自分で言うのもなんですが、私の追い求める居合は完成されつつあります。いや、既に完成したと言っても良いかもしれません。
現在、家庭環境や色んなものが変わりゆく日本で、実子達に技術を残すことが困難と判断したため、この技術をなんとか残したい一心から、時間がある時に私の居合論をせめて文字でだけでも残そうと思います。
私の世間の評価としては、他流批判が多いとか、自分こそが一番だと思っている。と言ったご意見をいただきます。
しかしながら私が追い続けてきた居合を語るに当たっては、他流批判したくなくとも、どうしても比較対象になるため、批判めいた言葉になってしまいます。
ですから己の居合を否定されるのが嫌だとか、私の他流批判を見たくないという方は、申し訳ありませんが私の記事を読まずにそっとブラウザを閉じてください。
まず、今回の題目にある『袈裟』についてですが、その概念を根底から覆さなくてはなりません。
袈裟と言えば単に斜めに斬ることだと一般的には教えますが、全くもって教える側も袈裟について理解できていないのが現在の居合、剣術の世界の有様です。
他者の居合形演武を見ると、樋が入っている刀を用いているのにもかかわらず、袈裟に振っても樋音が聞こえない。そういう現場をよく目にしてきました。
私の英信流居合の師であった吉岡早龍師ですら、時折樋音が聞こえないことが見られたものです。
何故樋音がしないのか?
答えは至極簡単なことで、腕で袈裟の角度を作っているからです。
全ての居合修練者を知っているわけではありませんが、私がここで言う武術としての袈裟が出来ている人は、なかなか見ません。
何を偉そうに言ってるんだと思われる方もいらっしゃるかと思います。
確かに文字や言葉だけでお伝えするのはなかなか難しく理解を得られないのも仕方ないかと思います。
そういった方の中で私が言う武術としての袈裟を知りたいと思って下さる方は機会を作って私の道場をお訪ねください。
お越しいただき体験して頂ければ納得していただけるようご説明いたします。
近頃はSNSの発達により、映える動画、写真を撮りたい素人さん相手に試斬会や試斬体験を積極的に開催する個人や道場が散見されます。現代の若い方が日本の文化に触れ知っていただけるのは嬉しく思うのですがその反面、私は常日頃から言っているようにこうした素人さんへの日本刀の損傷を招く試斬会には反対の立場にあります。
辛辣なことを書き綴りますが、はっきり言ってそういった道場の経営者様や試斬会の会主様は私の眼から見れば素人の方も多いです。しかしこうした経営者様や会主様が、武術や刀を知らぬ人にとっては、なんでも体験させてくれるありがたい存在のようで、刃筋もまともに立っていないのに、畳表が二つに切れている様子だけを見て、「流石ですね」「いつもながらお見事です」などと言ったよいしょよいしょのコメントを素人の方はSNSでつけるのです。
確かに経営者としては試斬会等で商売になるのなら、それは経営という角度から見ると正しい姿なのかもしれません。ですがそんなコメントに一喜する素人先生によって益々刀に負担をかける間違った刀法が広まり、それを漫画や絵のモデルとするため、刀剣や武術の知識を持たぬ人の間で、間違いが正しいものにすり替えられてしまうのです。実に嘆かわしいことではありませんか。
畳表は反撃してこない。刃筋とスピード、物理法則さえ合えば、多少刃筋が狂おうとも切れてしまうもの。故に意味のない試斬は本来行うべきではないのかなと私は思います。
今現在、海外に流出した刀剣も含め、日本刀の現存数は莫大です。故佐藤寒山先生曰く、戦前で600万振。戦後破棄されたり流出した物を除いても、300万振は残っていると言われます。何故これまでの数の日本刀類が残っているのかと言えば、使用されなかったからです。
時折刃筋確認のため、刀を使って物を両断する士はいたかもしれませんが、今の時代のように頻繁には行われていなかったのが事実です。
話を素人先生による試斬会に戻しますが、動画を見ていると酷いものです。愛刀家の私は思わず目を覆いたくなる。そんな動画が多々あり、そういう動画に限って再生回数は多く、素人によるいいねもたくさんついています。
頭上に振り上げた刀を、手首で斜めに角度を付けさせ振らせるわけですが、そもそもこの行為自体が間違い。畳表や竹を切るだけなら勿論問題はありません。物理法則に適えば切れるのですから。
私が今ここで語りたいのは武術としての袈裟。
ここのところ私が居合術を指導する居合道場修心館では、居合の形稽古を2週間程行っていません。ただひたすら袈裟の稽古をさせています。
袈裟斬が単に斜めに刀を振り下ろすことなら、門弟たちの貴重な時間を単純な同じ動作の繰り返しに充てたりはしません。私の下で修業11年目になる最古参門弟の柳原ですら、未だに満足いく袈裟ができず悩んでいます。
それほどまでに武術としての袈裟は難しいのです。
袈裟は腕で角度を作るものではなく、骨格、身体全体を使って作るもの。上段に構えたところで腕を掴ませ、相手と力ぶつかることなく袈裟に構えることができれば、それは武術としての完成された袈裟です。力がぶつからないと言うことは、袈裟に構えた時点で腕を掴んでいた相手が崩れます。そしてお互いに高い修練を重ねた者同士になると、身体に触れてもいないのに、袈裟に構えられただけで身体が崩れます。傍から見ればやらせのように見えますし、今現在の居合、剣術の世界では、間違ったものが正しいことと教え広められているため、私の袈裟理論についてもなかなか受け入れてはもらえませんが、実際に体感された方々は目から鱗が落ちたと驚かれます。
ここで全てを書き綴るわけではなく、私の門弟や私の居合に理解を示して下さる方に、今はヒントだけをお知らせしたいと思います。
全身→真向
半身→袈裟
半身とは身体をひねることではない。
身体を横に向けることでもない。
最後に、私がここで言う袈裟が出来るようになると、己の刀を損傷させにくいという効果もあることをお知らせします。
腕で角度を付け、袈裟に斬っている間は刀にかかる負担は大きい。正しい袈裟ができれば刃筋が狂うことはありません。
腕で袈裟に斬ると相手の刀とぶつかった時、刀は必ず破損しますが、正しい袈裟ではせいぜい刃先を丸めるか、刃こぼれしても小さなもので済みます。
御興味があれば、お互い木刀を構え、正眼に構えた相手の木刀に、ゆっくりと袈裟に振り下ろして下さい。手で袈裟に振っている間は相手の正眼を崩すことはできず、己の木刀が相手の木刀に沿って流れますが、正しい袈裟ができていれば、相手の正眼が簡単に崩れ、己の袈裟の軌道は保たれたままとなります。
これはつまり、振り始めから振り終わりまで、刀と己の身体が完全に一致しているからであり、逆を言えば最初から刀と己が一つになっているため、先を取られた時には己が大きく崩されてしまいます。
じゃ、ダメじゃん!
と思われる方がおられるでしょうが、崩れること、崩されることが察知できる体幹を身に付けると受身を取ることができるようになりますからそこはあまり問題はなく、注目してもらいたいのは強く打ち込んだにもかかわらず、刀の損傷が小さいということ。先をとられると力は己に返ってきます。故に刀の進行方向とは逆の方に力が進むと言いますか、衝突がなくなるため、刀が損傷しづらいのです。
言葉や写真、動画を駆使しても、こうした僅か0.1ミリの動きで相手を崩すという武術としての身体操作は、なんとなく想像することができたとしても正しくは伝わりません。故に真摯に何かを学びたい、身に付けたいと考えたとき、近場のありふれた道場へ通うのではなく、その道の一流と言われる人に師事することが大切。
ただし、体現できても教えるのが下手な一流人もいます。この場合、言葉も生活習慣も何も知らない土地にいきなり放り込まれて生きていくのと同じで、辞書すらない中、自分で翻訳し、正しく理解する必要があります。時間はどうしてもかかりますが、本来武術とはそういうもの。習いだして半年や1年で段位を取得できる今の居合、剣術の世界には疑問符しかつけられません。