岩代國和泉守藤原兼定

岩代國和泉守藤原兼定岩代國和泉守藤原兼定
– Iwashiro no kuni Izumi no kami Fujiwara Kanesada –
 
会津兼定は、室町期の濃州関兼定の三代目にあたる孫を古川孫一郎または孫四郎といい、慶長年間に会津藩主:蒲生氏郷の鍛冶となり、奥州兼定の初代となって以後、古川兼定家は会津における最も古い刀工の家柄として、幕末まで代を重ねて栄え、三善長道、松軒元興らと共に会津を代表する刀工です。中でも十一代和泉守兼定はその最後を飾る良工で、新撰組副長、土方歳三の愛刀の作者としてもその名を知られています。
十一代兼定は天保8年12月13目、現在の会津若松市浄光寺町一番地に生まれ、幼名を友弥と称し、14才の時から父である十代兼定について鍛法を学び、初銘を兼元と切りました。
十代兼定の代作代銘もこなし、文久2年、会津藩主、松平容保公が京都守護職に任命されると、翌文久3年、幼名を清右衛門と改め、京都に上がって修業しつつ、和泉守を受領し、慶応元年に会津に戻りました。新選組隊士の為に作刀したのは京都在住の頃であり、副長、土方歳三の佩刀は慶応三年紀のもので、現在も東京日野市の生家に伝わっています。
十一代兼定は明治36年に67才で没しました。菩提寺は会津若松市実相寺、戒名は精錬印鉄心利剣居士。 尚、兼定は最初期の兼元銘から、京で和泉守を受領した直後までの作品には、「兼」の字の縦の二本を通常の長さで切り、京から会津へ帰国した慶応以後の銘は全て「縦の二本」の左側を短く切っています。
 
この刀は兵庫県下から出ましたうぶ品で、市場に出るのは今回が初めて。地鉄精良にして鍛錬疵無く、匂口明るく冴えた互ノ目乱れが見事な作品。兼定銘に関しては個人的に首肯できませんので、おまけ程度にお考え頂ければと思います。
新撰組ファンや土方歳三ファン、そして今話題の刀剣乱舞の中にも登場し、刀剣乱舞ファンから熱い人気を誇る十一代兼定。
本歌は人気高く高額なために手が届かないと諦めた方、本刀をお求めになり、中心に刻まれた兼定の銘文と冴えた地刃を楽しまれてみては如何でしょうか?
 
裸身重量685グラム。

奥州住道長(新々刀) ~新撰組隊長近藤勇の愛刀としてよく知られる会津の名刀~

奥州住道長(新々刀) ~新撰組隊長近藤勇の愛刀としてよく知られる会津の名刀~
奥州住道長(新々刀)
– Oushu ju Michinaga –
 
道長は三善長道の弟と伝えられ、新撰組隊長近藤勇の愛刀としてよく知られています。
慶応2年11月15日、近藤勇は三善道長へ会津の山本覚馬を通じて作刀を依頼。仕上がった刀は会津藩士永田権之助・清治親子が受け取って七条木津屋橋の近藤勇まで持参しました。それほど会津の三善道長は当時人気が高かったのです。
 
この刀は柾目に杢交じりの肌立った地鉄によく地沸が付き、互ノ目乱れの刃縁にも盛んに沸が付き、打除や二重刃風の刃を見せ、覇気ある出来口を示す作品で、鍛錬疵等は皆無の良刀です。
附属の打刀拵は兜図の縁頭がついた江戸期の古い拵で、黒蝋塗の鞘に鯉口には宣徳(真鍮)製の口金が付けられ、大東亜戦争時には軍刀として携えられたため、野戦用皮覆と縁に皮のストッパーが被せられていますが、これらを外して頂ければ、元の打刀拵に戻せます。
近藤勇も所有していた会津道長の良刀を是非コレクションにお加え下さい。
 
裸身重量696グラム。  拵に納めて鞘を払った重量948グラム。

刀 陸奥運寿兼友作 慶応三丁卯秋

刀 陸奥運寿兼友作 慶応三丁卯秋
http://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/katana/537/00.html
刀 陸奥運寿兼友作 慶応三丁卯秋

会津兼友は銘鑑を紐解くに、元禄から明治まで七代に渡ってその名跡が続いており、この作品は幕末に活躍した五代兼友の作と鑑せられます。
この頃、会津藩は悲劇的な運命を辿ります。戊申戦争では一ケ月にもおよぶ会津城籠戦を凌ぎ、兼友、長道、道辰ら会津の刀匠達は弾丸の製造に尽力。十一代会津兼定は城外に討って出たとも伝えられ、一藩総力戦ともなった戦いは、白虎隊はじめ多くの悲劇を生み、敗れた会津藩士やその家族の多くと、そして六代兼友は北海道へ移住したと伝えられています。

兼友は兼定に似た美濃伝の沸が少ない直刃か互の目乱れを焼き、本刀はよく練れた杢目に地沸がついて地景入った精美な肌が少しく肌立ち、匂口締まりごころの中直刃に小沸がつき、鼠足入り、ほぼ等間隔に小足を交え、金筋が現れるなど、細やかな刃縁の働きが上品で見所多い出来口です。

裸身重量724グラム。