兼光作(関) ~内外共に鑑定書付きの名品~

兼光作(関) ~内外共に鑑定書付きの名品~
兼光作(関)
– Kanemitsu saku(Seki) –
http://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/katana/685/00.html

鎌倉時代末期から南北朝期(1333~1392)にかけて、志津三郎兼氏が大和国から多芸郡志津(養老郡南濃町志津)へ、同時期に『金重』が越前国から関へと移住。さらに越前から国長・国行・為継らが赤坂(大垣市赤坂町)へと諸国から移住し、美濃国の刀鍛冶は隆盛期を迎えます。
『日本刀銘鑑』によると永和(1375~1378)の頃、大和国からは『兼光』(右衛門尉・金行の娘婿、手掻包永の三男で初銘包光)が、一門鍛冶の兼明・兼弘らを伴って関の地に移住し、関鍛冶の祖鍛冶といわれています。
乱世の時代に関の地に移住した大和鍛冶らは本格的に活動を始め、兼光を祖とする関の刀鍛冶らは鍛冶仲間の自治組織である鍛冶座を結成し、刀祖神を奈良の春日大社から、関の春日神社(南春日町)に分祀。同社を関刀鍛冶の本拠地として活動して最盛期を迎え、関七流と呼称される善定派(兼吉)・室屋派(兼在)・良賢派(兼行)・奈良派(兼常)・得永派(兼弘)・三阿弥派(兼則)・得印派(兼安)の七派を形成して互いに技を競いました。
『室町期美濃刀工の研究』によると、室町期の最も古い年紀が切られた作品に『兼光 応永元年八月日』の短刀があります。南北朝期に関の地に移住した『兼光』は鍛冶座を創始した関鍛冶の金字塔であり、以降、善定派に属して室町時代を通じて数代続いたようです。

この刀は重ね薄目で切先が延びた鋭い造り込みで、杢目鍛えの地鉄には判然と映りが立ち、小沸本位の尖り刃まじりの互ノ目乱れを焼き、足良く入り、細かな砂流が顕著に見られる美濃伝色濃い出来口。現状古研ぎで指表物打と横手の間の刃縁に一部錆が見られるも、地刃共にじゅうぶん観賞に耐えうる状態です。戦が多かったこの頃の作は、兼光に限らずどの工も実用を主眼に鍛えられているため、使用上問題が無い小さな鍛錬疵は在って然るべきであり、本刀に対して疵云々を問うのは可笑しなものと考えます。一部に埋鉄が見られますが、附属する拵をご覧頂ければお解かりの通り、それだけ大切に伝えられてきた逸品である証と言えるでしょう。表裏に掻かれた三本の丈比べの腰樋も印象的です。

附属する拵は政光による曳舟図の揃い金具(縁頭、鯉口胴金、栗形、鐺)で、鐔は赤銅魚子地の群馬図、鞘は貝の中でも最上とされる青い部分のみをふんだんに用いた最高級の青貝微塵塗り。柄は鑑定書にもそのまま記述されている通り、蛇腹巻きによる上巻で、鮫は大粒の贅沢な物が一枚巻きとされ、はばきは江戸期としては非常に高価な金着せであり、この拵だけでも一人歩き出来る程の名品。本兼光刀の伝来の良さ、格の高さを誇示しています。

裸身重量617グラム。  拵に納めて鞘を払った重量948グラム。

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