無銘(宝寿)

無銘(宝寿)
無銘(宝寿)
– Mumei(Hoju) –
 
奥州には奈良時代から鎌倉時代にかけて多数の刀工が存在していたことを古伝書は伝えており、舞草・月山・玉造と呼称される蝦夷鍛冶らが挙げられています。
日本刀の源流をなす草創期の舞草鍛冶は岩手県一関市や平泉周辺を拠点に平安時代中期の安部氏に仕え、東北の都・平泉の軍備を担った集団で奥州鍛冶の中心的存在で、一関市北側の舞草神社と白山妙理大権現、馬頭観音を信仰し鍛刀に励みました。
鎌倉時代の古伝書『観智院本銘尽』には鬼丸・世安・森房・幅房・瓦安の五名が挙げられていますが、文治五年(1189)、平泉滅亡後は壊滅状態となっています。
 
宝寿(寶壽)は現在の宮城県玉造郡鳴子町鍛冶谷沢を拠点とした鍛冶集団で玉造鍛冶に属して、家則・貞房・寶壽などの刀工を輩出し室町時代まで数代にわたる作刀が続けられました。
立地条件から早期に律令制度に組み込まれ、奥州藤原氏滅亡後も延命しており、一部は諸国に移り九州系の刀鍛冶とも交流があったと考えられます。
 
「寶壽」銘の代表作、武蔵御嶽神社所蔵の正中(1324~)年紀のある豪壮な『宝寿丸黒漆鞘太刀』(重要文化財)は源頼朝に臣従し「宇治川の先陣争い」で活躍した畠山重忠が奉納したものと伝わっており、古備前の正恒は舞草有正の子と云われ、また伯耆安綱と奥州鍛冶の類似性など、宝寿は日本刀の草創期を語る上で欠かせない存在です。
 
この刀は板目肌柾流れて肌立ち、刃文は直刃基調に小湾れや互ノ目を交えて匂口潤み、刃中柾目に絡んで砂流頻りにかかり、地鉄が詰まず、寧ろ間が開いて肌立つ様は、いかにも宝寿らしい素朴で古雅な味わい深い出来口を示す作品です。
 
裸身重量704グラム。

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