新藤二郎源義國 享保三年二月日 – Shindo Jiro Minamoto Yoshikuni –


新藤二郎源義國 享保三年二月日
– Shindo Jiro Minamoto Yoshikuni –
 
江戸時代になって漸く藩政が落着きを見せてきた延宝頃、時の藩主南部重信は、諸職人を京都、甲府、江戸等から招聘して文化の高揚に尽力しました。南部藩で初めて刀匠を召抱えたのもこの時期で、新藤國義をもって嚆矢としています。
國義は京信國の流れをひく筑前福岡の信國吉貞の子、孫四郎吉助の次男として生まれ、江戸に出て鍛刀中、延宝の末年頃、藩主重信に見出され五十駄の俸禄で召し抱えられました。以後、幕末期の八代義國まで約二百年間に渡り新藤家は南部藩第一の刀匠の家柄として主導的役割を果たしました。
國義は天和元年(一六八一年)に居を盛岡に移し、下小路で鍛刀に従事。延宝頃と天和・貞享頃及び元禄十年頃とで銘の切り方に三種の違いが見られます。元禄十一年十二月一日に歿し法名は「剣山刃公信士」と言い、東顕寺に葬られ、以後、東顕寺は新藤一派の菩提寺として代々の刀匠が葬られています。
 
二代新藤義國は國義の長男で治郎兵衛を襲名しており、元禄十二年正月に家督をついでいます。宝永五年(1708年)二月二十八日の「御側諸職人御支配覚帳」に「一、五拾駄(弐拾駄御切米・三拾駄拾人御扶持)下小路 新藤治郎兵衛」とあるのが、二代義國のことであり、享保十五年(一七三〇年)六月二十日に歿しました。
法名は「夢相常説信士」言い、遺作は非常に少なく、銘は「新藤源義國」と切ります。六代、八代の義國も同じく「新藤源義國」と銘を切りますが、鏨の使い方にそれぞれ特色があります。
 
この刀は現存数少ない二代義國の豪壮なる一振で、身幅重ね共に一般的な同時代の刀に比して頑丈であり、元先の差が程好く開き、切先やや延びごころ。これだけ豪壮であればさぞ重いであろうと思われるが、手元重心で身幅と重ねの割に軽く感じられ、義國の技量の高さを感じます。庵は割と高く、鎬幅は狭い造り込みで、地鉄は小板目肌杢交じって柾流れ、よく練れて詰んで精美。刃文は匂口明るく冴えた互ノ目乱れに互ノ目丁字を交えて焼き上げており、刃縁を沸が包み込み、焼頭を縁取った様な独特の刃を見せ、乱れの谷には太い足が頻りに入り、微細なる砂流も刃中に看守される。鋩子は横手下で互ノ目を焼き込み、直ぐに先丸く尋常に返る。
古研ぎながら地刃の鑑賞には支障ございませんが、現存作品少なく、更には頗る出来が良い一刀だけに、余力ある方は是非とも上研磨を施して頂き、本刀の良さを更に引き出してお楽しみ頂きたく思います。
 
裸身重量943グラム。
 
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