短刀 無銘(千子)~村正一派の短刀~

短刀 無銘(千子)~村正一派の短刀~
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短刀 無銘(千子)~村正一派の短刀~

刀剣趣味人でなくともその名を知る者が多い千子村正。この短刀は村正個銘極めには至らなかったものの、村正を含める千子派と極められた短刀です。
千子村正は南北朝時代の貞治より銘鑑に名を連ねます。現存する在銘品は室町時代中期に入ってから見られ、年紀の入りの作は文亀から天文までの五十年間に及び、この間、初、二代あるとも云われています。この時期の俗名は、右衛門尉と言い刀が少なく短刀、寸延短刀を多く見ます。
焼刃の構成や茎の仕立に特徴があり、刃味鋭く、当時から多くの武辺者に愛用され、また、徳川家に仇なす妖刀とのことから、徳川打倒を目指した諸将もこぞって用い、中でも真田幸村が有名です。
徳川家が天下を治め、泰平の江戸期になると、徳川家にはばかって数多くの村正が無銘にされたり、廣正や村重等と銘を改竄されました。
※外交史料集「通航一覧」の第四巻「寛明日記」によると、長崎奉行の竹中重義に疑義があり、幕府によって屋敷が捜索されたところ、おびただしい金銀財宝に加え、村正の刀を24口も所蔵していたことが発覚し、寛永11年(1634年)2月22日、重義は嫡子源三郎と共に浅草の海禅寺で切腹、一族は隠岐に流罪を命じられたといいます。

本刀は、六寸一分と小振りながら、身幅重ね尋常で、三ツ棟。板目肌に柾目肌を交えた地鉄には潤いが感じられ、匂口明るく、互の目を三つ一組で構成し、沸よく付き、刃文は掟に違わず表裏で揃い、刃先が掛けださんばかりに低く焼かれ、皆焼ごころに棟焼も交えています。刃中は砂流しが盛んで、帽子はそのまま乱れ込み小丸に返るなど、村正個銘極めでもじゅうぶんな出来口を示していますので、村正金象嵌銘を施し、再度保存刀剣審査に挑まれるのも一興かと存じます。

裸身重量94グラム。

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