刀の鐺を地につける所作について

私が天心流の杖太刀なる所作について、ここで意見を述べたところ、未だ頭の固い連中やそれを認めたくない人が、未だ幕末の写真を指して、杖太刀の所作は当然のように行われていたとのたまっている。

声を大にして言おう。

「当時の写真撮影法を研究してださい。」

 

おたくま新聞さんが昨年四月に鶏卵写真について記事にされていますので、まずはその記事をご紹介しましょう。

http://otakei.otakuma.net/archives/2016041304.html

リンクを辿るのが億劫だという方のために、おたくま新聞さんの記事を転載させていただきます。

 

おたくま新聞

1850年にフランスで発明された「鶏卵紙写真」ってご存じですか?写真のプリント技法のひとつで、卵の卵白を使うことからその名が付けられています。日本でも幕末から明治にかけ撮影された写真にはこの「鶏卵紙」をもちいてプリントされたものがいくつも存在しています。

現代でも一部の写真ファンや研究家など限られた人によって再現されていますが、商用的にはほぼ廃れている技法。その鶏卵紙の技術を商用復活させようという試みが行われていると聞きつけ、撮影モデルをかねて体験撮影に行ってきました。

おたくま新聞

昨年の2015年中頃、テレビで取り上げられた野良猫の聖地「夕焼けだんだん」を見にいったとき、辺りを散歩していたところ古本屋におかれたチラシで湿板写真館を知りました。その後、店主でカメラマンの和田氏にはガラス湿板の写真を撮ってもらい記事で紹介させていただいたのですが、カメラが趣味ということもあり今でもやりとりが続いています。

以下、ある日の会話。
カメラマン和田氏「鶏卵紙用の液沢山作りすぎて、どれが何やらわからなくなってきた。」
私「鶏卵紙、やってみた~い!」

そんな会話の後、和田氏より連絡!
鶏卵紙写真、見に来ないか。モデルもやってみてという事なので、サバイバルゲームの装備を手にそそくさ行ってきました。

現場の湿板写真館はJR日暮里駅から徒歩5分ほど。入り口からして昭和のレトロな雰囲気、なんとなく安らぎを感じます。中のスタジオは10メートル四方位。

今回、撮影に使用したカメラは日本製の案箱カメラ。
アメリカ製のものより3分の1ほどの値段で手に入り、しかも作りがカッチリ精密にできていて扱いやすいとか。最近、フランスでも湿板写真の人気がでてきて、ヤフオクでも簡単には落札できなくなってきたそうです。

古いカメラというものはフィルムが手に入らなくなると人気が落ちるものだそうですが、湿板写真の場合、撮影直前にガラスに感光材を塗り、露光後に現像、定着まで一気にやらねばならない手間はかかるものの、自分で感光板を作れることが知れ渡ってアート写真用に人気がでているそうです。

さて、撮影に取りかかります。今回はアメリカ軍海兵隊が現在使用しているMERPAT、Marine Patternの略でマーパッドと読みますが、世の中には戦国自衛隊という、現代の軍隊が戦国時代にタイムスリップする映画もあるし、アメリカ海兵隊が日本の幕末で写真に収まる雰囲気もあって良いのではないかということで、もろに現代の装備でやってみました。

今回は大判のB4サイズ大に挑戦です。というのも今回試してみる鶏卵紙の印画紙、ネガとなるガラス湿板と印画紙となる鶏卵紙をピッタリ密着させ、玩具の日光写真の要領で紫外線に露光して作成するため、ネガ役のガラス湿板の大きさにしか写真をプリントできません。今回は鶏卵紙も大きな写真として制作したいため、B4版サイズでやっています。

ガラス湿板自体を写真として使用するなら露光時間は6秒でしたが、今回はそのガラス湿板を長く露光、ネガとして使用するというもの。12秒露光と20秒露光、二通りやってみました。

鶏卵写真というと坂本龍馬の写真がよく知られていますね。高知県立坂本龍馬記念館のHPによると、桂浜の銅像のモデルになった立ち姿のものが2枚、イスに座ってブーツを履いている写真1枚と他にも複数あるそうです。しかも龍馬は名刺代わりに配っていたようで、まだ発見されていない鶏卵紙写真がどこかに眠っている可能性もあるそうですよ。

撮影では坂本龍馬が撮影した時代の露光時間が20秒なので、その露光時間で動かずにいられてキッチリ写るということは、僕が本当に龍馬の時代にタイムスリップしても当時のカメラで撮影できるかも、なんてしょうもないことも考えたりします。ちなみに今回は首押さえ棒という動かないための固定器具を後ろ側でガッチリ装着しました。

さて、ガラス湿板のネガが出来たらいよい鶏卵紙の準備。この鶏卵紙、作成には卵40個文の卵白を一週間以上の手間暇をかけて様々な加工を施して作成したそうです。

まずは20秒露光の濃いものと12秒露光でガラス湿板を変えて短冊状の鶏卵紙でテスト。
よし!この濃いやつで!と張り切ったもののなかなかうまく行かず、後日宅配で受け取ることに。

受け取ったものがこれ。
今回の鶏卵紙、まだまだ改良の余地があり、今年秋から今年末の商業利用を目指すそうです。
この技術、出来上がったら一生の宝物としての重みのある写真が出来そう。楽しみです。

 

 

以上がおたくま新聞さんの記事ですが、注目すべきは身体を固定する器具!

幕末に撮影された写真の多くに不自然さを感じたのはこれだったのですね。

ちなみに明治前半から中頃くらいまで、「横浜写真」という海外向けの写真が流行った時期があるそうで、その頃にTHEジャパンみたいな写真を撮って、日本旅行のお土産に売っていたらしいという情報も寄せられました。

案外私たちが幕末サムライの写真だと思っている物の中に、武士の時代が終った頃に撮影された件の土産用写真が混じっている可能性も高いかと思われます。

そして、写真撮影時、演出と身体を支える役割を担ったものが刀を含めた道具類であることが下に紹介する写真でわかるのです。

長崎大学収蔵のこの写真、解説には以下の通り。

『立てた三味線に軽く左手を乗せ、簾の衝立に右手を添えて立つ女性。壁に掛けられた掛け軸その下に置かれた鉢植えは不自然。演出写真である。』

この写真一枚を見ても常識をお持ちの方でしたら、「刀もこれと同じようにポーズづけで立ててるんだな。」とお解かりいただけるはずですが、この写真を示してもなお、頭が硬い人達は、以下の写真を掲げてこう言うのです。

武士の棟梁すら刀を立てている。岩倉具視も太刀を立てている。このことから鐺を地につけるのはあたりまえに行われていた。と…

どちらの写真も手にしている刀剣の外装は素晴らしいもので、重要刀装指定を受けるレベルの物です。江戸時代は特に物を大切にリサイクルも盛んに行われていました。そんな時代に刀の外装を傷める所作をとるでしょうか? また、江戸時代は他人の刀を預かる際には、鞘を素手で触らないほど厳格に刀の地位が確立されていました。

上の写真を良く見ると、屋外ではなく屋内。そして柔らかい絨毯の上であることがわかります。また、鐺を地につける禁忌感は無かったと主張される方、例えば海外旅行先などで見知らぬ風習に出会ったとき、それを親切に教えてくれる人がいれば、ほぼ躊躇無くそれに従いませんか? 更に解り易く例えるなら、指を洗うためのフィンガーボールの存在を知らない人が、「これは喉が乾いた時に飲む水だよ。」と間違った所作を教えられても、それが当たり前だと思って飲んでしまうでしょう?

幕末の写真撮影でも同じことではないでしょうか? 写真家の指示に何の抵抗も無くほぼ従うのではないでしょうか。

とにかく、槍の石突と刀の鐺を同じように考えてはいけないのです。長柄の石突はその名の如く、地に突き刺すことを前提に、それに適した構造になっています。槍の石突には繊細な彫物や象嵌を見かけないではありませんか。皆まで言わないと理解できないのでしょうか?

そしてこのブログで外国人写真家によってポーズづけされたのでは?との私の意見に対し、日本人写真家も同じようなポーズ写真を撮っているのだから、鐺を地につける禁忌感は無かったと主張される方も、上述のように写真家によるポーズが一般化されれば、自ら同じポーズをとる者も現れます。鐺を地につけるのが写真撮影時の一種の作法であり、それが当たり前だと思っているのですから。

 

以下、日本人写真家が撮影したもの。

高杉晋作だとされる有名なこの写真を指して、「高杉晋作ほどの教養のある二百石取りの上士がこうしているのですから杖についちゃいけないというお作法は江戸時代には「無い」とみるべきでしょうか。」との意見を出された方もおられますが、これは笑止。

幕末の写真を日常を写したスナップ写真と同様に考えてはいけません。

剣道の稽古中の合間に撮影したのなら、わざわざ大小刀をこれみよがしに後ろに演出物として配置はしません。そもそも道場内にこのような腰掛ける設備?があったでしょうか? 常識で考えればポーズづけされての写真だと簡単に解るものです。それこそ言葉を返せば、高杉晋作ともあろう人が竹刀の剣先を地につけるでしょうか? と言えます。

 

さて、先程話題に出しました固定器具ですが、よくよく写真を見ると、案外写っているのを発見できます。

 

士の格好をした町人

左人物の左足後ろに固定器具の脚が写っています。

こちらの女性の背後にも、衝立とは別の脚が写っているのが解ります。

 

武士が鐺を地につけた写真が多いのは、ポーズづけと身分象徴の演出、そして身体をぶらさぬようにするための三脚効果であったことが、これらの写真から読み取れるのです。

そして、鐺を地につけることに対して禁忌感があったことを証明する写真も数多残されています。

足の上に刀を立てる士

地に鐺を付けることが当たり前のように行われ、禁忌感がなかったというのなら、写真中央の人物のように、足の甲に鐺をつける者がいることはおかしいということになります。

頭が固い人を相手に色々と書き連ねることも疲れました。今回の記事で良識ある皆様がご判断くださればと思います。

 

 

抜付の極意

「これ、動画を見ても真似できないですよ。」

渓流詩人さんがそう仰るので、門弟向けに撮影した抜付の極意動画を一部公開してみます。

観察眼鋭い方ですと、どのような稽古をしているのか御理解いただけるでしょう。

派手ではないので素人受けはしません。それが古武術としての居合術稽古です。

無銘室町中期の片手打ち古刀 ~附 朱塗鞘打刀拵~

無銘室町中期の片手打ち古刀 ~附 朱塗鞘打刀拵~
無銘
– Mumei –
 
純然たる杢目鍛えに直刃を焼いた室町中期頃の片手打の古刀で、中心の形状などからも末備前辺りではないかと鑑られます。指裏元の方の棟角に刀疵が在り、実際に戦いを生き抜いた一刀です。
附属の朱塗鞘打刀拵は、突兵拵を思わせる大振りの鐺金具がついた丸型で、鞘の途中には胴金が付き、栗形と鯉口も宣徳(真鍮)にて一作で造られた、実戦想定の強固なる拵で、鐔も切羽も拵製作当時からのオリジナルで貴重。保存刀装審査を是非御受審頂きたく思います。
 
お求め易い低価格にて御案内致しますので、この機会にコレクションにお加え下さい。
 
裸身重量525グラム。  拵に納めて鞘を払った重量748グラム。

これから刀剣趣味を始められる方向けの一刀

これから刀剣趣味を始められる方向けの一刀

無銘
– Mumei –
 
特筆すべき鍛錬疵無し。金着せの良いはばきが装着されており、白鞘も菱型角鳩目が据えられた高級品。
地鉄よく練れ、特に鎬際にかけては色目の異なる地鉄による杢目が顕著に現れています。写真でもご確認頂けます通り、帽子フクラに極小の刃毀れが二箇所ございます。(部分研磨可能)
 
これから刀剣趣味を始められる方へ、まずは一振応援価格として格安で御案内致します。一点物ですので急ぎお申し込み下さい。
 
裸身重量520グラム。

菊池住惟忠 昭和六十年一月吉日 ~清麿写しの剛刀~

菊池住惟忠 昭和六十年一月吉日 ~清麿写しの剛刀~
菊池住惟忠 昭和六十年一月吉日
– Kikuchi ju Koretada –
 
本名大塚惟忠。熊本県菊池市在住。全日本刀匠会会員で、優秀賞等多数の受賞歴があり、地刃冴えた出来口が人気の現代名工の一人です。師は大塚盛竜。
 
本刀は反りやや高く、切先延びた豪壮な姿で、清麿を範とした作品。自家製鋼による地鉄に定評ある惟忠ですが、本刀もそれに洩れず非常に良い地鉄を呈しており、匂口明るく冴えた焼刃は見事で、随所に砂流が見られ、変化に富んだ刃中の働きを楽しむことができます。
 
日頃の御愛顧にお応えし、8月31日までの期間限定特価で御案内致します。この期間を過ぎますと通常価格となりますので、出来優れた実用兼美の現代刀をお探しの方、一点物ですので急ぎお申し込み下さい。
 
裸身重量898グラム。

延寿(金象嵌銘)

延寿(金象嵌銘)
延寿(金象嵌銘)
– Enju –
 
肥後国延寿派は、来国行の孫と伝える延寿太郎国村を祖として、鎌倉時代後期から南北朝期にかけて同国菊池郡の地で大いに繁栄した一派です。この派の刀工には国資・国時・国泰・国吉等多くの名工がおり、これらの刀工達を延寿派と総称しています。
 
現状古研ぎで薄錆点在するも丁寧な磨り上げに金象嵌の極め銘があり、雰囲気の良い脇指です。緻密に練られて肌立った地鉄は美しい一刀です。再研磨の資金を考慮した低価格で御紹介致しますので、是非この機会にお求め下さい。
 
裸身重量432グラム

肥前國忠吉 ~安価刀剣お探しの方向け~

肥前國忠吉 ~安価刀剣お探しの方向け~
肥前國忠吉
– Hizennokuni Tadayoshi –
 
特筆すべき疵欠点無し。忠吉銘に関しては当然ながら首肯できませんので、無銘の刀としてお考え下さい。反り高く優しい姿の直刃を焼いた一刀です。試斬稽古用、これから刀剣趣味を始められるにあたり、まずは一振りとお考えの方に、お求め易い低価格で御案内致します。
 
裸身重量665グラム。

奥州會津住政長

奥州會津住政長
奥州會津住政長
– Oushu Aidu ju Masanaga –
 
初代政長は本国予州松山で、三善長国の子であり、三善長道の父にあたる人物。上京し、肥前忠吉と同じく埋忠明寿の門人で、加藤家の移封に従って寛永四年に父長国と共に奥州会津に移住。これより、会津の地に長国、政長を祖とし、長道へと代々続く名門の三善一派が始まりました。三善一派は業物として良く知られるようになり、政長の子三善長道は会津虎徹と称され、最上大業物としてその名を轟かせています。
政長の名跡はその後六代まで続き栄えました。
 
この脇指は代別までは判りかねますが、数代続く政長正真銘と鑑て良い一刀。残念ながら刀であったものがなんらかの理由により折損または切断されたものを、後世に脇指に仕立て直されたものですが、非常に高い再刃技術が駆使されており、尖り刃交じりの互ノ目乱れには一切の破綻が無く、緻密に練られた地鉄は精美であり、中心に残る火肌さえ見なければ再刃物とは気付けない程です。
元幅約35ミリもあり、重ね厚い様子から、元はかなりの剛刀であったことが偲ばれ、会津政長の資料刀としてお求め頂ければと思います。またはがっしりとした造り込みですので、試斬稽古用として、または研磨修業中の方へ研磨稽古用としてお薦め致します。
 
裸身重量630グラム。

加州清光 ~新選組一番隊隊長の沖田総司の愛刀として名高い刀工~

加州清光 ~新選組一番隊隊長の沖田総司の愛刀として名高い刀工~
清光(加州)
– Kiyomitsu(Kashu) –
 
新選組一番隊隊長の沖田総司及び同隊士大石鍬次郎の愛刀として知られる加州清光。名鑑によると明応から安政頃まで同銘が数人確認されています。
新刀期における清光は、寛文頃の長兵衛清光・元禄頃の長右衛門清光が著名であり、以下同銘数代が継承されています。これらの作風は匂本位の直刃を多く焼いていますが、稀に直刃調の湾れ乱れや尖りごころのある互の目乱れなども見られます。
清光はその銘の切り方に由来し、十二月清光などとも呼称されますが、本刀の銘は十二月にはなっていないものの、数代続く清光のいずれかの作と鑑せられ、小板目よく練れて詰んだ地鉄が美しく、鎬地は柾目が特に強く現れており、匂口は明るく冴え、高低差少ない大湾れを焼き、所々に足交え、太目の金筋が見られます。
御購入後は是非とも日本美術刀剣保存協会の保存刀剣審査を御受審頂き、本脇指の格を上げて下さい。
 
裸身重量476グラム。

為継 ~郷義弘の子~

為継 ~郷義弘の子~
無銘(為継)
– Mumei(Tametsugu) –
 
為継は南北朝時代の延文から応安頃に活躍した刀工で、越中国の郷義弘の子と伝えられています。父である義弘は正宗十哲の筆頭に挙げられた名匠として知られる刀工ですが、早世であったため、同門の則重に師事したと伝えられています。延文二年(1357)および応安二年紀(1370)を有する『越前国藤原為継』銘の作が押形にみられ、また実在する年紀作に『濃州住藤原為継 応安六年癸丑六月日』銘の脇指があることから、同工は応安二年より同六年(1370-74)の間に、越前から美濃国不破郡(現、大垣市赤坂町)へ移住したことが窺がわれます。
美濃国は荘園制度の崩壊による豪族土岐氏の勢力拡大に伴って武器需要が増大したのを背景に、南北朝時代初期に『三郎兼氏』が大和国から多芸郡志津(現、養老郡南濃町志津)に、同じ頃『金重』は越前国より関へとそれぞれ移住して来ており、『為継』もまた『国長』・『国行』らとともに赤坂の地に来住して美濃国の刀鍛冶は隆盛期を迎えることになります。
 
この脇指は、元来長寸の太刀であったものを大きく磨り上げたもので、身幅広く、身幅の割りに重ねが薄い典型的な南北朝体配で、小板目肌柾流れ肌立った地鉄に、地沸つき、一際大粒の沸が地に零れ、焼刃明るく冴えて刃中よく沸づき、総体に雲棚引くかの如く砂流が顕著に見られ実に見事な出来口を誇る一刀です。
 
裸身重量472グラム。