1月 2020のアーカイブ
袈裟の角度を作る
昨日は修心流居合術兵法東京道場直伝稽古日でした。
私が関西に住んでいるため、頻繁には東京に指導に行けない都合上、一カ月に一回乃至二回、1日6時間ぶっ通しで稽古指導するのですが、昨日の稽古は6時間ずっと袈裟の角度作りの稽古、つまり、袈裟の構えの稽古を行いました。
居合形を稽古するわけでもなく、ただひたすら上段に構えた刀を袈裟の構えまでもっていくだけの単純な稽古。
多くの人はつまらなくて辞めてしまうことでしょうが、今現在稽古に励む修心流の門弟達は皆熱心で、黙って私の指導に従ってくれます。
6時間ずっと同じことばかりさせる側としても、やはり少しは気が引けるもので、
「もう3時間もこればっかりやってるけど、もし飽きたなら他の稽古にしましょうか?」
と問えば、嬉しいことに
「いえ、このままこの稽古でいいです。」
と言ってくれました。
この日6時間もぶっ続けで同じ所作の稽古ばかりした甲斐があり、目覚ましく進歩した門弟も(嬉
しかしながら、私も驚く程理想的な動きが出来るようになったのに、暫くするとまた出来なくなっている。
6時間の稽古が無意味だったのかと言えばそうではなく、一度でも体現することができたなら、また身体が思い出す時が必ず来ますし、過剰な意識が出来ないようにさせているので、その意識を捨て、壁を超えることができた時、その所作と業は真にその人の物となるのです。
できたものができなくなる。その繰り返しで業は昇華されていきます。
さて、表題にあります「袈裟の角度を作る」というものですが、上に記しました稽古法にて習得します。
単に斜めに刀を振ることが袈裟ではないと、過日の記事で書きましたが、1度ずつ角度を変えた場合、袈裟は左右それぞれ88通り存在することになります。
皆さんは1度ずつ角度を変えて88通りの袈裟に刀を振ることができますか?
いくら刀を水平に近い角度にしたところで、腕で角度を作っている間は全88通りの袈裟はできないものです。
1度ずつ角度に応じて身体を変化させることが出来るようになれば88通り全ての袈裟ができるようになります。するとピンポイントで甲冑の隙を狙い斬ることも理論上可能になるわけです。
袴
今回は袴や着物の着用についてを書き綴ります。
新たに入門者が増えると、馴染みの武道具屋に稽古着と袴を発注するわけですが、その際よく耳にする武道具屋の言葉。
「町井先生のところは通常より2サイズダウンなので、今回ご用意させて頂く袴は○号ですね。」
私は角帯を腰骨の位置で締めて袴を着用するのですが、近頃の居合の修行者は脚を長く見せたいのでしょうか? かなり長い袴を腰骨より上、つまりウエストの位置で履かれる傾向にあるようです。
たまにネット上で、隣国の民族衣装の如き着用者を見かけることがあるのですが、袴を上方で穿くのは、武術としての居合を目指すなら間違いです。
袴を腰骨より上で穿いてしまうと刀を閂指※1ができず、せいぜい鶺鴒指※2や落指になってしまいます。
※1 閂指(かんぬきざし)=水平に刀を帯びること。
※2 鶺鴒指(せきれいざし)=主に時代劇で見るような刀の帯び方。
※3 落指(おとしざし)=時代劇に登場する着流姿の浪士のような垂直に近い角度になる刀の帯び方。
袴を上方で穿くと刀を鞘から抜き放つために必要なストロークが短くなりますが、腰骨の位置で履くとそのストロークが長くなる分、抜きやすくなります。
ですから刀を素早く抜くことを重視するあまり、袴の上から更に空手帯のような細い帯を股関節辺りの位置に締め、そこに刀を指す人が見られますが、私はこのような自分に都合の良い帯刀の仕方をする人が、どれだけ素早く抜刀しようが全くもって凄いとは思いませんし、むしろ嫌悪しております。れっきとした士(さむらい)の刀の帯び方ではないからです。そのような刀の帯び方では手を離して歩くこともできません。そのような帯刀が士の時代に存在したかどうかは想像すればすぐにわかるものですが、何故か皆さんそう言った士としての着付や士の作法を無視し、ただただ素早い抜刀を褒めるばかり。しかもそれが「ど」がつく素人ならまだしも、何かしらの武道を嗜む方が褒めているのですから閉口せずには居れません(苦笑
それだけ今の時代は武術としての居合、士の作法を知らぬ人が多くなったという証拠でもあります。
皆さんは稽古着を着用される際、なにか気をつけている点はありますか?
私の門弟が、稽古着の着用を私から教わる際、いの一番に叩き込まれるのは、
全て左側から
と言うことです。
これは武士の作法であり、仮にも士が嗜む武術を修練されるのであれば徹底的に心得ておかねばならないことです。
襦袢や着物に袖を通す時には必ず左側から。
袴を穿く際も左脚から。
この作法は士ならではのもので、士にとって左がいかに重視されていたのかがわかります。
例えば平安時代や鎌倉時代の大鎧を着用する士の画を見ると、左腕にだけ籠手をつけていることに気づくはず。右腕は太刀を振るったり、弓を引いたりと、動くことで防御も兼ねるのですが、一方の左腕は手綱を掴んでいたり、弓を引く際には大きく前方に伸ばすため、無防備になるのを籠手を着けることでカバーしているわけです。
故に甲冑の着用にしても、まずは左側から順に装着していきます。
私も全てを知り尽くすわけではありませんので、他にもあるかもしれませんが、士が右から装着する物としては韘(かけ=手袋)くらいしか思い浮かびません。
他が全て左側から装着していくのに対し、何故韘は右からかと言うと、太刀を握り、弓を引く都合上、左から装着するよりも右から装着した方が、逸早く臨戦態勢をとれるからというのが理由です。
次に袴の前紐について。
結婚式や成人式といった晴れの日の男性和装では、袴の前紐を十文字に結ぶ姿が見られますよね。居合の演武会や大会、そして稽古場でも、この十文字結びをしている方を見かけることがあります。どのような結び方であっても個人の自由ではありますが、古の士に倣うなら、一文字結びか結びきりと呼ばれる結び方であるべきだと思います。
江戸時代の武士が十文字結びをしなかったのかと言えば、江戸も中期以降の平和になった時代には、お洒落感覚で十文字結びをしていた士もいたかもしれません。
しかし、戦場に臨む古い時代の士達が結びきりであったことは想像に難くありません。名を上げる絶好の機会でもあった戦場に於いて、袴やその他の装具の紐が解け、存分に戦働きができないようでは士の本懐を遂げることなどできません。戦が終わるまで甲冑も袴も脱がない覚悟で結びきりにしていたことでしょう。
ですから士の武術を学び、嗜む者としては、やはり古の士に倣って結びきりか一文字結びを採用すべきではないでしょうか。
最後に、二種の袴について。
ご存知の方も多いでしょうが、袴には「馬乗袴」と「行灯袴」の二種があります。前者は平たく言えばズボン式、後者はスカート式です。
行灯袴は一般的に、明治中期以降、女学生達が着用していたスカート式の袴が、裾さばきのしやすさから後に男子も略式として使用するようになった物と言われますが、私が聞き学んだものでは、既に江戸時代には行灯袴が存在し、町人が羽織袴を着用する際、武士に憚って馬乗袴ではなく、それを模した行灯袴を着用したと言うもの。つまり、町人用袴モドキであって士が着用するものではないというお話でした。真相のほどはさておき、士ならば馬乗袴でなければいけないと言うのは事実です。
※私の記憶が確かなら、二重数年前、大農家の蔵で見た裃の袴は行灯袴でした。
古い時代から行灯袴があったと仮定してお話しますが、戦が絶えなかった殺伐とした時代。城から緊急召集を意味する太鼓の音が聞こえたら、士達は着の身着のまま甲冑と武具を持って城に馳せ参じました。国と己の命が懸かっていた時代です。一分一秒を争って城にかけつけたことでしょう。
さぁ、戦だ!!
そんな時に行灯袴だったら?? 馬に跨れませんし、臑当も装着できません。つまり戦えないということです。
故に武としての居合を学ぶ者、嗜む者や、居合に限らず武を志す者は、行灯袴の着用は避けるべきではないでしょうか。
今回のまとめ
・袴は腰骨の位置で穿くのが良い。
・着物や袴の着用は左から。
・袴の前紐は結びきりか一文字結びにすべし。
・行灯袴の着用は避けるべし。
座
座
日本の古武術のみならず、日本における生活の中でもよく見かける正座。
お子様を剣道や合氣道、空手と言った武道教室に通わせておられる方、また、御自身が武道教室に通っておられる方、道場でこんな場面を経験したことがありませんか?
私が幼い頃に通っていた剣道の道場を例にしますが、稽古の始めと終わりに
「着座」
の号令がかかり、生徒全員が一列または数列に並んで正座します。
すると武道教室の先生がこう言うのです。
「背筋正して!」
その言葉に生徒達はピンと背筋を伸ばし、直角に上半身を立てるのです。
それを見る親御さん達は、
「おっ! 背筋をピンと伸ばして良い姿勢だ!」
と思われるようですが、私の武術理論から見ると…
これ、全然ダメなんです。
何がどうやって直角L字に座すのが良いことだと認識されるようになったのか、私には解りかねますが、とにかく私の武術理論上これは絶対してはダメ!
特に居合を嗜む人はしたらダメなんです。
直角L字に胸を張って正座する人を、背後から軽く押してみましょう。
倒れません。
次に正面から軽く押して見ましょう。
あれれれれ? 簡単に後ろに倒れてしまいます。
これ即ち床に着いている脚と上半身の軸がずれているということなのです。
ではどのように座せば良いのか?
素敵な御手本を示す方がおられます。
人間と神のハーフ… 釈迦でーっす!!
もとい、鎌倉の大仏様です。
座す大仏様は各地で見られますが、私は鎌倉の大仏様のこの姿勢にしびれます。
軸が整っているからです。
鎌倉の大仏様を見ると、なんとなく猫背っぽくて、お顔は前に出て見えます。そう、これこそ武術を意識した座なのです。
正座、立膝、私が嗜む居合にはこの二種の座り方があるのですが、どちらも上体はやや前傾がベスト。
正座で説明するなら、直角L字ではなく、傾いたL字に座るのが武術としての理想形。
足の指先と膝頭を底辺とするなら、頭の位置はその中心に来るように座る。つまり線で結べば二等辺三角形になるように座るのです。
この状態で正座して先程と同じことをしてみましょう。
後ろから軽く押す… 前から軽く押す…
左右横からも押してみましょう…
どうですか?
直角L字正座と違って倒れにくいことに気づかれますでしょう?
そしてこの二等辺三角形を作る正座には様々な利点もあるのです。
少し技術が必要ですが、相手が強く押してきても、呼吸を合わせれば2~3人がかりで押そうが後ろに倒れません。この時の呼吸を合わせるというのは、合氣道で言うところの「氣」と呼ばれる不思議な力! ではなく、腹式呼吸ではなく胸式呼吸で応じるということ。物理的にどう言う作用が起きているのかと言えば、横から押してくる力のベクトルを上方に逃がすという働きに変えているというわけです。
更に眼に見えて有効なのが、刀の柄が水平または水平やや水流し(少し下に傾くこと)の角度になるということ。
これにどのような利点があるかすぐに想像できた方は、なかなかの武術センスの持ち主。
柄が水平或いは水平やや水流しの角度になるということは、手を刀にかけるまでの時間が短縮されるということ。零コンマ数秒の遅れが命を落とす結果になる武術の世界において、如何に早く刀に手をかけることができるか? はとても重要。しかも柄頭が上に向いてしまう直角L字正座では、刀に手をかけるまでの腕の動き、つまり初動がどうしても読まれてしまうのに対し、二等辺三角形正座は初動を読み辛くさせるのです。
居合とは立合の対義語。
さぁさぁ我と立ち合え!
と宣戦布告してからの勝負ではなく、突然の有事に対応することが理想的なわけですから、単に正座と言っても本当の意味で気を張らなければいけません。直角L字正座で胸を張るのではなく、武術としての正座で張るのは気!
普段の居合稽古の中で少しこれを意識して座してみてください。
これまでとは違った景色を見ることができると思いますよ。
因みにアイキャッチ画像として使用している六男の正座。理想的な二等辺三角形正座です。稽古で教えたものが自然と身についたようで、今回のブログ記事用に撮影したものではなく、一昨年の端午の節句辺りになんとなく撮影したものですが、肘から指先への角度もほぼ完璧です。
近頃では古流を名乗る流派、道場によるSNS投稿の動画や写真の中で頻繁に、両掌を上に向けて座っていたり、恥部を隠すかの如く、両手を股の間に挟みこむように座ったり、はたまた膝頭の前に五指を立てるような座り方をしているものを見かけますが、いずれも武術観点から見ると疑問符をつけざるをえないものばかりです。いずれの座り方も命が失われる危険があった時代に果たして行われていたでしょうか?
1+1=2でしかなく、地球を照らす太陽が一つだけであるのと同じで、物理的にも武術的にも適った姿勢、所作と言うのは一つだけと覚えておいて支障はないでしょう。私はそう思います。
隙
隙
武術の世界や生活の中でもよく耳にすることがあると思います。
隙とはなんぞや?
皆さん考えられたことはあるでしょうか?
攻撃できる機会。反撃できる機会。
そんな答えが聞こえてきそうです。確かにそう言う意味合いもあるでしょう。
今回は私なりの隙について語ってみたいと思います。
因みに日頃私が欲しいものは、同じ隙でも、私への愛情が冷めてしまった妻からの「好き」なのですが(笑
さて、冗談はさておき本題に入りましょうか。
昔の人は本当に物事を上手く表現したなと感心せずには居れません。武術における隙とは、文字通り隙間を意味する隙。そのためアイキャッチ画像を少し開いたドアの写真にした次第です。
武術における隙については動画で解説すれのが一番手っ取り早くご理解頂けると思うのですが、ここは敢えて文字だけで表現しましょう。
全身と半身が正しく使いこなせることを前提にお話しします。
全身のまま胸の前で掌を合わせてみてください。ちょうどお祈りするような形です。
少し脇を締めるように意識して、腰を回転させてください。
掌の間が開き、隙間ができましたでしょう?
それが「隙」なのです。
※因みに刀心スタッフS君は武術の概念がないため、手を合わせたまま上半身だけ回転したので掌に隙ができませんでした。やはり言葉だけでは何を説明しているのか難しいのかも… でもそれでいいのです。考えることが大事だから。
大きな隙間は拳がすり抜けられます。
小さな隙間だと拳は通りませんが、重ね数ミリの日本刀なら簡単に通り抜けてしまいますよね。
如何に小さな隙であっても、そこに日本刀が通過できるだけの隙間が出来てしまうと、実戦では命を落とす結果になります。
では次に、半身をきるという動作が正しくできる方、同じように掌を合わせた状態で、半身をきってください。
左右の掌は上下前後に動きますが、自分の中心に残ったままになっており、隙間ができないことがお解り頂けるはずです。
このことから何が言えるかと言いますと、武術に横の動きは不適切ということです。
薙刀や長巻を使った試斬動画を稀に見かけますが、薙刀を横から出していますよね。
これ、武術としての観点から言いますと… 「ありえない…(by 湯川学)」 なのです。
動きが全て見えるばかりか、上で解説したように隙が出来てしまうから。
昨今の居合や剣術を見ると、腰の回転が目立つ人がとても多く、指導者ですらそれに気付けていないのです。
抜付で鞘の鯉口が外に開いている人はその典型。
私は他流のことはあまり知りませんが、全剣連系の英信流、夢想神伝流の居合演武をされる方に、鞘引きではなく鞘開きになっている方が見かけられます。
これ、即ち抜きつけているのではなく、自ら隙を作っているだけと結論づけることができるのです。
僅か数ミリの隙さえ作ってはいけない。
相手に差し込まれる(刺し込まれる)隙を作ってはいけない。
武術においてこれは一番大切なこと。中心軸を意識するだけで、居合のみならず、あらゆる武術は上達します。
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試斬
試斬(しざん)
文字通り、その刃物の切味を知る為に行う物が本来の試し切りだと私は考えているのですが、いつの時代からか自分自身の腕試しに変わってしまったように思います。
昨夜、とある古流を名乗る道場が、試斬を積極的に取り入れている理由をこのように記しているのを見かけました。
形通りに試斬をすることで、刃筋を通すことと間合いを学ぶ。
一見理に適った理由に見えますが、人と畳表では間合が異なることを知らなくてはいけません。畳表を両断する間合は畳表を両断するための間合。武術としての間合ではないのです。
こうしたところに現代を生きる居合、剣術修行者、指導者の思慮の不足を感じてなりません。
私も時折畳表や竹を斬ることがありますが、現在では試斬や試斬稽古とは言わず、自分の中で明確に試斬と分けているつもりです。畳表斬りはあくまで刃筋確認であって、武術ではないのですから、
斬稽古
刃筋確認
と称すのが妥当と考えます。
畳表や竹斬りは、あくまで斬る稽古、刃筋を通すための稽古であって、間合の稽古ではない。
故に私の道場では試斬と言う言葉は使いません。
一時私も物を斬ることで実力を示すと言う、馬鹿な観点を重視した時期があり、その頃には頻繁に畳表を斬る稽古を行っていましたが、武術としての居合、剣術をつきつめていきますと、物を両断することに意味を感じなくなりまして、今では数か月に一度、例えばいつも利用している稽古場が利用できない日等に行うのみとなっています。
それでも日頃から私の下で研鑽を詰む門弟達は、斬り損じること少なく、返し斬りも難なくこなすのです。日頃から畳表を頻繁に斬っている居合、剣術修行者より上手です。
今日のブログ記事で私が皆さんに伝えたい事、それは…
・畳表を斬ることでは武術としての正しい間合は学べない。
・試斬とは文字通りその刃物の切味を試す行為であって、個人の腕試しを意味するものではない。
・畳表や竹を斬らずとも、正しい稽古を積めば刃筋は通る。
・刀を損なう試斬はすべきではない。
の四点です。
あなたが武術としての居合、剣術を求めているのなら、上記四点、心のどこかに留めてください。
最後に…
私の様々な物斬りギネス世界記録を見て、斬ることを否定してる割にやってることが違うではないかと思われる方もおられると思います。
私のギネス世界記録は居合研鑽の副産物であり、記録達成、記録認定を目指して築き上げたものではありません。全てテレビ企画等で頂戴したあくまで副産物。
故に番組の予算や企画内容によっては、前人未到の記録を打ち立てても、ギネス世界記録に登録されていないものもあります。
例えば… マッハ1.17で飛んでくるピンポン玉の居合斬りなんてその格好の例です。
私は愛刀家として、また、武術としての居合を嗜む一居合術家として、無意味な試斬や試斬体験会には一生涯否定的な立場であることに変わりはありません。