刀 無銘 ~特筆すべき鍛錬疵無く、地景盛んに現れた地鉄が美しい作品! 研磨の上、是非とも保存刀剣鑑定を御受審下さい!~

無銘
– Mumei –
https://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/katana/1572/00.html

大磨上無銘。元先の幅差が目立たず、切先延びた豪壮な造り込みで棟の庵が高い。地鉄は小板目に杢交じり、地景顕著に現れ、肌立つ。刃文は直刃調に刃縁に変化を富ませ、解れ風の刃や食い違い風の細かな働きや、総体に砂流が顕著で、細かな湯走や打除が看取でき、刃中には一部小足が入って、金筋や稲妻が入るなど、見所が多く、鋩子は直ぐに先突き上げ、横手を越えて長目に返っています。

附属の拵は、上等な金具が用いられており、柄は卯の花色の蛇腹巻き。贅を尽くした逸品ですが、現状では柄に目立つがたつきが見られます。鞘を払って構えてみると、手元重心でバランスが良く、扱い良さを感じさせます。

現状では錆やヒケが見られる古研ぎの状態ですが、然るべき再研磨を施した上で是非とも保存刀剣鑑定を御受審頂きたく思います。特筆すべき鍛錬疵もありませんので、研ぎ上がりと極めどころが期待できる一刀です。

裸身重量657グラム。  拵に納めて鞘を払った重量921グラム。

各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。

刀 肥前國住近江大掾藤原忠廣 寛永十八年七月廿二日 / 脇差 近江大掾藤原忠廣  ~肥前の名工、二代忠廣による秀作を是非この機会にお求め下さい!~

肥前國住近江大掾藤原忠廣 寛永十八年七月廿二日
– Hizen no kuni ju Omidaijo Fujiwara Tadahiro –

近江大掾藤原忠廣
– Omidaijo Fujiwara Tadahiro –
https://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/katana/1571/00.html

近江大掾忠廣は初代肥前國忠吉の子で、幼名を平作郎と称しました。彼が十九歳の時、寛永九年八月に父忠吉が六十一歳で没した為、若くして家督を継ぎましたが、既に一流刀工としての技を会得しており、一門を統率して家名を盛り立てたました。
こうして一人立ちした平作郎は、父と同じく新左衛門と名を改めて、佐賀藩工として鍋島勝茂に仕え、寛永十八年には近江大掾を受領。刀剣需要の多い時期に佐賀藩工として門弟を統率しながら数々の優れた作品を残しました。
近江大掾忠廣の知名度は高く、大業物に列位するほど斬れ味も優れ、現代に於いても人気を博す江戸前期の肥前忠吉家の名工で、事実上の二代忠吉ながらも、生涯に渡り忠吉銘は切らず、忠廣とのみ銘を切りました。
貞享三年、嫡子陸奥守忠吉(三代忠吉)の亡き後は孫の近江大掾忠吉(四代忠吉)を指導し、元禄六年五月、八十歳の高齢をもって天寿を全うしました。
作刀期間は六十有余年に及び、肥前刀の名を世に高らしめた稀代の名工です。

(大)
元先の幅差開いて反り浅目、切先気持ち延びごころ。地鉄は小板目肌よく練れて地沸付き、所謂肥前刀の代名詞である小糠肌で地景入る。刃文は匂口明るい直刃で、刃縁に細かな働きが看取され、帽子は直ぐに先丸く上品に返る。

(小)
元先の幅差さほど目立たず、鋩子やや延びた豪壮な姿。地鉄は小板目肌よく寝れて地沸付き、所謂肥前刀の代名詞である小糠肌で地景盛んに入る。刃文は匂口明るく冴えた互ノ目乱れに互ノ目丁子を交え、刃縁に湯走を見せ、刃中には足が入り、一部尖りごころの刃も交え、鋩子は直ぐに上品に返る。

(大小拵)
江戸期に製作された物ではなく、数奇者によって新調された物。現代金工による真面目な大小鐔が添えられているも、縁頭と目貫は完全なる大小ではなく、鞘の栗形も大小で形が異なります。
柄にガタツキは無くしっかりしており、柄巻は手が込んだ蛇腹巻き仕上げで、鞘を払って構えてみると、大小共に手元重心でバランスが良く、扱いの良さをも感じさせる逸品です。

(大)裸身重量685グラム。  拵に納めて鞘を払った重量990グラム。
(小)裸身重量551グラム。  拵に納めて鞘を払った重量792グラム。

各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。

鐔3点追加しました。

こんにちは(*´∀`*)
昨日鐔3点追加しております!
まだご覧になられていない方は是非ご覧ください(^^♪
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刀 備前住人祐忠作 平成五年十二月日 雷光丸山田光所持刀 ~二尺五寸九分八厘~

備前住人祐忠作 平成五年十二月日 雷光丸山田光所持刀

備前住人祐忠作 平成五年十二月日 雷光丸山田光所持刀
– Bizen junin Suketada –
https://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/katana/1570/00.html

元先の幅差開いて切先延び、身幅広く豪壮な体配。地鉄は無地。刃文は匂口明るく冴えた湾れに互ノ目を交え、鋩子は表裏共に直ぐに焼きたっぷりと小丸に返る。

附属の拵は柄にガタツキ無く、柄の脱着に手間をとられる程しっかりとしている。縁頭は竹図。柄巻は黒牛表革巻き。鐔は耳の部分に数多の切込み傷が残っており、幕末の騒乱期に実際に使用された様子が窺える、歴史浪漫溢れる作品が添えられています。
鞘を払って構えてみると、手元重心でバランスが良く、実際の重さよりも軽く感じられます。

裸身重量974グラム。  拵に納めて鞘を払った重量1,349グラム。

太刀 國綱 マサヒラ作(鬼丸國綱写) ~古刀再現の名手将平による天下五剣『鬼丸國綱』写し太刀のご紹介です!仕上げ研磨前だからこそのこの価格!お早めにお求め下さい!~

國綱 マサヒラ作(鬼丸國綱写)
– Kunitsuna Masahira –
https://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/tachi/104/00.html

鬼丸國綱
鎌倉時代初期、山城国の京粟田口派の刀工で、粟田口六兄弟の末弟である国綱の作。国綱は後鳥羽天皇の御番鍛冶であり、腕の良さから鎌倉にも招かれて鍛刀していたとされている。
「鬼丸」という号の由来は『太平記』に記載がある。それによると、北条時頼(または北条時政)が毎夜、夢の中に現れる小鬼にうなされていた。
そんなある夜、夢の中に老翁が現れ、「自分は粟田口国綱の太刀の化身である。ところが汚れた人の手に握られたために錆びてしまい鞘から抜け出せない。早く妖怪を退治したければ清浄な者によって早く自分の錆を拭い去ってくれ」と言って消え去った。
早速、時頼は本刀を手入れし、抜き身のまま寝床の側に立てかけておいたところ、本刀が倒れかかり、火鉢の台に施された細工の首を切り落としたという。よく見ると、その火鉢の足は銀で作られた鬼の形をしており、それ以来、時頼の夢に小鬼は現れなくなり、次第に体調を回復させた。この事件により、この太刀を「鬼丸」と命名したといわれている。

本太刀の作者
藤安将平刀匠は昭和二十一年福島県伊達郡生まれ。昭和41年長野県坂城町の刀匠、故人間国宝、宮入行平師に入門。
昭和50年福島県立子山に鍛刀場を開設して独立。以後作刀の研究修練を重ね日本美術刀剣保存協会優秀賞3回、奨励賞6回、努力賞7回を受賞。平成2年には日本美術刀剣保存協会会長賞受賞。同14年日本美術刀剣保存協会寒山賞を受賞。

尾張熱田神宮、奈良護国神社など多くの神社で奉納鍛錬を行い、平成20年には、704年、佐備大麻呂の作剣以来、およそ千三百年ぶりに常陸鹿島神宮において日本刀奉納鍛錬を行う。

昭和59年秋には伊勢神宮第61回式年遷宮、御神宝太刀謹作奉仕の大役も担い、 先の震災で大きな被害を受けた福島県南相馬の御刀神社復興支援にも大きく尽力され、御神宝となる直刀を謹作奉仕し、直近では福岡の宮地嶽古墳出土大直刀の復元鍛錬など、現代日本刀匠屈指の作刀技術を持っている。

平安、鎌倉時代の古刀剣再現への強い想いを持ち、長年研究修練に取り組み、国宝、重要文化財やそれに類する刀剣類、全国の砂鉄や鉄文化の知識見識も豊富で、太刀、刀、短刀、脇指、薙刀、古代直刀など、どれを手掛けても正確で美しい刀姿を造り上げる。
地鉄、焼刃の手際も鮮やかで幅広い製作能力を誇り、中心鑢や銘文といった中心仕立ても現代刀匠随一で、師である行平没後、師の実子である宮入小左衛門行平(宮入恵)を預かり、弟子として鍛刀修業を積ませた経緯からも、師の信任が厚く、その技量の高さを物語っている。

近年は奈良正倉院収蔵の直刀、手鉾のなど奈良時代の刀剣類の研究、復元製作にも取り組まれ、上記の御刀神社奉納直刀の焼刃などは神域に入られたと言っても過言ではない。

刀心店主、町井勲(修心流居合術兵法創流者、居合に関するギネス記録を6つ保持している)が最も信頼を寄せる現代屈指の刀匠としても知られ、将平刀はテレビ番組内で町井の手によって、鉄パイプ、鉄板切断など日本刀の本分である利刀(折れず曲がらずよく切れるの三事)としての能力も非常に高いことが証明されている。
また将平刀匠は弓、弓道にも深い造詣を持たれており、京都の御弓師柴田勘十郎氏とも長年に亘る親交があって、地元福島では弓術の指導にもあたっている。
人格そして技量に於いても、人間国宝や無鑑査に認定されるべき人物だが、表の世界に出るのを拒み、今尚福島県立子山で黙々と作刀研究に勤しむ生粋の職人肌刀匠である。更なる詳細はこちらをご覧下さい。

この太刀は上述の通り天下五剣として名高い『鬼丸國綱』の写し。反り高く、庵棟で、鎌倉時代初期の優雅な姿が見事に再現されています。
元々は店主町井勲の需めに応じて打たれた一刀であり、令和2年の作品ではありますが、つい今しがた途中迄のの工作を終えたばかりです。白鞘とはばきは日本でも一二を競う名人が手掛け、研磨も日本美術刀剣保存協会主催のコンクールに於いて特賞を受賞した上手が手掛けています。

古刀再現に挑戦し続ける将平刀匠は、近頃悟りの境地に立たれたと表現しても過言ではなく、手がける作品全ての出来に毎回驚かされます。研磨仕上げ前の今だからこその価格です。家宝として申し分ない力作を是非この機会にお求め下さい。

裸身重量786グラム。

各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。

刀 無名(伝志津) ~刀剣趣味人垂涎の名刀『志津』!美術観賞用上研磨を施してお納め致します! 重要刀剣審査を是非御受審下さい!~

無銘(伝志津)
– Mumei(Den Shizu) –
https://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/katana/1569/00.html

志津三郎兼氏は、正宗十哲の一人として美濃伝の発展に大きく寄与した大和国手掻派出身の刀工で、当初は包氏と名乗っていましたが、正宗に学び相州伝を修得し、美濃国志津(現在の岐阜県海津市)に移住して志津三郎兼氏に改名しました。
兼氏の死後、その弟子達が志津系を継承し、隣接する直江村に移住。一派の名称は直江志津と呼称され、大和伝と相州伝を加味した美濃伝を完成させました。

この刀は大きく磨り上げられて銘を失うも、すらりとした姿が印象的で、元は刀樋に添樋が掻かれていたことが茎に残る添樋の名残から見て取れます。
南北朝時代と言えば身幅広く豪壮な作品が多いイメージが強いですが、実は刀身が長大化したのは南北朝中期の約20年間のみであり、本刀はその姿等から鑑ても、鎌倉末期から南北朝初期の作であることが覗われます。
地鉄は板目に杢が交じり、肌が流れた箇所も見られ、地景が入り、刃文は小湾れに互ノ目や丁字、尖刃を交え、刃縁には砂流や湯走が看取され、鋩子は表裏共に湾れ込み、先よく掃き掛けて丸く返っています。

登録年月日からも察せられるように、本刀はこれまで長く眠っていた初出しの名刀です。現状では研ぎが悪く、本刀が持つ魅力と、冴えた地刃の出来が引き出されておりませんので、美術鑑賞用上研磨を施してお納め致します。
写真では下半の焼刃が眠いように見えますが、研ぎを変えることでガラリと雰囲気が変わりますから、そう言った研ぎによる変身振りも是非ご堪能頂きたく思います。
※委託品

裸身重量464グラム。

各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。

太刀 國綱 マサヒラ作(鬼丸國綱写) ~古刀再現の名手将平による天下五剣『鬼丸國綱』写し太刀のご紹介です! 仕上げ研磨前だからこそのこの価格!お早めにお求め下さい!~

國綱 マサヒラ作(鬼丸國綱写)
– Kunitsuna Masahira –
https://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/tachi/103/00.html

鬼丸國綱
鎌倉時代初期、山城国の京粟田口派の刀工で、粟田口六兄弟の末弟である国綱の作。国綱は後鳥羽天皇の御番鍛冶であり、腕の良さから鎌倉にも招かれて鍛刀していたとされている。
「鬼丸」という号の由来は『太平記』に記載がある。それによると、北条時頼(または北条時政)が毎夜、夢の中に現れる小鬼にうなされていた。
そんなある夜、夢の中に老翁が現れ、「自分は粟田口国綱の太刀の化身である。ところが汚れた人の手に握られたために錆びてしまい鞘から抜け出せない。早く妖怪を退治したければ清浄な者によって早く自分の錆を拭い去ってくれ」と言って消え去った。
早速、時頼は本刀を手入れし、抜き身のまま寝床の側に立てかけておいたところ、本刀が倒れかかり、火鉢の台に施された細工の首を切り落としたという。よく見ると、その火鉢の足は銀で作られた鬼の形をしており、それ以来、時頼の夢に小鬼は現れなくなり、次第に体調を回復させた。この事件により、この太刀を「鬼丸」と命名したといわれている。

本太刀の作者
藤安将平刀匠は昭和二十一年福島県伊達郡生まれ。昭和41年長野県坂城町の刀匠、故人間国宝、宮入行平師に入門。
昭和50年福島県立子山に鍛刀場を開設して独立。以後作刀の研究修練を重ね日本美術刀剣保存協会優秀賞3回、奨励賞6回、努力賞7回を受賞。平成2年には日本美術刀剣保存協会会長賞受賞。同14年日本美術刀剣保存協会寒山賞を受賞。

尾張熱田神宮、奈良護国神社など多くの神社で奉納鍛錬を行い、平成20年には、704年、佐備大麻呂の作剣以来、およそ千三百年ぶりに常陸鹿島神宮において日本刀奉納鍛錬を行う。

昭和59年秋には伊勢神宮第61回式年遷宮、御神宝太刀謹作奉仕の大役も担い、 先の震災で大きな被害を受けた福島県南相馬の御刀神社復興支援にも大きく尽力され、御神宝となる直刀を謹作奉仕し、直近では福岡の宮地嶽古墳出土大直刀の復元鍛錬など、現代日本刀匠屈指の作刀技術を持っている。

平安、鎌倉時代の古刀剣再現への強い想いを持ち、長年研究修練に取り組み、国宝、重要文化財やそれに類する刀剣類、全国の砂鉄や鉄文化の知識見識も豊富で、太刀、刀、短刀、脇指、薙刀、古代直刀など、どれを手掛けても正確で美しい刀姿を造り上げる。
地鉄、焼刃の手際も鮮やかで幅広い製作能力を誇り、中心鑢や銘文といった中心仕立ても現代刀匠随一で、師である行平没後、師の実子である宮入小左衛門行平(宮入恵)を預かり、弟子として鍛刀修業を積ませた経緯からも、師の信任が厚く、その技量の高さを物語っている。

近年は奈良正倉院収蔵の直刀、手鉾のなど奈良時代の刀剣類の研究、復元製作にも取り組まれ、上記の御刀神社奉納直刀の焼刃などは神域に入られたと言っても過言ではない。

刀心店主、町井勲(修心流居合術兵法創流者、居合に関するギネス記録を6つ保持している)が最も信頼を寄せる現代屈指の刀匠としても知られ、将平刀はテレビ番組内で町井の手によって、鉄パイプ、鉄板切断など日本刀の本分である利刀(折れず曲がらずよく切れるの三事)としての能力も非常に高いことが証明されている。
また将平刀匠は弓、弓道にも深い造詣を持たれており、京都の御弓師柴田勘十郎氏とも長年に亘る親交があって、地元福島では弓術の指導にもあたっている。
人格そして技量に於いても、人間国宝や無鑑査に認定されるべき人物だが、表の世界に出るのを拒み、今尚福島県立子山で黙々と作刀研究に勤しむ生粋の職人肌刀匠である。更なる詳細はこちらをご覧下さい。

この太刀は上述の通り天下五剣として名高い『鬼丸國綱』の写し。反り高く、庵棟で、鎌倉時代初期の優雅な姿が見事に再現されています。
元々は店主町井勲の需めに応じて打たれた一刀であり、令和2年の作品ではありますが、つい今しがた途中迄のの工作を終えたばかりです。白鞘とはばきは日本でも一二を競う名人が手掛け、研磨も日本美術刀剣保存協会主催のコンクールに於いて特賞を受賞した上手が手掛けています。

古刀再現に挑戦し続ける将平刀匠は、近頃悟りの境地に立たれたと表現しても過言ではなく、手がける作品全ての出来に毎回驚かされます。研磨仕上げ前の今だからこその価格です。家宝として申し分ない力作を是非この機会にお求め下さい。
※仕上研磨は260,000円(税込)にて御奉仕させて頂きます

裸身重量740グラム。

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刀 日置兼次

刀 日置兼次

無銘(日置兼次)
– Mumei(Heki Kanetsugu) –
兼次は因州池田家に仕えた刀工で、因州に移住した兼先の後裔。明治迄十二代続き、数多の利刀を鍛えました。
この刀は大きく磨り上げられるも元幅の幅差今尚開き、鋩子はやや延び、地鉄は杢目肌よく錬れて詰み、ちりちりと細かな地景入って精美。刃文は匂口明るい直刃で、地刃共に破綻が無く、鋩子は直ぐ調にやや湾れごころを交えて先焼詰風に極短く返っています。
現状でも地刃の鑑賞は可能ですが、点々と薄錆が見られます。とは言え深い錆は無く、上述の通り地鉄は実に精良。指裏の茎尻に金粉銘の跡が見られ、また、付属する棕櫚塗鞘は、棟方を平に削ぎ落とした変わり形。これといった凹みや痛みも無く、非常に健全。
昭和46年の貴重刀剣認定書では日置兼次と極められていますが、再研磨を施し保存審査を受審すれば、極めが変わる可能性を秘めています。
上述の通り、鞘の状態が良いので、お手持ちの金具で柄を新調し、拵も蘇らせてお楽しみ頂ければと思います。簡易武用柄で宜しければ、鐔や切羽も含め、38,500円(税込)にて新調致します。
手持ちバランス良く、扱い易さを感じさせる一刀です。研磨も格安にて承りますので、お気軽にご相談下さい。
裸身重量774グラム。  はばきを付けた重量804グラム。

刀 肥前國忠吉(八代) ~店主町井勲監修の武用拵新調済み!!~

肥前國忠吉(八代)
– Hizen no kuni Tadayoshi(8 Gen) –
https://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/katana/1567/00.html

八代忠吉は佐賀藩士古川家の子として生まれ、七代忠吉の養子になり、橋本新左衛門と称しました。忠吉家の中でも初・二代・三代に次ぐ良工と評され、佐賀藩が嘉永3年(1850)に大砲の鋳造に着手した際には、御鋳立方を任じられ、佐賀藩の近代化にも重要な役目を果たすなど、鉄の鍛錬技術に並々ならぬ高い技術を持った名工で、安政6年(1859)に59歳で没しました。

この刀は元先の幅差さほど開かず、切先延びた堂々たる体配で、地鉄は小板目肌よく錬れて細かな地景が入り、地沸付き、刃文は小沸出来の直刃を主調とし、処々に互ノ目を交え、、刃中足入り、鋩子は直ぐに先丸く、掟通りに一文字に綺麗に纏められています。

故人間国宝、藤代松雄氏による正真鑑定書が交付されていますが、「忠」の字の第五画の鏨の向きが、常に見る作品とは異なるところが気になります。そのため日本美術刀剣保存協会での審査合格無保証としまして、お求め易い価格でご紹介致します。

店主町井勲監修の下、武用拵を新調致しました。鞘を払って構えてみると、手元重心でバランスが良く、扱い易さを感じさせる一刀です。

裸身重量859グラム。  拵に納めて鞘を払った重量1,118グラム。

各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。

刀 □□住播磨大掾藤(以下切)(藤原忠國) ~脇肥前の名工として名高い播磨大掾忠國による完成度高い一刀!特別保存刀剣鑑定を是非御受審下さい! 店主町井勲監修武用拵新調済みです!~

□□住播磨大掾藤(以下切)(藤原忠國)
– □□ Harima Daijo Fuji(cutted below)(Tadakuni) –
https://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/katana/1566/00.html

忠國は初代忠吉の弟である吉家の子で、名を橋本六郎左衛門と言いました。初名は廣則。寛永11年に播磨大掾を受領し、忠國と改名します。はじめ播磨大掾の磨を摩と刻銘し、作品は寛永頃から寛文にかけて残されています。老後は播磨入道休鉄と称し、播磨大掾藤原忠國、肥前住播磨大掾藤原忠國、肥前住播磨入道藤原休鉄などと銘切りしました。
彼は肥前国の脇肥前と呼称される一派の中でも特に抜きん出た存在であり、虻の目と言われる独特の互の目刃を焼くことで有名な刀工です。

この刀は磨り上げられて銘の一部を失うも、元先の幅差開いた上品な姿を留めており、地鉄は小板目がよく練れて詰み、地沸付いて地景入り、刃文は匂口明るく冴え、湾れ調子に互ノ目を交え、足入り、細かな砂流が見られ、金筋入り、湯走を見せ、鋩子は直ぐに先丸く返っています。
特筆すべき鍛錬疵も無く、特別保存刀剣鑑定も合格するものと思われます。磨り上げられた事と、明治期にサーベル拵にかける都合で、茎の棟方を落とされていることこそが惜しまれるものの、出来は頗る良く、刃長は二尺三寸としっかりあり、鑑賞刀としての力は十二分に持ち合わせています。
現状では目立たぬ程度の曇りが一部見られますが、現状でも鑑賞に支障はございません。
店主町井勲監修の下、武用拵を新調致しました。鞘を払って構えてみると、手元重心で構え心地良く、片手でも楽々と扱えます。

裸身重量630グラム。  拵に納めて鞘を払った重量879グラム。

各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。