古山陸奥介弘元 天保五年八月日

古山陸奥介弘元 天保五年八月日
– Koyama Mutsunosuke Hiromoto –
 
 
水心子正秀門人。安永七年、二本松藩の鉄砲鍛冶古山久四郎の末子として生まれました。幼名は東蔵。後に幸之進と改称します。
二十歳で仙台の刀匠十一代国包に入門。文化二年に江戸に上り、当時天下一の刀匠と称された水心子正秀に師事して腕を磨き、蘭学者の司馬江漢(しばこうかん)にも師事し西洋科学の研鑽を積み、焼刃・湯加減や刀剣発錆の理論を会得し、鍛刀技法に活用しました。
文化六年には弘元と改め、同八年に『刀を作る記』、文政三年(1820)に『刀剣見利書(みききしょ)』を著すなど、江戸でその名が知れ渡るようになります。文政四年五月には師正秀より免許皆伝の「剣工秘伝志」が伝授され、鍛刀技術の評価が諸藩の大名にも届くことになり、作刀依頼が相次ぎました。
初銘は国秀、後に宗次と切り、文政四年十月十三日に「陸奥介」を拝領してからは陸奥介弘元と号し、広元同人です。
こうなると、全国の諸藩より召し抱えの申し出が相次いで入り、時の二本松藩主丹羽長富は弘元に帰藩を命じたとも記録されています。帰藩以降、二本松藩お抱え刀工として藩士のための作刀に専念。藩主の意を汲んで他藩からの注文には応えなかったと言われています。
銘文は、鍛冶長者陸奥介弘元、奥州二本松住宗次作、二本松住古山宗次、陸奥介弘元、古山陸奥介弘元、於江府芝弘元作、陸奥守弘元、などと切り、文化六年頃より、文政、天保六年までの年紀が入る作品が残されています。天保十四年年五月二十七日死去、享年六十六歳、市内亀谷光現寺に眠っています。
 
この刀は元先の差が程好く開いた美しく上品なる姿でありながら、重ねが厚い豪壮さも持ち合わせ、地鉄は小板目肌良く練れ、極めてよく詰み、そこに地沸が厚く付いて美しい小糠肌となり、細かな地景が随所に見られ、淡く映りごころがあり、まさに精美の一言に尽きます。
刃文は匂口明るく冴え、下は互ノ目丁子。中程で小足頻りに入った小乱れとなり、先の方では横に間延びした感じの互ノ目乱れを巧みに焼き上げ、若干表裏で異なる顔を見せているところも大変趣深く、細かな砂流や金筋を呈し、帽子は直ぐ調にやや湾れごころを交え、先丸く尋常に返り、化粧鑢がかけられた丁寧な仕上げ茎も絶品で、鑢目から弘元が左利きだったのではないかとも推測されます。
古研ぎながらも非常に状態が良く、研磨間もない状態に限りなく近いコンディション。入念なる上研磨だからこその直線と曲線が織り成すメリハリの極致。特筆すべき疵欠点無く、身幅と重ねの割に手元寄りの重心でバランスが良く、まさに二本松藩随一の名工との肩書き通りの名作です。
 
附属の拵は切羽一枚に至るまですり替えられることなく伝来したままのうぶ状態。刀剣商や骨董商、はたまた個人によって好みの鐔や切羽に替えられ、完全なるオリジナルの拵が年々姿を消す現在において、この拵は非常に貴重と言えます。亀甲に松皮菱紋が縁頭に配され、いずれかの二本松藩上士の指料であったものでしょう。家紋から本刀の出自を調べて見るのもまた一興。鞘に凹みや傷も無く、あたかも近年新調したかのような頗る良い保存状態です。
 
うぶ伝来の拵の今後を想い、御購入後は内外共に是非とも特別保存鑑定を御受審下さい。
 
裸身重量1,011グラム。  拵に納めて鞘を払った重量1,305グラム。
 
 
各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です