於江府出雲大掾正光 安政三年十二月日
– Oite Koufu Izumodaijou Masamitsu –
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石橋正光は尾張国青木元長の弟子と伝えられ、享和2年(1802)に刀工正長の四男として山県郡高野村(現同郡北広島町)に生まれました。兵七、弘之進とも称し、三人の兄も刀工だったようですが、現存する作品が少なく、詳しい事は不明ですが、技量的には正光が最も秀でていたようで、数多くの優品が遺されています。文政12年(1829)5月に出雲大掾を受領。安政5年(1858)には扶持米取りとなり、広島藩浅野家の御用鍛冶となりました。元治元年(4864)10月には、背景に長州戦争が深く関与していると考えられますが、隣藩である浜田藩から200振もの注文を受け、息子の卯吉、弟子の宮太と共に、翌年7月には納品したと記録にあり、一年もかからず200振の刀を鍛え上げたその仕事の早さには驚嘆させられます。武士の世が終焉を迎え、文明開化の明治に入っても、正光は槌を振るい続け、確認されている最晩年作は明治8年(1875)で、正光この時75歳。翌年には廃刀令が布告され、日本刀を巡る環境の激変を見届けつつ、その3年後の明治12年(1879)に78歳の生涯を閉じました。
この刀は正光56歳時の作品で、身幅広く、重ね厚いごりっとしており、切先が延びて鋭さを感じさせるも、元先の差に開きがあって、どこか優しさと上品さをも感じさせます。杢目肌がよくねれて詰み、地景頻りに入って地沸厚く付き、匂口明るく冴えた小沸本位の直刃を焼き、二重刃風の刃や食い違い風の刃を交え、刃縁に荒沸が豊かに付き、それが地に零れ、更に厚い地沸を形成するなど、単調な直刃に見えるも見所多く、美術鑑賞刀として申し分ない覇気ある出来口で、正光の技量を余すことなく発揮した逸品です。正光の作品には直刃出来のものが多く、銘字は丁寧な楷書体で、本刀の銘からも、彼の几帳面さと実直さが感じられます。出来が良いだけに、与力有る方は更に良い研磨を施し、次世代へ大切に伝え遺して頂きたい名品です。
裸身重量816グラム。