正秀 ~御守刀にお薦め~

正秀

正秀
– Masahide –
https://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/tantou/199/00.html

銘鑑を繙くに、新々刀期に正秀を名乗る刀工は五名確認されています。
この短刀は無鑑のため、いずれの正秀なのか不明ですが、精錬された地鉄に明るく冴えた匂口を焼いており、指裏刃中に目立たぬ小疵があるも、それを負とも感じさせぬ出来口で、刃縁にはよく沸が絡み、刃中には砂流や金筋、稲妻等の働きが顕著に見られ、短寸ながらも様々な景色を楽しめる逸品です。重ねが厚めであるところからも、懐剣と言うよりは鎧通しとして鍛えられたものでしょう。
保存刀剣鑑定も是非御受審なさってください。

裸身重量112グラム。

奈良太郎藤原兼永以耐錆鋼作之 ~幕末の金工、一廷による伊勢海老図一作揃金具の拵入り~

奈良太郎藤原兼永以耐錆鋼作之 ~幕末の金工、一廷による伊勢海老図一作揃金具の拵入り~
奈良太郎藤原兼永以耐錆鋼作之
– Nara Taro Fujiwara Kanenaga –
 
本名は河村永次郎。岐阜県関金屋町に住し、刀匠銘を奈良太郎藤原兼永と号しました。
刀鍛冶として、又、冶金家として刀剣の他にポケットナイフ・金属彫刻・美術工芸品などに才能を発揮し、日本に於 ける最初のクロームスチールの刃物生産に成功しました。
大正10年、東京に於ける平和博覧会では「錆びない鋼」と云われたステンレス鋼のクロームスチールに、独特の硬度を加味して良く切れるナイフ・レザーを出品。好評を得ました。これを日本刀に活用し、その強靱さと鋭利さ及び特技の彫刻が絶賛を受けました。
永次郎の子である寛は二代目の藤原兼永を継ぎ、鍛錬技術や金属加工に精錬して、その技術は父に勝るとも劣らぬ名人と云われました。
 
この刀は軍刀刀身としてではなく、当時の数寄者によって註文されたもので、青貝を散り撒いた本漆による石目塗り鞘の拵がかけられており、切羽は耐錆鋼刀に相応しいアルミ製。金具は幕末の金工である一廷の手になる見事な伊勢海老図の一作揃いが用いられており、当時画期的であった耐錆鋼による一刀への、註文主の入れ込み様が感じられます。
刀身はよくよく見ると匂口沈んだ中直刃が確認出来ます。入念に内曇砥を引けばどれほど匂口が立つのか、個人的にとても興味そそられる昭和が生んだ実用刀。耐錆鋼による刀は古式鍛錬法にのっとらないため、美術刀剣としての登録証がなかなか交付されないため、市場に出回ることが少なく、入手困難な珍品です。
 
裸身重量717グラム。  拵に納めて鞘を払った重量1,033グラム。

於東武因幡國頴悳作之 天明三癸卯八月吉日(寿格初銘)

於東武因幡國頴悳作之 天明三癸卯八月吉日(寿格初銘)
於東武因幡國頴悳作之 天明三癸卯八月吉日(寿格初銘)
– Oite Tobu Inabanokuni Toshinori –
 
江戸後期、山陰地方因幡国に於いて多くの門人を輩出し、隠然たる勢力を天下に知らしめた濱部一派。その棟梁である濱部壽格は、江戸の水心子正秀に対抗出来る程の名声を得ました。
壽格は延享3年(1746年)鳥取の生まれで、名を濱部権左衛門と称し、後に九郎左衛門と改めました。日置兼先に鍛刀を学び、初銘を兼賀、頴悳(としのり)と切りました。天明5年(1785)、41歳の時に美濃守を受領すると銘を壽格と改め鳥取藩工となりました。
天明・寛政年間(1781~1800)には二度に渡って江戸に出て、刀工・刀剣鑑識家の松村昌直や刀剣研究家の鎌田魚妙に教えを受け、更には備前池田家と因幡池田家の因縁関係もあって、備前長船の地で祐定から備前伝を学ぶなど精力的に所伝を実践研究しました。
奇しくも同時期に江戸で活躍した水心子正秀より4歳年上で、多くの門人を輩出して隠然たる勢力を天下に知らしめた壽格は、正秀と双璧をなす指導者として名声を得ました。正秀同様、真十五枚甲伏鍛えにて作刀しており、茎にそれを切り付けているものもあります。江戸、京、大坂でも鍛刀しており、河内守國助の拳形丁字乱れに似た、菊花丁字乱れの創始者としても名高く、 山浦真雄、清麿兄弟の師である河村壽隆は、壽格の子である壽實から作刀を学んだことから、俗に壽格を指して、清麿のルーツと称されます。
 
この刀は緻密に練られた杢目肌が良く詰むも少しく肌立って精美であり、そこに匂口明るく冴えた直刃を見事に焼き上げ、刃中には極短い足が散見され、刃境には地鉄に絡んだ繊細な働きも見受けられ、後に濱部一派を興すことになる壽格の若打ちたる名品です。
 
裸身重量797グラム。

義忠(大和・新刀) ~どことなく濤瀾乱れを思わせる地刃共に優れた名品~

義忠(大和・新刀)
– Yoshitada –
 
義忠は江戸前期後半から主に元禄にかけて大和で活躍した刀工で、その末裔刃物鍛冶として栄えています。銘鑑にはあまり詳しく記載されていませんが、恐らくは手掻系の刀工と思われ、左字に銘切るところから、陸奥守包保と師弟関係にあったか、深い交流があったものと考えられます。
 
この刀は小板目肌柾流れ少し肌立った地鉄に、どこか濤瀾を思わせる刃取りの互ノ目を焼き上げた作品で、匂口は明るく冴え、刃縁には小沸が頻りに付き、刃中には砂流や金筋が見られ、飛焼風の刃や打除等の様々な働きも看取出来、反りやや浅い姿からも、銘鑑に見る元禄と言う活躍期よりやや時代が遡った、まだ寛文新刀体配の面影を残す、延宝、天和、貞享辺りに鍛えられたもので、同時期名声を挙げた二代助廣の濤瀾刃に、少なからずとも影響を受けた作品ではないでしょうか。地刃共に冴えており、義忠の技量の高さをまざまざと感じさせる優作で、二尺四寸八分という長寸も魅力的である一刀です。
 
裸身重量899グラム。

濃州牧田住小谷包義作之 ~聖代刀匠位列、最上大業物横綱格として名高い昭和の名工~

濃州牧田住小谷包義作之
– Noshu Makita ju Kotani Kaneyoshi –
 
包義は本名を義三と言い、明治27年に岐阜県の牧田村(上石津町から現在の大垣市)に長男として生まれ、小谷家二代目の鍛冶職を継ぐことになります。後に、刀工を志し栗原昭秀(彦三郎)門人となり、研鑽の効あって刀工として頭角を現し、昭和16年9月20日の第一回師範講習会開講式に参加しています。
初期の切銘は「美濃養老住小鍛治包義作」、「美濃養老山麓住小谷包義作」と楷書で切り、後に「牧田住小谷包義作」と、書家の大野百錬より手ほどきを受けたと思われる草書で切っています。
昭和25年4月、57歳で没し、弟子の高木義直は終戦で作刀を断念しました。
 
包義は軍の要請を受け作刀に心血を注いだと言われ、栗原彦三郎が主管する日本刀学院に籍を置いて師範として活躍しており、包義の作刀技量は高く、昭和12年文部省後援で開かれた上野東京府美術館の第二回日本刀展覧会に出品して以来、終戦の前年まで出品を続け数々の賞を受賞しています。昭和16年新作日本刀展覧会では第一席の栄誉に浴し、また、侯爵大隅信常、陸軍大将荒木貞夫、海軍大将竹下勇、陸軍中将渡辺寿、福嶋保三郎、栗原彦三郎などの著名人が主催した昭和18年4月10日の文部省後援第八回新作日本刀展覧会に於いて、包義は特選入賞を果たし、聖代刀匠位列では貴品の列に名を連ね、最上大業物横綱格の評価を得ています。同年5月には陸軍中将渡辺寿と栗原彦三郎が小谷包義の日本刀鍛錬所を視察しており、包義の名人振りが窺い知れ、また、昭和17年に頭山満翁米寿奉祝刀寄贈刀匠(刃長八寸八分の短刀八十八振りを、八十八人の刀匠が各一振りずつ打った)にも選ばれています。名人と云われた包義ですが、その作品は少なく、この刀は包義を知る上で貴重な一振と言え、ほぼ二尺三寸という刃長からも、軍刀としてではなく、特別な註文に応じて鍛えられた一刀であることが窺い知れます。
 
古研ぎですが特段目立つ錆も無く、このまま御所持頂いても良いですが、数少ない包義の作品だけに、美術鑑賞用の上研磨をかけて頂きたく、研磨代等の諸工作費用を考慮したお求め易い価格でご紹介致します。
 
裸身重量815グラム。
 
 
包義刀匠展覧会受賞歴
昭和13年11月26日 第三回新作日本刀展覧会  第四席金牌
昭和14年11月26日 第四回新作日本刀展覧会  第三席総裁大名誉賞・推薦
昭和15年3月29日 第五会新作日本刀展覧会  第二席推薦
昭和16年3月27日 第六回新作日本刀展覧会  第一席特選
昭和17年4月2日 第七回新作日本刀展覧会  元老名誉作・準元老十二傑作文部大臣賞・特選
昭和18年4月2日 第八回新作日本刀展覧会  貴品の列特選

伯州住秀春 ~強度試験を合格したものにしか銘切らなかったと伝わる利刀~

伯州住秀春
– Hakushu ju Hideharu –
 
伯耆國八橋の刀工である伯州秀春は、本名を藤本和一郎と言い、文政4年8月7日、藤本林蔵の長男として八橋村に生まれました。天保9年17歳の時に汗入郡(現西伯町)の野鍛冶貞島伸吉の所に8年間奉公し、単調な野鍛冶に飽きて刀工を志し、弘化3年25歳の時に江戸に出て、出羽國出身で大慶直胤の門人である山本嘉伝次秀直の弟子となりました。鍛刀修行すること5年、師匠の名前を一字貰い受け『秀春』と命名。彼は帰国の途中、伊勢の神戸山田新町にて3~4年鍛刀しました。『伊勢国山田新町住一雲斎秀春』と銘切られた作品があると伝えられおり、安政4年、郷里八橋村に帰り刀鍛冶を開業。壮年以後の作刀に『尚春』と切ると言われ、『秀春』『尚春』は同一刀工であり、長男は『尚家』と切りその後『直綱』と改名したとも伝えられています。
作風は備前伝をよくし、鍛えは小杢目良く詰み無地風となり、刃紋は、匂の締まった直刃が多く、互の目の乱れ丁子刃等もあります。 また、【秀春】は出来上がった刀を雨石の間に渡し、その上から大石を落として強度試験を行い、折れたり曲がったりするとまた打ち直し、満足できる作品にしか銘切りを行わなかったと言います。
慶応2年八橋城主(池田家の家老)津田元永がこのことを聞き、抱え工となるよう勧めるも聞き入れず、その為八橋から追放され赤崎町の別所尻夫婦岩付近に追放されました。赤貧の中にも作刀に精魂を傾け力作を作ったといい、秀春が鍛える刀は折れず、曲がらず、良く斬れたそうで、原材料には日野産の印賀鋼を用いたそうです。 秀春は明治22年3月1日、69歳にて没し、その墓は八橋の妙覚山法輪寺にあります。廃刀令後は和一と銘し親子仲良く刃物、農具等を作るも、こちらも切れ味が良く、和一鍛冶の刃物は評判が高かったと言います。
 
現状のままでも地刃の御観賞は可能ですが、この刀に見合わぬ研磨がかけられているため、願わくば再度上研磨を施して頂きたく、研磨代を考慮した価格で御案内致します。
写真ではあまり匂口が冴えていないように見られますが、しっかりと内曇を効かせた研ぎに変えますと、利刀として名声高き秀春の明るく冴えた匂口と、緻密に練られた小杢目肌をお楽しみ頂けますので、是非とも当店に上研磨を御用命下さい。上研磨御用命のお客様には、研磨代応援費として5万円を当店が負担致します。
 
裸身重量815グラム。

源昭徳作之(刻印) ~豪壮且つ華やかなる一刀~

源昭徳作之(刻印)
– Minamoto Akinori –
 
昭和に岡山で活躍した中田昭徳の長大な作品。聖代刀匠位列に於いては「良工の上位」良業物小結格としてその名を知られます。
この刀は軍刀としてではなく、昭和26年の大名登録であるところからも、元大名士族や上流階級の者からの特別な註文で鍛えられた一刀であることが窺い知れます。
現状では手入れ保存状態が芳しくないため、ヒケや擦れ傷が目立ちますが、刃中の出来を見ればその出来の良さに驚かされます。
小板目肌良く練れて詰み、匂口明るく冴えた互ノ目に丁子を交えた華やかな刃文を焼き上げ、刃中は地鉄に絡んで砂流が顕著に現れ、小板目や杢目に沸が絡み、幾重にも渦を巻く鳴門の大海を見るような出来口を示しています。
然るべき研磨を施して、更に本刀が持つ変化に富んだ地刃の冴えをお楽しみ頂きたく、研磨代を考慮したお求め易い価格で御案内致します。
 
裸身重量1,042グラム。

無銘 伝 青江 ~南北朝中期の豪壮な姿~

無銘(伝 青江)
– Mumei(Den Aoe) –
 
青江は備中国高梁川の左岸に位置する子位庄(こいしょう)子位の旧称で、この一帯は南方に万寿本庄、南西部には万寿庄、北方には子位庄が広がり、いずれの地も鎌倉時代初期から南北朝中期に至るまで鍛冶が栄え、この派の鎌倉中期迄を古青江、南北朝期に至るものを青江と区分して呼ばれています。
一般的に青江と言えば身幅広い豪壮なイメージが強いかと思われますが、青江に限らず、身幅が広くなるのは南北朝中期の延文貞治頃の作品であり、南北朝初期や後期の作品は身幅が狭く上品で大人しい姿となります。
青江の特徴としては、地鉄が縮緬風にちりちりと杢目立つものや小板目肌が美しく詰むものが多く、平地には澄肌、鯰肌と称せられる地斑が表われ、刃文は直刃を主体に稀に逆がかる乱刃もあり、概して初期のものは沸づき、末期の物は匂本位となり、締まった直刃を本領としています。
 
この刀は、大きく磨り上げられるも身幅広目で身幅の割に重ねが薄く、切先延びた典型的な南北朝中期の姿を留めており、淡く映り立った地鉄に匂口の締まった直刃を焼き、刃中には逆がかった足が見られます。
現状古研ぎで地刃の観賞は可能ですが、良い刀だけにしっかりと研磨を施した上で、南北朝中期の青江物の地刃の冴えを存分にお楽しみ頂ければと思います。
 
裸身重量660グラム。  拵に納めて鞘を払った重量977グラム。

肥前国住保廣作 昭和五十年十一月十七日 ~大板目肌の豪壮な一刀~

肥前国住保廣作 昭和五十年十一月十七日
– Hizen no kuni ju Yasuhiro saku –
 
本名、元村保。明治43年生まれ。本名、元村保。戦時中には陸軍受命刀工として活躍した利刀の作者として知られ、聖代刀匠位列に於いては上工の列(大業物 関脇格)にその名を連ね、陸軍技術奨励会総裁賞を受賞しました。
 
この刀は身幅が広く、切先やや延びた豪壮な造り込みで、変わり鉄を交えた大板目肌を鍛え、直刃調子に互ノ目を交えた作品。手持ちずっしりとした剛刀故に、その重さだけで容易く対象物を両断しそうな感を与えます。
美術鑑賞刀として、また、居合、抜刀等の武用刀としてもお楽しみ頂ける一刀です。
 
裸身重量935グラム。  拵に納めて鞘を払った重量1,252グラム。

無銘(氷心子秀世) ~細身で手持ちが軽い古雅な出来口の一刀~

無銘(氷心子秀世) ~細身で手持ちが軽い古雅な出来口の一刀~
無銘(氷心子秀世)
– Mumei(Hyoshinshi Hideyo) –
 
氷心子秀世は、江戸麻布今里に住し、吉田秀一、田村郡平と称しました。
はじめ石堂運寿是一に学ぶと伝え、後に水心子正秀に師事し、正秀の婿、または、二代:水心子白熊入道正秀の婿になりました。
水心子正秀の晩年には、その代作を多く手掛けた上手であり、信濃の山浦真雄が江戸に出て正秀の門人となった際には、氷心子秀世が鍛刀法の手ほどきをしたと言われています。
 
この刀は、細身のスラリとした造り込みで、小板目肌柾流れて少しく肌立った地鉄に、明るく冴えた直刃を焼いた作品で、匂口は締まり、刃縁には小足や鼠足を交え、他にも繊細なる働きが看取される、水心子正秀提唱の復古論に従った古雅な出来口を示しており、手持ちも古刀の如き軽さでバランスが良い一刀です。
お求め易い低価格で御案内致しますので、是非この機会に、古刀のような新々刀の力作を御入手下さい。
※指裏側棟の中央に疵有り(写真参照)。
 
裸身重量627グラム。  拵に納めて鞘を払った重量868グラム。