当。以下私見を。
杖太刀の根拠とされる彦根屏風を見るに右の若者の右手と柄にサゲオが巻き付けてあることから太刀を浮かせて下げているのではないか。加えてコジリと足の高さを水平位置の視点から比較するとコジリの方が足の位置より上にある。このことはコジリが床・地面よりも上にあるともみられる。