タグアーカイブ: 美術刀剣刀心
無銘 ~町井勲監修、黒蝋塗鞘打刀拵新調済み 身幅広い剛刀~
紀伊國上村康光
菊紋(伝國清)
– Kikumon(Den Kunikiyo) –
http://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/katana/611/00.html
初代山城守國清は松平忠昌公の抱え工で名を吉右衛門と言い、三代島田助宗の子として信州松本で生まれました。 初銘は助宗。後に上洛して堀川國広門下に入り、銘を國清へと改めています。
師である國廣没後は越後高田の松平忠昌に仕え、更に忠昌が越前福井に転封の際には、主君に従って同地に移ったと伝えられています。寛永四年山城大掾を受領。菊紋を切ることを許され、翌年に山城守へと転じ、慶安二年に六十歳で没しています。
國清銘は数代の継承が見られますが、中でも初代が上手で位高く、二代國清は初代の子で、作刀は初代同様に直刃の作が多く、肥前刀さながらの作風を示したものがあります。また、一般的に初代作には「一」の字を使用しているものはなく、二代以降の作に「一」の字を切っていますが、初・二代を明確に区分する事は現時点では難しく、今後の研究課題となっています。
この刀は悪意ある者の手によって銘を消され、中心尻の形状を変え、花弁中央に鏨を切られ、中心指表に井上真改の銘を切られた形跡が見られます。現在はその悪意ある銘の改竄を正し、菊紋のみを残して無銘にしてありますが、元々在銘であった真面目な作が偽物作りの材料にされてしまったことは、一愛刀家として非常に悲しいことと考えています。
ただ、偽物作りの材料となっただけあって、地刃の出来は冴えていますので、心あるお客様の元で愛でて頂きたく存じます。
江戸期に上士の間で流行した短寸の刃長、赤銅着せのはばきが装着されていることから、位の高い士による注文打ちの一刀であったことが窺がい知れます。
現状でも御観賞には充分耐えうる研磨状態ではございますが、お安く御案内致しますので、是非とも再研磨の上愛でてあげて下さい。
※はばきの赤銅色揚げ及び研磨のご依頼はお気軽に御相談下さい。
裸身重量679グラム。
加州藤原景平(初代兼若の長男にして事実上の二代兼若と言われる加賀前田家お抱えの名工)
加州藤原景平
– Kashu Fujiwara Kagehira –
http://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/wakizashi/365/00.html
越中守高平(初代兼若)の長男。父高平の作刀を助けて時に代作も務めました。加賀前田家に仕え、同国で最もよく知られた兼若一門の刀工です。
俗名を辻村四郎右衛門と称し、辻村家の家督を継ぐも、父である初代兼若が高平へと改銘するに伴い、自身も景平と名乗り、兼若とは名乗っていないものの、事実上の二代兼若に当ります。
尚、兼若銘は弟である又助が襲名し、上述の通り、景平は辻村家の家督を継ぐも、兼若家の由緒書によれば彼には子がなかったため、又助兼若が養子となり、辻村家の家督を継いだと記されています。その後兼若の名跡は代を重ねて繁栄しました。
この脇指は加賀前田家中による依頼で鍛えられたものと推測され、武家における大小の小として頃合の寸法。元先の身幅の落ち具合や程好い反り、帽子やや延びごころの体配は、流石は加賀正宗と称された兼若家の手に成る脇指であると感服させられます。
地鉄は小板目で、所々に大肌や粕立つところが見られるも、総体に言えばよく詰んて潤いを感じさせるもので、淡く映りも立ち、刃文は匂口柔らかい感じの匂勝ちなる湾れ調互ノ目乱れ。匂口明るく、刃中にも細かな働きが随所に見られます。
兼若(景平含)の作に関し、前田家中の間では「見るには沸出来。使うには匂出来。」との言葉が残っており、兼若家の作品は沸出来よりも匂出来の方が利刀としては優れていた節が窺え、本脇指はその後者である匂出来の作品。観賞よりも実用を重視した士からの需めに応じて鍛えられた作品やも。と考えると、歴史浪漫も広がります。
※はばき上棟に鍛え筋。切先々端と刃区に小錆があります。
初代の代作をも務めた事実上の二代兼若!! 利刀としてもその名を轟かせ、良業物の作者としても有名! 是非この機会に御入手下さい。
裸身重量399グラム。
家平
無銘
無銘(平長盛)
肥州河内大掾藤原正廣(四代)
肥州河内大掾藤原正廣(四代)
– Hishu Kawachidaijo Fujiwara Masahiro(4th generation) –
http://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/wakizashi/361/00.html
四代正廣は友之進と称し、正廣家三代目の子で延宝三年の生まれ。宝永元年に没した父の跡を継いで家督を相続し、宝永五年の河内大掾受領を機に銘を改めました。宝永七年には、忠吉及び行廣と共に幕府から朝鮮通信使への贈り物とされる刀剣の製作を命じられているように、高い技術を備えて肥前鍋島家に仕えていました。
正廣家は初代忠吉に養子として迎えられた吉信の子に始まり、山城伝直焼刃を特徴とする忠吉一門とは作風を異にし、相州伝を基礎とする乱刃を得意としましたが、基本にある地鉄鍛えは、微細な地沸で覆われて緻密に詰み、江戸期肥前刀の代名詞である小糠肌となります。
この脇指は、中心千両の言葉に相応しいスキッとした中心に、程好く反りが付いた美しい体配を誇り、切先は延びごころで鋭さを感じさせます。
地鉄は小板目肌が良く練れて詰むも少しく肌立ち、地沸付き、地景入り、匂口明るく冴えた湾れ基調の互ノ目乱れを焼いており、刃縁に砂流や金筋、足等の働きが顕著に見られ、四代正廣の技量の高さを誇示する出来口で、時代物の金着せはばきが伝来の良さも物語っています。
裸身重量579グラム。
一龍子作(長光)
戦時中岡山刑務所の所長であった江村繁太郎は、模範的な受刑者の更生を願い、市原一龍子長光を招聘して受刑者に先手をさせ、刑務所内に於いて数多の日本刀を鍛錬しました。
そのため俗に市原長光の作は、世上、「監獄長光」と言われていましたが、岡山刑務所で鍛えられた作には「江村」と銘切られていたため、長光個銘の作を指して「監獄長光」と呼称するのは間違いと言えます。
戦時中という世情もありまともな美術研磨を施された作品が少ないため、単に本鍛錬軍刀の一つと括られ勝ちですが、入念なる研磨を施して見るとその技量の高さに誰もが驚く昭和の名刀で、利刀としての評判は当時から高く、陸軍受命刀工としても活躍しました。
この刀は見幅広めで重ね厚く、松葉先もしっかりと張って切先が延び、如何にも物斬れしそうな豪壮さを感じさせる体配に、杢目肌が良く練れて肌立ち、匂口明るく冴えた互ノ目丁子を巧みに焼いた作品で、新々刀期の備前物を彷彿とさせる出来口。
附属の拵は陸軍将校用新軍刀。通称三式軍刀。またの名を決戦刀と呼ばれるタイプで、それまでの戦訓から、九四・九八式軍刀は「柄」と柄に纏(まつ)わる目釘と柄糸の脆弱性が問題視され、それらの問題を改善し、且つ、時局柄、機能・実用に重点を置いた外装として誕生しました。
責金や猿手は省略され、鐔と金具も簡素化。鯉口には防塵2分割口金を採用。また、納める刀身の中心の長さを増し、二本目釘にして頑強さを求めました。中には通常、竹を用いて作られる目釘を、螺旋式の鉄目釘にしているものも見られます。
柄巻きは一貫巻を採用し、柄糸には漆を掛けて補強が図られた他、目貫が旧来の太刀拵から打刀拵の位置に変更される等の特徴を持つ、まさに実戦用軍刀拵です。本刀附属のこの三式軍刀はその中でも初期型で保存状態極めて良く、軍装趣味人にとっては垂涎の品と言って過言ではないでしょう。
現状でも地刃の観賞は可能ですが、出来が良い一刀だけに、是非とも美術観賞用の真面目な研磨を施して頂き、市原長光の技量の高さをご堪能下さい。
裸身重量794グラム。 拵に納めて鞘を払った重量1,157グラム。