居合形

私は英信流を修行してきた身ですので、英信流以外の流派については疎いです。

以下、私が英信流をベースとした居合を研鑽してきた感想を述べていきます。

人それぞれ考え方や受け捉え方は異なるものですから、私の意見を押し付けるつもりはありませんが、同じ英信流系の居合を研鑽されている方に、何かしら刺激になれば幸いと考えております。

 

英信流には様々な形がございます。

正座から始まるもの。立膝から始まるもの。立ったままから始まるものなど色々です。

形にはそれぞれ想定というものがありますが、私が19歳から現在まで修行と研鑽を重ねてきた結果言えること。

それは、居合形の想定は後付けであるということです。

 

形を演武する動画をアップしますと必ずと言って良い程目にするのが、

「刀を指したまま正座するなんてありえない。」

と言う言葉なのですが、まず、その既成概念を払拭しなければ居合は語れないものと思います。

 

正座したまま帯刀はありえるのです。

 

居合は主に身辺警護の士が嗜むものとお考えください。

武家屋敷には武者隠しと称する小部屋があったりします。

この遺構を今に伝えている建物も現存しており、山口県の萩で見ることができます。

襖で仕切られた部屋と部屋の間に畳一畳ほどの幅の小さな部屋があるのです。これが武者隠しの間。来客があれば警護の士はここで帯刀したまま坐しているのです。襖の向こうに異変を感じればすぐさま対応できるように。

 

また、一尺七寸や八寸と言った長脇指が納められた拵で、小サ刀拵と呼ばれる形式があるのを御存知でしょうか?

通常大小刀の脇指の鞘尻は丸となっていますが、小サ刀はその名の通り、寸法こそ二尺を切る脇指でありますが、事実上は刀として帯刀されました。故に鞘尻の形状は刀と同じく一文字切になっています。

大刀を帯びたまま正座する姿は見かけることがなくても、脇指を指したまま正座する姿は時代劇でもよく見かけますよね。

居合形で長物を抜き差しする技術を身に付けたものが、短寸の刀を扱えばどうでしょうか? 抜刀は更に速く、難なくできることでしょう。

以上のことからも刀を帯刀したまま正座するということは、士の時代には日常茶飯事であったと言えます。

 

そもそも居合とはなんでしょうか?

書いて字の如く居合ったところから始まるものが居合だと私は考えております。

刀を鞘から抜いて「さぁ立ち合え!」とするのが立合なら、その逆が居合。

腰に刀を帯びているからと言って刀に固執する必要はなく、手元に茶碗があればそれを相手に投げつける。長物よりも短物が有利と思えば脇指や短刀で応じる。長押の槍や薙刀を手に取る時間があればそれを持って応じる。素手の方が手っ取り早いと思えば素手で応じる。それが居合ではないでしょうか。

それなのに居合や剣術に興味を示す素人の方は、腰に帯びている刀に固執し過ぎなのです。だから形演武を見ても、実戦向けではないなどと発言されるのではないでしょうか。

 

居合形の想定は後付けと最初に記載しましたが、これはまさにその通りだと近頃は更に実感するようになりました。

居合形(英信流)は想定された位置の相手を斬り伏すものではなく、その想定に沿って演武をする中で、身体操作を学ぶものだと実感しています。

 

例えば正座の形にあります介錯と呼ばれる形は、介錯人が介錯するための形ではなく、手裏剣(棒手裏剣)を打つ所作と術理を学ぶためのもの。

中伝立膝の浮雲と呼ばれる形は、合氣道で言うところの一教裏を学ぶためのもの。颪と呼ばれる形は合氣道で言うところの二教の術理を学ぶためのもの。奥居合の袖摺返と呼ばれる形はこの二教を更に小さく、実用的に学ぶためのものと私は捉えています。

 

合氣道のように二人一組で稽古する武道と異なり、相手を置かずとも同じことを単独で習得するために練られた形。

ただ、それでは稽古する側には物足りないので、仮想敵を置いて、それを斬る動きの中で学ぶのです。実によく考えられたものだと感心せざるをえません。

更に私が思うには、想定を後付けした理由として、居合形を学ぶ者にその真意を隠すという役割があったものと思うのです。

始めから「この形では体術のこうした動きを学ぶためのもの」と教えることなく、ただただ、敵がこの位置に居ればこのように斬るのだ。と教える。

ベストキッドと言う映画の中で、ミヤギさんにひたすら「ワックスかける」「ワックス拭きとる」と、単調な動きばかりをやらされるシーンがありますが、意味も解らずひたすら単調な動きをさせられるよりは、仮想敵があるだけ学ぶ者に対し、やる気を起こさせるものであったのではないでしょうか?

 

今現在の英信流修行者の方で、形の真意を御存知の方は殆どおられないものと思います。だから英信流の宗家が代替わりする度に形が改変されていくわけです。それは後付けの仮想敵を斬ることしか考えていないからであり、居合形を通じて学ぶべき真意を見落としている証拠と言えるのではないでしょうか。

 

そういった真意を知らずして居合道や居合術の普及を口にされる御仁を見ると、僭越ながら「まだまだ居合を語るには早すぎるのではありませんか?」とついつい喉まで言葉が出そうになります。御節介焼きな私は時折老婆心からちょこっとコメントをしてしまうのですが、それが原因で相手を怒らせてしまう、または相手の気分を害してしまうことがしばしばございます。

少し賢くなりましたので、今後は「あぁ、まだ御理解されていないな。」と傍観する姿勢で参ります(苦笑

 

体術を学ぶための後付け想定の形なら居合形は宗家が代替わりしても不変のはず。たった1ミリずれただけで体術はかからないからです。それが改変されては形を創案した古の先人達に申し訳が立ちません。

私は現在、無雙直傳英信流町井派から名を修心流居合術兵法に変えて居合術を指導しておりますが、私の英信流居合形は本家や正統派と称される英信流とはかなり異なるものとなっております。

自分で言うのもなんですが、私は己が演武する英信流ベースの居合形こそ、本来の改変される以前の古い居合形に限りなく近いもの、更に言えば古い英信流そのものだと自負しております。

 

とにかく居合形に隠されたその真意を読み解くことが今は楽しくて楽しくて仕方ないのです。刀を腰に帯びずとも、護身術として生活の場でも役立てることができる居合こそが本物の居合であり、「居合道」ではなく「居合術」だと信じてやまないのです。

近頃はそうした形に隠された真意を教授しているためか、私の道場に通う方々は、合氣道や少林寺拳法の指導者や現役自衛官や警察官等が熱心に稽古に打ち込んでおります。稽古の中では「○○さん、警視庁24時の取材を受けることがあったら、この業を応用して恰好よく犯人逮捕するシーンを!」なんて笑いも交え和気藹々と皆で先人達が遺して下さった居合形を楽しみながら修業しております。

 

番宣 毎日放送『ミント!』本日放送

毎日放送 ミント!

突然ですが、本日放送の『ミント!』アジアンのぷらパトのコーナーで修心館大阪豊中岡町道場が紹介されます。

番組は15:49~放送です。ぶらパトのコーナーは18:30くらいからかと思います。

形骸化された形居合ではなく、相手の軸を制することに主眼を置いた“修心流居合術兵法”ですが、普段は何か斬るところばかりがピックアップされる中、今回の放送では居合術とは?を御紹介する内容に仕上がっているものと思います。

是非御覧ください。

https://www.mbs.jp/mint/

番組WEBサイト

刺突を捌く

土曜、日曜と、二日間、「刺突を捌く」を課題に稽古を行いました。

私自身、門弟に指導している中で、新たな閃きや気付きをもらうことが多々あります。

 

土曜の稽古では、柳原が刀の反りを活かして突いてくるのを捌く中、確実に私の切先が柳原の喉や胸元をとらえて勝負が決しているのに、その後に外に外された柳原の切先が私の肩をとらえる現象が起きました。

これが真剣なら、勝負としては明らかに私の勝ちですが、私も手負いになったということです。

私はこういう現象が起きると、ガリレオの湯川学教授の如く

「実に面白い」

と、徹底的にその現象が何故起きたのかを検証します。

そして気付いたのです。

己の軸の僅かなズレに。

それを修正して再び柳原に突かせてみると、面白い程業が決まる。つまり己は手負いにならないのです。

 

更にこの突きの捌きから、他の捌き(業)へ転向させることも稽古の中で行いましたが、これがまた実に興味深い。

この二日間、大変有意義な稽古ができたこと、嬉しい限りです。

模擬刀は10年を目安にした方が良いのかもしれません

今夜の稽古時に門弟である柳原の模擬刀が茎から折れました。

折れた模擬刀

刃がついていない模擬刀と言えど、近頃の模擬刀はかなり薄刃仕上げが多く、切先は厚刃のものでも尖っています。

運悪く周囲の人に刺さってしまうと死亡を含む大事故に繋がりますから、狭い空間での稽古は細心の注意が必要ですね。

 

実は稽古中に模擬刀が折れる事案は今回で三回目。

一回目は中古模擬刀を買ってきた門弟の物を、稽古に使える強度なのか確かめるべく私が抜付した際にはばき下から折れました。

二回目は購入後一ヶ月程の新品の模擬刀でしたが、尺骨を使って抜きつけた刀の勢いを止める狭い場所での抜付稽古の際に、やはりこちらもはばき下から折れました。

そして今回の三回目ですが、柳原が稽古開始前に素振りをしていたら折れたとのこと。私は仕事の都合でその場には居合わせていなかったのですが、やはり今回もはばき下で折れていました。

 

柳原の模擬刀は、購入してから約8~9年になるでしょうか。

 

私が思うに、居合稽古用の模擬刀は、10年を目安に刀身を交換するか、買い換えたほうが安全のためには良いように感じます。

長らく使い続けている模擬刀をお持ちの方、眼に見えぬところで金属疲労を起こしているかもしれませんから、事故を招かぬようご注意くださいね。

 

美濃坂製の模擬刀なら、私が営む「刀心」が1~2を争う最安値です。もし刀身交換しゃ買い替えをお考えの場合は是非ご相談下さい。

修心流居合術兵法 奉納公開演武のお知らせ

2月11日(祝 建国記念日)に、東京都大田区東雪谷にあります 雪谷八幡神社(ゆきがやはちまんじんじゃ) に於きまして、公私共に深いお付き合いを頂いております青木久先生が奉納演武を行われます。

ありがたいことに修心流東京道場の門弟さん達も御一緒にいかがですかとお誘いいただきまして、まだまだ技量未熟ではございますが、私の門弟二名が演武奉納させていただくことになりました。

当日は単独で行う居合形を五本程演武奉納予定です。

私自身も時間の都合がつけば応援に馳せ参じるつもりです。場合によっては私も演武奉納させていただくかもしれません。

 

上述の通りまだまだ技量未熟ではございますが、日頃一生懸命居合術修行に打ち込んでいる門弟二名の演武。剣友であります青木久先生の演武も見ものです。

お近くの方やお時間許される方は是非とも雪谷八幡神社へお越しいただき、奉納演武を御観覧下さい。

袈裟の角度を作る

昨日は修心流居合術兵法東京道場直伝稽古日でした。

私が関西に住んでいるため、頻繁には東京に指導に行けない都合上、一カ月に一回乃至二回、1日6時間ぶっ通しで稽古指導するのですが、昨日の稽古は6時間ずっと袈裟の角度作りの稽古、つまり、袈裟の構えの稽古を行いました。

居合形を稽古するわけでもなく、ただひたすら上段に構えた刀を袈裟の構えまでもっていくだけの単純な稽古。

多くの人はつまらなくて辞めてしまうことでしょうが、今現在稽古に励む修心流の門弟達は皆熱心で、黙って私の指導に従ってくれます。

6時間ずっと同じことばかりさせる側としても、やはり少しは気が引けるもので、

「もう3時間もこればっかりやってるけど、もし飽きたなら他の稽古にしましょうか?」

と問えば、嬉しいことに

「いえ、このままこの稽古でいいです。」

と言ってくれました。

 

この日6時間もぶっ続けで同じ所作の稽古ばかりした甲斐があり、目覚ましく進歩した門弟も(嬉

しかしながら、私も驚く程理想的な動きが出来るようになったのに、暫くするとまた出来なくなっている。

 

6時間の稽古が無意味だったのかと言えばそうではなく、一度でも体現することができたなら、また身体が思い出す時が必ず来ますし、過剰な意識が出来ないようにさせているので、その意識を捨て、壁を超えることができた時、その所作と業は真にその人の物となるのです。

 

できたものができなくなる。その繰り返しで業は昇華されていきます。

 

さて、表題にあります「袈裟の角度を作る」というものですが、上に記しました稽古法にて習得します。

単に斜めに刀を振ることが袈裟ではないと、過日の記事で書きましたが、1度ずつ角度を変えた場合、袈裟は左右それぞれ88通り存在することになります。

皆さんは1度ずつ角度を変えて88通りの袈裟に刀を振ることができますか?

いくら刀を水平に近い角度にしたところで、腕で角度を作っている間は全88通りの袈裟はできないものです。

1度ずつ角度に応じて身体を変化させることが出来るようになれば88通り全ての袈裟ができるようになります。するとピンポイントで甲冑の隙を狙い斬ることも理論上可能になるわけです。

 

試斬

試斬(しざん)

文字通り、その刃物の切味を知る為に行う物が本来の試し切りだと私は考えているのですが、いつの時代からか自分自身の腕試しに変わってしまったように思います。

昨夜、とある古流を名乗る道場が、試斬を積極的に取り入れている理由をこのように記しているのを見かけました。

 

形通りに試斬をすることで、刃筋を通すことと間合いを学ぶ。

 

一見理に適った理由に見えますが、人と畳表では間合が異なることを知らなくてはいけません。畳表を両断する間合は畳表を両断するための間合。武術としての間合ではないのです。

こうしたところに現代を生きる居合、剣術修行者、指導者の思慮の不足を感じてなりません。

 

私も時折畳表や竹を斬ることがありますが、現在では試斬や試斬稽古とは言わず、自分の中で明確に試斬と分けているつもりです。畳表斬りはあくまで刃筋確認であって、武術ではないのですから、

 

斬稽古

刃筋確認

 

と称すのが妥当と考えます。

 

畳表や竹斬りは、あくまで斬る稽古、刃筋を通すための稽古であって、間合の稽古ではない。

故に私の道場では試斬と言う言葉は使いません。

一時私も物を斬ることで実力を示すと言う、馬鹿な観点を重視した時期があり、その頃には頻繁に畳表を斬る稽古を行っていましたが、武術としての居合、剣術をつきつめていきますと、物を両断することに意味を感じなくなりまして、今では数か月に一度、例えばいつも利用している稽古場が利用できない日等に行うのみとなっています。

それでも日頃から私の下で研鑽を詰む門弟達は、斬り損じること少なく、返し斬りも難なくこなすのです。日頃から畳表を頻繁に斬っている居合、剣術修行者より上手です。

 

今日のブログ記事で私が皆さんに伝えたい事、それは…

 

・畳表を斬ることでは武術としての正しい間合は学べない。

・試斬とは文字通りその刃物の切味を試す行為であって、個人の腕試しを意味するものではない。

・畳表や竹を斬らずとも、正しい稽古を積めば刃筋は通る。

・刀を損なう試斬はすべきではない。

 

の四点です。

あなたが武術としての居合、剣術を求めているのなら、上記四点、心のどこかに留めてください。

 

最後に…

私の様々な物斬りギネス世界記録を見て、斬ることを否定してる割にやってることが違うではないかと思われる方もおられると思います。

私のギネス世界記録は居合研鑽の副産物であり、記録達成、記録認定を目指して築き上げたものではありません。全てテレビ企画等で頂戴したあくまで副産物。

故に番組の予算や企画内容によっては、前人未到の記録を打ち立てても、ギネス世界記録に登録されていないものもあります。

例えば… マッハ1.17で飛んでくるピンポン玉の居合斬りなんてその格好の例です。

私は愛刀家として、また、武術としての居合を嗜む一居合術家として、無意味な試斬や試斬体験会には一生涯否定的な立場であることに変わりはありません。

袈裟

自分で言うのもなんですが、私の追い求める居合は完成されつつあります。いや、既に完成したと言っても良いかもしれません。

現在、家庭環境や色んなものが変わりゆく日本で、実子達に技術を残すことが困難と判断したため、この技術をなんとか残したい一心から、時間がある時に私の居合論をせめて文字でだけでも残そうと思います。

 

私の世間の評価としては、他流批判が多いとか、自分こそが一番だと思っている。と言ったご意見をいただきます。

しかしながら私が追い続けてきた居合を語るに当たっては、他流批判したくなくとも、どうしても比較対象になるため、批判めいた言葉になってしまいます。

ですから己の居合を否定されるのが嫌だとか、私の他流批判を見たくないという方は、申し訳ありませんが私の記事を読まずにそっとブラウザを閉じてください。

 

まず、今回の題目にある『袈裟』についてですが、その概念を根底から覆さなくてはなりません。

袈裟と言えば単に斜めに斬ることだと一般的には教えますが、全くもって教える側も袈裟について理解できていないのが現在の居合、剣術の世界の有様です。

他者の居合形演武を見ると、樋が入っている刀を用いているのにもかかわらず、袈裟に振っても樋音が聞こえない。そういう現場をよく目にしてきました。

私の英信流居合の師であった吉岡早龍師ですら、時折樋音が聞こえないことが見られたものです。

 

何故樋音がしないのか?

 

答えは至極簡単なことで、腕で袈裟の角度を作っているからです。

全ての居合修練者を知っているわけではありませんが、私がここで言う武術としての袈裟が出来ている人は、なかなか見ません。

何を偉そうに言ってるんだと思われる方もいらっしゃるかと思います。

確かに文字や言葉だけでお伝えするのはなかなか難しく理解を得られないのも仕方ないかと思います。

そういった方の中で私が言う武術としての袈裟を知りたいと思って下さる方は機会を作って私の道場をお訪ねください。

お越しいただき体験して頂ければ納得していただけるようご説明いたします。

 

近頃はSNSの発達により、映える動画、写真を撮りたい素人さん相手に試斬会や試斬体験を積極的に開催する個人や道場が散見されます。現代の若い方が日本の文化に触れ知っていただけるのは嬉しく思うのですがその反面、私は常日頃から言っているようにこうした素人さんへの日本刀の損傷を招く試斬会には反対の立場にあります。

辛辣なことを書き綴りますが、はっきり言ってそういった道場の経営者様や試斬会の会主様は私の眼から見れば素人の方も多いです。しかしこうした経営者様や会主様が、武術や刀を知らぬ人にとっては、なんでも体験させてくれるありがたい存在のようで、刃筋もまともに立っていないのに、畳表が二つに切れている様子だけを見て、「流石ですね」「いつもながらお見事です」などと言ったよいしょよいしょのコメントを素人の方はSNSでつけるのです。

確かに経営者としては試斬会等で商売になるのなら、それは経営という角度から見ると正しい姿なのかもしれません。ですがそんなコメントに一喜する素人先生によって益々刀に負担をかける間違った刀法が広まり、それを漫画や絵のモデルとするため、刀剣や武術の知識を持たぬ人の間で、間違いが正しいものにすり替えられてしまうのです。実に嘆かわしいことではありませんか。

畳表は反撃してこない。刃筋とスピード、物理法則さえ合えば、多少刃筋が狂おうとも切れてしまうもの。故に意味のない試斬は本来行うべきではないのかなと私は思います。

今現在、海外に流出した刀剣も含め、日本刀の現存数は莫大です。故佐藤寒山先生曰く、戦前で600万振。戦後破棄されたり流出した物を除いても、300万振は残っていると言われます。何故これまでの数の日本刀類が残っているのかと言えば、使用されなかったからです。

時折刃筋確認のため、刀を使って物を両断する士はいたかもしれませんが、今の時代のように頻繁には行われていなかったのが事実です。

話を素人先生による試斬会に戻しますが、動画を見ていると酷いものです。愛刀家の私は思わず目を覆いたくなる。そんな動画が多々あり、そういう動画に限って再生回数は多く、素人によるいいねもたくさんついています。

頭上に振り上げた刀を、手首で斜めに角度を付けさせ振らせるわけですが、そもそもこの行為自体が間違い。畳表や竹を切るだけなら勿論問題はありません。物理法則に適えば切れるのですから。

 

私が今ここで語りたいのは武術としての袈裟。

ここのところ私が居合術を指導する居合道場修心館では、居合の形稽古を2週間程行っていません。ただひたすら袈裟の稽古をさせています。

袈裟斬が単に斜めに刀を振り下ろすことなら、門弟たちの貴重な時間を単純な同じ動作の繰り返しに充てたりはしません。私の下で修業11年目になる最古参門弟の柳原ですら、未だに満足いく袈裟ができず悩んでいます。

それほどまでに武術としての袈裟は難しいのです。

袈裟は腕で角度を作るものではなく、骨格、身体全体を使って作るもの。上段に構えたところで腕を掴ませ、相手と力ぶつかることなく袈裟に構えることができれば、それは武術としての完成された袈裟です。力がぶつからないと言うことは、袈裟に構えた時点で腕を掴んでいた相手が崩れます。そしてお互いに高い修練を重ねた者同士になると、身体に触れてもいないのに、袈裟に構えられただけで身体が崩れます。傍から見ればやらせのように見えますし、今現在の居合、剣術の世界では、間違ったものが正しいことと教え広められているため、私の袈裟理論についてもなかなか受け入れてはもらえませんが、実際に体感された方々は目から鱗が落ちたと驚かれます。

ここで全てを書き綴るわけではなく、私の門弟や私の居合に理解を示して下さる方に、今はヒントだけをお知らせしたいと思います。

 

全身→真向

半身→袈裟

 

半身とは身体をひねることではない。

身体を横に向けることでもない。

 

 

最後に、私がここで言う袈裟が出来るようになると、己の刀を損傷させにくいという効果もあることをお知らせします。

腕で角度を付け、袈裟に斬っている間は刀にかかる負担は大きい。正しい袈裟ができれば刃筋が狂うことはありません。

腕で袈裟に斬ると相手の刀とぶつかった時、刀は必ず破損しますが、正しい袈裟ではせいぜい刃先を丸めるか、刃こぼれしても小さなもので済みます。

御興味があれば、お互い木刀を構え、正眼に構えた相手の木刀に、ゆっくりと袈裟に振り下ろして下さい。手で袈裟に振っている間は相手の正眼を崩すことはできず、己の木刀が相手の木刀に沿って流れますが、正しい袈裟ができていれば、相手の正眼が簡単に崩れ、己の袈裟の軌道は保たれたままとなります。

これはつまり、振り始めから振り終わりまで、刀と己の身体が完全に一致しているからであり、逆を言えば最初から刀と己が一つになっているため、先を取られた時には己が大きく崩されてしまいます。

じゃ、ダメじゃん!

と思われる方がおられるでしょうが、崩れること、崩されることが察知できる体幹を身に付けると受身を取ることができるようになりますからそこはあまり問題はなく、注目してもらいたいのは強く打ち込んだにもかかわらず、刀の損傷が小さいということ。先をとられると力は己に返ってきます。故に刀の進行方向とは逆の方に力が進むと言いますか、衝突がなくなるため、刀が損傷しづらいのです。

言葉や写真、動画を駆使しても、こうした僅か0.1ミリの動きで相手を崩すという武術としての身体操作は、なんとなく想像することができたとしても正しくは伝わりません。故に真摯に何かを学びたい、身に付けたいと考えたとき、近場のありふれた道場へ通うのではなく、その道の一流と言われる人に師事することが大切。

ただし、体現できても教えるのが下手な一流人もいます。この場合、言葉も生活習慣も何も知らない土地にいきなり放り込まれて生きていくのと同じで、辞書すらない中、自分で翻訳し、正しく理解する必要があります。時間はどうしてもかかりますが、本来武術とはそういうもの。習いだして半年や1年で段位を取得できる今の居合、剣術の世界には疑問符しかつけられません。

袈裟

袈裟

と聞いてまず思い浮かべることは斜めに斬ることではないでしょうか。

ネットサーフィンをしていると、様々な人による袈裟斬り(素振り含む)を見ることができます。

が、私が理想とする袈裟斬りが出来ている人を、私はみかけたことがありません。交友関係が狭いのもあって、全ての人の袈裟を見ているわけではないのですが、少なくとも私が見たネットでの動画ではいません。

試斬動画で綺麗に袈裟斬りしてるじゃないか。

と思われる方もおられるでしょうが、斬れる斬れないの問題ではなく、今回私がお話しするのは、武術としての袈裟についてです。

試斬は刃筋さえ立てればどんな振り方でも斬れるものです。ですから試斬での袈裟斬りだけで判断してはいけません。

 

修心館今夜の稽古課題は袈裟でした。

私が理想とする袈裟とは、構えるところから斬り下ろしたところまで、どこをとっても相手におさえられない身体捌きで行うもの。

今夜の稽古では二人一組で木刀を用い、ひたすら袈裟に斬り込む稽古を行いました。

速く振る必要は無く、的確に剣先に重さがのっているかどうか。また、その重さが斬り終えるまで正しく続いているか。の確認です。

 

今のところ私が理想とする袈裟ができるのは最古参門弟の柳原のみ。

他の門弟達はまだまだ四苦八苦しています。

正しく袈裟を斬ることができなければ、二刀の業(わざ)は成立しません。

巷では二刀を用いる流派をちらほら見かけますが、果たしてどこまで技術があるのか…

諸手持ちですら正しく袈裟が斬れないのに、片手になればなおのこと袈裟に斬れるはずもなく、ただただ形通りに打太刀と仕太刀が演武しているだけというのが多いですね。

 

試斬で斜めに斬ることができたから袈裟斬りができると早合点は絶対してはいけません。

袈裟斬りを極めようと思えば何年もかかるものなのです。

このブログを読まれた居合剣術修行者の方、あなたの袈裟はいかがでしょう? 理に適った身体捌きで斬ることができていますか?

単純なもの程習得は難しい。今夜はそんなお話でした。

近頃の修心館 ~バイリンガルを目指す私~

近頃私が運営する居合道場『修心館』は国際色豊かになりました。

現在三名の外国の方が私の下で修業しています。

まだ片言の日本語だったりするものですから、私も片言の英語で説明します。

うまく説明できない時には、英語を話せる門弟にその場で英語を教えてもらって話しています。

つい先ごろ、日本に留学中の一年間みっちりと修行したいとのことで、週3で道場に通うことになったディロン君。

彼が日本留学を終え、一年間の修心流居合術兵法修行を終えるころには、私の英会話力が少しは上達しているのでしょうか。

英語を自由に話せるようになったら楽しいでしょうね。

門弟に居合を教えながら、門弟との会話の中で英語を学ぶ…

英会話教室さながらでなかなか楽しいものです。