東播住源利行作 ~兵庫県三木市の郷土刀 明石藩御抱工 三木市の鉋の礎を作った刀工~

東播住源利行作
東播住源利行作
– Toban ju Minamoto Toshiyuki saku –
 
利行は文政11年9月2日、三木町新町の生まれで、名を黒川太市郎と云い、播州三木に住した刀工です。利行の父である九兵衛は、鉋鑿等を鍛えていましたが、刀匠としての誉れもあり、利行には刀匠として家名を起こさんとさせ、利行も刀匠として名を上げんとおおいに努め、明石藩の御用鍛冶を勤めるまでになり、明石藩主、松平慶憲に可愛がられて毎月登城し、毎年一回、藩の家老が利行の鍛刀場を巡視。慶憲自身もまた鍛刀場を訪れていたと言います。
明治維新による廃藩置県により、藩主の東京移住に同行し、東京でも刀を鍛えましたが、時の流れには逆らえず、刀鍛冶を諦めて鉋鍛冶として余生を送り、その刃味で名声を上げ、銘じ39年11月1日に東京で逝去しました。腕は確かなれど、時流に飲まれ、刀鍛冶として一生を全うできなかった不遇の天才鍛冶と言えましょう。
昭和26年秋田県の大名登録刀であることから鑑ても、本刀の伝来の良さが判ります。
 
この短刀は重ね厚めでがっしりとした冠落造りで、棟は三ツ棟。地鉄は小板目肌が良く練れて詰むも流れごころを呈し、刃文は湾れ調子に互ノ目足を焼き、刃縁には細かな砂流が窺える出来口で、中心や銘文の状態も芳しく、流石に特別保存刀剣鑑定書が交付されるだけの良い逸品です。
元々実用刃物を手掛けていた家系にあったためか、作刀させてもその刃味が好評であったようで、上述の通り、明石藩主が自藩の御抱工として愛でていたことからも、見た目の美しさにとどまらず、実用刀としての強さも兼ね備えていることが窺えます。
また、黒川家は元々中屋姓だったようで、黒川姓は明石藩御抱工になった際に、藩主より賜ったものではないかと思われます。
尚、利行上京後も、子息である卯太郎が鉋鍛冶として父祖の業を継ぎ、黒川家からは多くの名鉋鍛冶が排出され、今尚兵庫県三木市に於いてその業が受け継がれ栄えています。
※現状、指表はばき上数センチのところの刃先に変色程度の小錆がございますが、1万円(税別)にて部分研磨お引き受け致します。
 
裸身重量274グラム。

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