天心流兵法が発信する誤まった情報を真向から斬る! ~刀は地面に立てるものではない!! 4 ~

昨日より発信し続けている“刀を杖のように立てる所作”についてですが、その後新たなことに気付きました。

遊楽図

若い武士の花見の様子だとして紹介されているこの画に疑問を感じた私は、昨夜色々と調べてみました。

気になったのは以下の点です。

 

・同様の画題の他の画にも、ほぼ同ポーズで刀を杖にもたれかかるような人物が描写されていること。

・それらの人物は士分にしては衣装が派手であること。

 

天心流の主張

ここで紹介されている画の人物も、刀に身体をもたせかけていること、衣装が士分にしては派手で奇抜です。

そこでこれらの画の全体を見てみました。

彦根屏風

天心流が若い侍と紹介していた刀にもたれかかる人物…

士(さむらい)ではなく、かぶきおどりの役者であることが判明。

かぶき踊り

かぶき踊りは、出雲阿国(いずものおくに)が創始したといわれています。

かぶき踊り出雲阿国とされる刀を担ぐ人物。

 

かぶき踊り

こちらも刀を杖のようにしてもたれかかっています。

かぶき踊り

拡大した画像を見ると、唇に紅を塗っており、男装したかぶき踊り役者であることが判りますし、この画のように刀を杖にもたれかかるポーズは、かぶき踊り演目の一場面であることを窺い知ることができます。

天心流が発信したこれらの画に関する見解は完全に誤りであり、士分の者が、刀を杖のように立てることが当たり前の所作であったと言うのも大きな間違いであると断定できます。

また、刀を杖のように立てる所作について、天心流が発信した見解と情報は、“大小二刀を持っている=武士” との誤まった先入観によって、天心流が勝手に作り上げた虚構である証明と言えるでしょう。

 

また、昨日知人から大変有力な情報を頂きました。

つい最近、幕末の写真について解説するテレビ番組があったそうで、一枚の写真撮影に要する露出時間が2分程必要であったこと。改良されたカメラと撮影技法においても、20~30秒程露出時間が必要であったため、カメラマンは士に対し、身体のブレを抑えるべく、刀を杖のようにするポーズをとらせたのではないかと推測されるというもの。

 

更にこれに対して補足しますと、坂本龍馬の有名なこの一枚も…

もたれかかる坂本龍馬

気取って格好をつけるために台にもたれかかっているのではなく、ピンボケを防止するために台にもたれるようなポーズをとったのではないかと推測されるのだそうです。

 

刀を杖のように立てる所作は、士の時代には無かったと考えるのが妥当と結論付けて良いのではないでしょうか。

また、天心流兵法は江戸初期から伝わる流派で、様々な所作や作法が伝わっているとする割には、江戸時代には存在しなかったであろう所作を、江戸時代から存在したと主張している時点で大きな矛盾があり、江戸柳生を名乗るその伝系にも必然的に大きな疑問符をつけざるを得なくなります。

天心流兵法が発信する誤まった情報を真向から斬る! ~刀は地面に立てるものではない!! 3 ~

車のバンパーは、衝突の際に車本体や搭乗者を守るためにあります。

しかし、だからと言って無駄にバンパーを擦る人、当てる人は居ない。刀の鐺や石突金具も同じです。

現代人がバンパーを擦っただけで滅入るのと同じく、士達は鞘や鐺に傷がついたら滅入っていたはずです。

 

私が今から20年程前に、共に居合を修業していた友人とこのような会話をしたことがあります。

 

私「甲冑って高いやん? 新調した甲冑着て戦出てさぁ、相手に切り込まれたりして兜や鎧に傷がついたらどう思う?」

友人「そりゃぁ許されへんなぁ。弁償しろって思うし、弁償してもらえない戦の場やったら、絶対こいつ殺したる!って思うなぁ。」

 

人間なんてそんなものです。

 

秀吉が戦国時代までは単なる武器でしかなかった刀剣に、美術的な価値を認めさせた頃から、刀はただの刃物ではなくなりました。

士分の象徴であり、武士の魂にまで昇華したのです。

 

あなたが頑張って貯めたお金、もしくはローンを組んで最高級のベンツを買ったとしましょう。

バンパーは障害物に当っても車本体を守るためにある物だから…

バンパーは傷ついて当然のものだから…

そう言いながら笑ってバンパーを擦れますか?

 

刀も全く同じです。

今の時代の安価なカシュー塗とは違うのです。

本漆で鞘塗りを依頼したことがある人なら解るでしょう。

安いところに頼んでも、鞘塗りだけで10万円程が消えて行きます。

 

それだけのお金をかけた鞘に、自ら傷をつけるようなことをするでしょうか?

湯水のように使えるお金を持っている人は論外ですが、一般人の感覚ではできないものです。

 

重ねて言います。

刀も車のバンパーと同じです。

uS63 AMG longv

天心流兵法が発信する誤まった情報を真向から斬る! ~刀は地面に立てるものではない!! 2 ~

先のブログ記事を掲載した後、天心流兵法を名乗る団体が、いつものように後出しジャンケンの如く、言い訳記事をブログやツイッターで発信するであろうことは予測していました。

案の定必死になって刀を立てていたり、杖にしているような古画を引用して自分達の主張を正当化しようとしています。

天心流の主張

必死になってネット検索している姿が目に浮かびますが、その努力をもっと別の方向に使えば良いのにと思うばかりです。

間違いを認める勇気も必要。そうしなければ人は成長できません。

 

三枚掲げたうちの下二枚は、刀を杖のように立てているのではありません。更に補足しますと鐺を傷めぬ場であることが想像できます。

例えば二枚目の絵なら、店先の板の間もしくは畳の上でのこと。無論鐺は痛みにくい場所です。

三枚目は莚の上と推測され、こちらも刀を杖のようにしている画ではなく、周囲に第三者が詰めて居るため、刀を踏まれたり、跨がれたりしないように立てているだけの画です。

問題なのは一枚目の彦根屏風の一部分を抜粋したもの。

これは明らかに刀を杖のようにしてもたれかかっていますが、花見の酒宴の席を描いたものであることを忘れてはいけません。また、この人物のいでたちにも注目すべきであり、派手な服装からしてかぶき者と言われる小姓の可能性が考えられます。

解り易く言えば、中学校や高校の校則で定められた制服とは異なる変形学生服で登校するヤンキーです。

天心流が言い訳として発信した情報では、校則違反の変形学生服をまとった生徒のみを指して、「これがこの学校の制服です! 古画でも証明されています!」と言っているようなものだと思います。

もう一つ付け加えますと、抜粋された画だけを見ると、屋外で刀を杖にしているように見えますが、屏風の全景をご覧下さい。

彦根屏風

画では省略されているものの、これは屋外ではなく屋内を描いたものであることが履物を履いていないことからも解ります。

つまり、刀の鐺は痛みにくい場であり、ましてや酒宴の席でのことですから、サラリーマンが酔った勢いでネクタイを鉢巻のように頭に結んだ状態を描いたようなものではないでしょうか。

 

天心流兵法なる団体の言い分には矛盾が多々見られ、あくまで自分達が発した情報が正しいものだとしてごまかそうとしていますが、人に教える立場の人間は、間違いを繕うのではなく、間違いを間違いだと認め、是正すること、改善することこそ絶対的に必要なことだと私は考えます。

間違ったものであってもそのまま受け継ぐのが伝統だと天心流兵法の鍬海氏はネット上で書いていますが、そんな伝統ならさっさと消滅した方が後世のためではないでしょうか。

 

こんな格言もあります。

伝統とは革新の連続である

と…

 

情報と言うものは発信する側によって意図的に操作できるものであることを忘れないで下さい。

抜粋された写真や記事は、全景全文を目にするべきです。

さすれば自ずと真実と答えは見えてきます。

間違った情報、操作された情報に惑わされないで下さい。

 

真実を見抜く眼を養いましょう。

天心流兵法が発信する誤まった情報を真向から斬る! ~刀は地面に立てるものではない!!~

天心流兵法と名乗る団体が、最近ネット上において

“刀を杖のように地面に立てる所作を昔から伝わる作法である”

と、誤った情報発信を行いました。

私は現代に生まれた人間であり、武士が生きていた当時のことを全て知っているわけではありません。
よって、私が今から記述することは、100パーセント正しいかといえばそうではないかもしれませんが、居合術家として、また、一愛刀家としての立場から、その所作についてこれから記述します。

まず、私の結論から言えば、それらの所作は

「ありえない」

作法です。

天心流兵法を名乗る団体は、何か不都合なことを指摘される度に、常に後付け、言い訳がましく自分たちのことを正当化する傾向があるように個人的に感じております。
それは数年前、天心流兵法の中村天心氏が、床几の向きを間違えて座している写真を指摘された際の彼らの言い訳でもわかります。

この床机の向きに関しましては私がブログでも解説しておきましたが、日本画に於ける一種の決まりごと説が有力です。ブログ記事のリンクを以下に添付致しますので、お時間が許す方は是非ご一読下さい。

https://ameblo.jp/isaom/entry-11799994434.html

 

さて、今回天心流兵法と名乗る団体のブログに書かれた「刀を杖のように地面に立てて腕を置く所作」ですが、全くなかったかと言えば一部または一時期には行っていた人がいたかもしれません。しかしそれは戦が多かった時代、例えば戦国時代などに限定されるのではないかと推測します。

私が今回、この所作について記事にすることには大きな目的があります。
それは現存する刀(刀装・刀装具)を痛めることなく後世に伝え残していきたいというものであり、それは現代に生きる私達の役目でもあると考えます。

私がかねてより天心流兵法に疑問を感じるのは、間違いを改めるのではなく、それを正当化しようとしたり、後出しジャンケンのように後から言い訳がましく記事にして情報発信する姿に嫌悪感を抱かざるをえないからなのですが、今回、彼らは幕末や明治初期の写真を指して、刀を地面に立てる所作を正当化しようとしています。

あくまで私の見解ですが、江戸期においてそれらの所作が作法としてあったかと言えば、それはありえません。

半ば断言的になりますが、その根拠として、古い刀の拵を見れば自ずと結論は見えてきます。
私は刀剣商としての顔も持ち合わせており、これまでに数多の刀剣に触れてきましたが、鐺(こじり)や石突金具に磨耗が見られるものはありません。
日本刀形式の外装が付いた刀剣で、極端に石突金具に磨耗や傷がみられるものは、大東亜戦争時代の軍刀のみです。
戦時中の僅か数年の使用期間であるにもかかわらず、軍刀の中には2~3ミリ近く石突金具が磨耗し、石突金具先端の桜花が消え、酷いものには今にも穴があいてしまいそうな状態のものも見られます。

皆さんもご覧になられたことがあるように、軍人はやたらと刀を地面に立てていたからです。

日本の軍人写真

日本の軍人写真

軍刀の石突金具の磨耗と損傷は当時から懸念されていたようで、そうした石突金具の磨耗を改善すべく考案され、実用新案特許まで取得したのが若瀬軍刀製作所の特殊石突であり、これについては軍刀趣味人ならすぐにお分りいただけるでしょう。

ほぼ未使用の軍刀石突金具

ほぼ未使用の軍刀石突金具… 磨耗が殆ど無く、石突先端の桜花もしっかりと残っています。

 

頻繫に立てられた軍刀の石突金具

一方こちらは頻繫に立てられた軍刀の石突金具… 鎚目が消え、桜花も磨り減っていて名残をとどめるのみ。これでも状態は一般的なもので、酷い物になると穴が空きそうになっているものもあります。

 

若瀬軍刀製作所製海軍太刀型軍刀拵

こちらは若瀬軍刀製作所製の海軍太刀型軍刀拵とその特殊石突金具

若瀬軍刀製作所製海軍太刀型軍刀拵の石突金具

 

大東亜戦争時代の軍刀ですら数年の使用で上に紹介した写真のような有様です。

鐺金具が装着されていない水牛角製鐺が一般的であった江戸時代の刀が、天心流兵法を名乗る団体が言うように頻繫に立てられていたのであれば、鐺が磨耗欠損した拵が多々残っていてもおかしくはありませんが、そのような拵は殆どありません。このことからも刀を杖のように立てる所作は江戸時代には存在しなかったと証明できるでしょう。

居合の中では刀礼と言って、刀に礼をし、帯刀するまでの形も所作として存在し、その中では刀の鐺を立てる所作も含まれて居ますが、それはあくまで形式的なものであって、居合で学ぶ刀礼は日常的にされていたものではありません。

では、何故刀を杖のようにした侍の写真が残っているのか?
答えは簡単です。
カメラマンが外国式のポーズを取らせたに他なりません。
私は今回、ネット上においてではありますものの、様々な古画や写真を検索しましたが、幕末に撮影された写真以外では、刀を杖のようにしているポーズは見受けられませんでした。
古画の中には刀を立てているものもありますが、手は柄の上には乗っておらず、腹の前にもたせかけ、空いた両手で兜の緒を締めていたりと、杖のような所作を取るものではありません。
思うに幕末の時代、カメラマンの多くは外国人だったと想像されます。外国の軍人を写真撮影する際には自分の前にサーベルを立て柄を握ったり、腕を置くのが外国式の作法と言いますか、当たり前の所作だったのでしょう。また、武士であることの象徴である刀を前面に出すことで、写真に写る者の身分が判るようにしたとも推測されます。

但し、サーベルなら何でもかんでも地面に立てていたのかと言えばそうでもないようです。傷みやすい形状のものではそれらの所作は行なっていないようで、その証拠に地面に立てている外国サーベルの鞘を見て頂きますと、鞘の先が若狭式石突金具のように磨耗することを考慮した作りになっています。
アメリカのサーベル
この鞘の石突は日本軍のサーベルにも踏襲されています。

日本軍のサーベル

軍刀サイトより転載

 

下の写真は外国のサーベルの模造品ですが、同形の実物が多々外国に残されています。こちらの金具にも丸い形状の石突があるのが判りますね。

 

丸い石突がついたサーベル

このように状況証拠から見ても、打刀形式の刀を地面に立てるような作法は、少なくとも江戸時代には無かったと結論づけることができます。
因みに腰から外した刀を立てるに当たっては、直接地面に触れさせず、草履の上や足の甲の上にこじりを立てるのが一般的だったようです。
そうした事実から見ても、天心流兵法が正しく江戸の作法を伝える流派と謳う点にも多々疑問符をつけざるを得ません。稽古動画を見ていても、非現実的な形設定が多いように感じられます。

また、補足として幕末や明治に撮られた古写真に写る人達全てが士分の者ではなかったことにも留意する必要があります。

士の格好をした町人 士の格好をした町人

これらの写真に写る人々は果たして本物の士分の人間かと言えば、実は外国向け絵葉書用に撮られた甲冑をまとった役者や町人が殆どです。

剣道では剣先を地面につけると怒られますよね。ところが古写真の中にはこんなポーズのものも…

士の格好をした町人

明らかにカメラマンによってポーズづけされていることが判ります。

もっと酷いものになると…

士の格好をした町人

あちゃぁ~ 抜き身の刀の切先を地面につけていますよ…(笑

 

因みに心ある士はカメラマンによるポーズづけにもささやかな抵抗を見せていることが窺がえます。

足の上に刀を立てる士

写真中央の人物に注目。鞘が傷まぬよう鼻緒の上に鐺を立てています。

更に天心流兵法を名乗る団体のブログにある写真にも…

刀を地面に立てるのはカメラマンによるポーズづけ

刀を地面に立てるのが作法や所作だったのなら、どうして左端の人や中央後ろの人物は携刀しているのでしょうか?

後ろの人物は己が士分であることが判る程度に刀を上方に持ち上げ、敢えて刀が写る様にしていることが判りますし、左端の人物も刀を持つ手が写っていることから、写真を見る者に己が士分であることを明らかにしています。

このように写真を精査していくと、カメラマンがつけるポーズを拒否した士がいたことが判り、それだけ刀を大切に扱っていたということも解ります。愛知県だったでしょうか、太刀を杖のように地面に立てる信長像がありますが、あれは論外。現代人が想像で作ったブロンズ像なのですから。

 

今回の結論。
天心流兵法が発する情報を鵜呑みにしては危険。
証拠は物が語る。
刀を地面に立てるのは外国人カメラマンが侍にとらせた外国式のポーズ説が有力。

 

いずれにせよ、刀を痛めることにしかなりませんから、刀を地面に立てることは慎みましょう。

一人でも多くの方に正しい情報をお伝えしたいので、是非ともこの記事の拡散をお願い致します。

神速の居合術DVD発刊に至る経緯

私がツイッター等、ネット上でその存在と系譜に関してかねてより警鐘を鳴らしてきた天心流兵法。

ここ最近では特に陰湿なる天心流兵法擁護者とのネット上での議論(議論とも言えないくだらない嫌がらせだが)にいささか疲れていました。

ネット上では大多数が善であり、少数派は悪と言う構図も自然と出来上がるものだと、今回天心流兵法に触れてみてつくづく実感した次第です。

一部のツイッターユーザーに、「なにより、修心流の批判に賛同する人がほとんどいない。当然の結果だと思う。」と記述されたことは、私個人的にとても悔しい思いでいっぱいでした。

昔から長い物に黙って巻かれることができない性分であり、真摯に古武術としての居合を今も研究している私には、天心流が紹介する記事の内容、動画、どれをとっても首肯できるものは無く、むしろ嘘もつきとおせば真実になるとの言葉があるように、事実、天心流兵法はすでに失伝したであろう三日月藩にあった天心流そのものと、数に勝る天心流擁護派によって既成事実となりかけていました。

更に拍車をかけるようにNHKワールドスポーツが、調査裏取りをつけずに番組内において天心流兵法をとりあげてしまったことは、正統なる日本武術史の観点から見て、NHK最大のミスだと私は考えており、当該番組の責任者及びリサーチ会社は、当該番組中に於いてしっかりと謝罪すべきものだと考えます。

さて、前置きが長くなりましたが、BABジャパン様より発売されました神速の居合術DVD発刊に至る経緯をここに記します。

 

かねてより天心流兵法の動画に見られる基礎が出来ていない単なる早抜き(敢えて速抜きとは記述しません。早と速は意味が異なるからです)と、物理的にありえない形の紹介動画に対し、私はダメ出しをし続けてきました。

私のことを快く思わない方の中には、「町井は天心流兵法に嫉妬している」などと受け取られた方も数多おられたことでしょう。

天心流兵法はネット戦略が巧みで、コスプレを好む方や、漫画を描かれる方、俄かに侍に憧れる方に評判が良く、それらの方々は天心流兵法が発信する情報を鵜呑みにされ、間違った刀法をそのまま自身の漫画やイラストに取り入れてしまうなど、悪意無き武術史、武術の捏造拡散に加担されてしまいました。

私と渓流詩人さんがどれだけ警鐘を鳴らそうとも聴く耳を持っては下さいませんでした。むしろ攻撃的な意見を発する擁護派ばかりだったと言って過言ではないでしょう。

常々口にしてきたように、天心流兵法が江戸前期創流の古武術であるとか、柳生宗矩云々とか、江戸柳生分流だの、宝蔵院流影派だの、三つ葉葵紋並びに柳生笠紋の使用など、度を過ぎぬ広報活動をされていたなら、数多散見する系譜捏造流派の一つとして見向きもしなかったと思います。ただ、彼らが踏み越えてはいけない境界線を越え、武術を知らぬ素人や外国人に過大広報活動をしてしまったことは許されざるものと考えます。

「古武術 天心流兵法の写真、動画における創作でのトレス、模写の使用フリーに関して – Togetterまとめ 以前から多くの反響を頂いております天心流の写真、動画について、新たにツイートしたものをまとめました」

の一文に対し、「なんて親切なの」と喜びトレスしてしまった方も、はっきり申し上げて日本古武術史陵辱に加担した一人であることと、事の重大性を自覚されたし。

何気なくトレス使用したその構え、技、作法など、それらが漫画や同人誌という形で広く拡散されてしまうことで、それらの構え、技、作法は古来より伝承されてきたものであるという誤解がどんどん広まってしまうのです。そう、韓国が発信するありもしなかった従軍慰安婦の話が、今や既成事実のようになってしまったのと同じように… 従軍慰安婦問題もたった一人の朝日新聞記者が引き起こした騒動です。嘘は塗り重ねていくと真実と化してしまう恐ろしさに気付いて下さい。「単にトレスしただけ」では済まされないのです。どうか事の重大性に気付いて下さい。

 

さて、実は私の居合術(修心流居合術兵法)に関するDVDの製作に関しましては、もう何年も前から数社が企画提案されてきましたものを、私は悉く断って参りました。

その理由としては、今現在はこう考えているが、数年先にはまた違う考えになっているかもしれないし、今現在の自分の居合を否定しているかもしれない。と考えていたからです。この考えは他の武術家の先生方にも見られ、植芝盛平翁の書の師でもあり、合氣道十段(非公認)であった阿部醒石先生も同じお考えのもと、生涯に渡り合氣道に関する書籍は一冊も出されませんでした。(※私の記憶が確かなら)

 

そんな私が今回、何故BABジャパンさんからの企画を受け入れたのか? それは天心流兵法がネットを駆使して発する早抜き動画や情報に対する警鐘に他なりません。

あれらの動画を見て早いと賞賛される方々はずぶの素人と断言して良いでしょう。彼らの動画をしっかりと見定めたことがありますか?

刃筋立たぬ抜付と各種の振り。武術に長けた方ならそれだけで武術としてはダメだと結論を出されることでしょう。ところが素人は正否を見極める眼を持っていない。見極める方法の一つとしてお教えしましょう。彼らの動画をコマ送りしながらよくご覧になってください。鞘から抜ける瞬間、模擬刀がしなり、たわんでいることに気付くはずです。それだけではなく、各種の振りの中においても、模擬刀が変形して見える瞬間を見ることができます。これ即ち基礎が出来ていない証拠なのです。

 

しかし素人が圧倒的に多いネット閲覧者はそれに気付けません。天心流兵法の大袈裟で派手な動き、ありえない動きに憧れて門戸を叩き入門された方も多いはず。天心流が殺陣のサークルとして活動していたなら何も文句は言いませんが、真摯に武術に憧れて門戸を叩いてしまう方に対しては、老婆心ながらあの早抜きは全くなっておらず、むしろ正しく居合・抜刀術を身につけたい方には不適切であることを示さなければ、今のままではネットの勢いに乗った天心流の間違った刀法が世界に広まってしまうと言う危機感を覚えた私は、BABジャパンの担当者からのDVD発刊提案に対し、以下の約束を条件にDVD発刊を承諾したのです。

 

月刊秘伝及びBABジャパンにおいて、天心流兵法を採り上げないこと!!

 

そして私は今現在持ち合わせる私の技術を駆使し、正しく居合術を学ぶための指針となるよう、ゆっくり正確に抜く稽古法を紹介すべく、直門以外には教授するつもりが無かった居合形を、初伝形初伝之抜に限りという内容で発刊したのでした。

「私は一切口を開かない。直門以外に詳細を教えるつもりはない。」との意向を汲み取って下さったBABジャパン様が、DVD動画内ではそれを遵守して下さり、私がDVDをご覧になられる方に必要最低限お伝えしたいことのみを短い字幕で紹介して頂きました。

 

そして今回、何故そのいきさつをこのブログに書き綴るに至ったかと申しますと、多勢に無勢で消沈しきっていた私の意見に賛同するかの如きコメントを、さる日本古武術の大家がブログのコメントにて発信されたからです。

私は歯に衣着せぬ物言いしかできない性分のため、うまく立ち回ることができませんが、かの大家は大変解りやすく、また、当たり障りのない内容で天心流が発してきた稽古や形に対する概念を否定され、また、こうはっきりと記述されました。

「現在の天心流兵法と三日月藩の天心流剣術は何の関係もありません。
これ以上は述べると他流批判になるので、控えます。
研究は常識を以て慎重に。」

更にこう付け加えておられます。

「しかし、関係のないことだけはしっかり伝えてやらなければいけません。
たとえ(天心流と)関係がなかろうと、たとえ素人であろうと、武術史において誤解と錯覚はなりません。」

 

ここでお気づき頂きたいことは、「常識を以って慎重に」「たとえ素人であろうと、武術史において誤解と錯覚はなりません」の言葉の真意です。

その秘められし意味を敢えて深くは記述しません。この記事を読まれた皆様自身で一度お考えになってみてください。

 

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暗殺剣  士の一族

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渓流詩人ブログ

忌憚無き意見交換をさせていただいている渓流詩人さんが、江戸期の居合(英信流系)に関して大変興味深い記事をお書きになられています。

敵が己に害をなさんとするのを… という綺麗事を正論だと考えられる方に、江戸時代の武家社会について知っていただければと思います。

相手が斬りかかって来たから斬った… では済まされない。正当防衛すら通じない封建社会の中で、何故に居合、剣術を極めたのか?

非常に勉強になる記事です。

 

修心流居合術兵法誕生の経緯 4

前述の様々な出来事の後、瞬時の抜付横水平斬りを完成しつつあった私は、この頃“無双直伝英信流町井派”と称すようになり、門弟を募る事無く、“私の技術は子供達に受け継がせよう”と、幼い実子を相手に居合を教えながら過ごしていました。

Mさんの一件から一年くらいが過ぎた頃でしょうか。

私の店に刀を買い求めに来られた大喜多さんが、

「居合を習ってみたいのですが、どこか良い道場があれば御紹介していただけませんか?」

と御相談されました。

この頃既に“現代の居合道(※あくまで英信流系をここでは指す)”は単なる刀を使った体操程度にしか思えなくなっていた私は、

「武術としてまともに使える居合の道場は無いですよ。」

とお答えしました。

現在の居合道の世界がどのようなものか、これまでの私の経験をお話したところ、

「町井さん自身、居合をされるんですよね? 町井さんから居合を教えて頂く事はできませんか?」

と言う話になりました。

上述の通り、子供達(実子)相手に居合を教えていたので、実子達に交じってご一緒にどうぞと、大喜多さんに居合を教えることになったのですが、大喜多さんは柔道の世界では名を知られた方で、自宅には柔道場があり、天井も高く、居合の稽古にはうってつけ。私は子供を連れ、週に二回程大喜多さんのお宅の道場で稽古するようになりました。

それから直ぐのこと、近所に住む愛刀家の細木さんが、私の店によく遊びに来られるようになり、

「僕も居合やってみたいなぁ」

と言うことで、私の自宅前にある自治会館でも居合の稽古をするようになりました。後にここが本部道場となります。

これまで記述しましたとおり、私は無雙直傳英信流を修業してきましたが、現行の英信流に疑問を感じ、それとは一線を引く意味で“無双直伝英信流町井派”を名乗るようになったわけですが、大喜多さん、細木さんと、実子以外にも居合を教えるようになったことをきっかけに、妻から流派名改名を勧められました。その理由は大きく三つに示しますと以下の通りです。

 

・手の内など刀の持ち方からして根本的に英信流とは異なること。

・現行の英信流と形の理合や術理、一部の形に改編を加えたこと。

・英信流を名乗り続けている限り、本家を名乗る英信流の型にはまらなくてはならないこと。

 

龍心館吉岡道場在籍晩年の頃、稽古に顔を出すと、自分の居合術理を否定され、柄を握る手がくっつきすぎだ。などと元に戻すよう指示されることが頻繫でした。そう言った経験から、独自のスタイルを貫くには、英信流のしがらみから脱却する必要がある感じた私は、妻の提案に大きく頷き、2005年、無双直伝英信流町井派を修心流居合術兵法に改名し、ここに修心流居合術兵法が誕生したのです。

名前こそ修心流居合術兵法ですが、稽古しているのは実際に使える英信流であり、本来の古流英信流を再現することを目標にしています。

このくだりは拙著『最強のすすめ』にも記載していますが、修心流という名前を考えてくれたのは、これまで私が散々迷惑をかけてきた妻であり、妻には感謝の気持ちでいっぱいです。

それ以降、細々と修心流として活動し、居合を教授してきましたが、そんな私と修心流の名が、全国的に少し知られるようになったのは、なんと言ってもフジテレビの人気番組であった『THE BEST HOUSE』の生放送4時間SPに於いて、私が千本斬りのギネス記録奪回に成功したことでしょう。

また、私の英信流二十三代について記述させて頂きますが、二十三代は初代から数えて23番目という意味であり、私が正統派英信流の23代宗家と言う意味ではありません。私に英信流を御指南下さった吉岡早龍師自身も、現在の正統派を名乗る英信流から見れば亜流の一人です。

なんだ町井は本流で英信流を学んだのではないのかと、伝統や系譜ばかりを重んじる人は亜流を軽んじることでしょう。しかし私は“亜流の英信流”だったからこそ今の私、修心流が誕生できたと考えています。

19歳のあの時、好意を寄せていた女性の家から遠くないと言う不純な動機から、居合の良し悪しも判らぬままに飛び込んだ英信流の道場が吉岡早龍師の龍心館であったことは、神仏祖先のお導き。幸運中の幸運であったと思います。

現在、本家本流を名乗る英信流の宗家は三人おられますが、そのいずれの道場、いずれの宗家の下で修業を積んでいたなら、私が目指す古流英信流の再現には辿りつく事が出来なかったと思います。

何かと軽んじられる亜流ですが、亜流には亜流だからこそ、本家本流に流されたり影響を受けることなく、墨守することができた理合と術理、口伝が残っており、宗家が代替わりする度に、非実戦的な形改編を重ねて来た本家本流とは違う物があるのです。

 

四回に分けて修心流誕生のいきさつを記述しましたが、全文をご拝読下さった方に感謝。

そして、修心流誕生に至る経緯を作ってくださった、吉岡早龍師、対立していた龍心館の一部の門下、袖を別ったS流M氏、私を精神面、金銭面で追い込んだMさん、修心流一番弟子となられた大喜多さん、本部道場開設のきっかけを作ってくださった二番弟子の細木さん、その他私に関わってこられた全ての方に、感謝の意を述べます。

私との関わり方がどうであれ、皆様との関わりがあったからこそ、今の私と修心流居合術兵法は存在します。

また、これまで散々女性問題で苦労をかけてきた妻にも、「ありがとう。」

修心流居合術兵法誕生の経緯 3

Mさんとその部下に試斬技術の手解きを開始して二ヶ月。返し業の成功率も上がり始め、道場のフランチャイズに向けて準備が整いつつあったある日のこと、私は精神的にも金銭的にも追い込まれる事態に陥ることとなる。

Mさんが私の女性問題を挙げ、道場フランチャイズ展開に待ったをかけたのです。

人に自慢できることではなく、私を支えてくれる妻を裏切る行為だけに、本来ならこうした公の場に記述するべきではないのでしょうが、様々ないきさつがあって今の私があると考えるので、恥を忍んで記述しますと、当時私は三年近く不貞行為を働いていました。所謂不倫です。

私に妻以外の女性がいることを、Mさんは御存知でしたし、Mさん自身も本妻が居ながら愛人と共に暮らす生活を送っておられました。そんな間柄でしたので、私の不倫相手もMさんと面識を持つようになり、共に道場フランチャイズ計画に参加していました。

全ては己の身から出た錆ですが、早い話が大義名分を掲げた裏切りに遭ったのです。

拙著『最強のすすめ』に記述している通り、私は宗教家ではありません。ただ居合が好きなだけの一人の男に過ぎません。私が宗教家であったなら、女性関係を責められて然りですが、今でも私はM氏とその部下に対しては快く思っていません。

道場を開設する気持ちはないと、乗り気ではなかった私を引っ張り出したのは前述の通りMさんであり、彼が描いた絵図の通りに彼の部下達にみっちりと試斬指導も二ヶ月の間行いました。皆、ある程度実力もつけました。その二ヶ月間、私は昼食や夕食を御馳走になることはあっても、技術の教授料は一円たりとも頂いていません。まるまる二ヶ月間とは言いませんが、二ヶ月間のうちの多くの時間をただ働きさせられたわけです。

本業に費やすべき時間を奪われるわけですから収入も減ります。それだけでも金銭的ダメージは大きいのに、Mさんが私にとった行動は、Mさんとその部下達のために用意した刀、計6振を私に買い戻しさせるというもの。当然試斬稽古に使用した刀ですから、ヒケが入ったり、斬り損じて曲げてしまったりと、研磨も含め、状態は悪くなっています。それを販売した価格で買い取れと迫ってきたのです。

無論そのようなヤクザまがいな要求に応える必要も義理もありませんが、これまたMさんの仕事場兼自宅において、Mさんとその部下達計6人に囲まれた軟禁状態の中、ましてや不倫相手とその両親、また、妻との問題で心身共に疲弊していた私は、

「道場展開計画が完全に白紙になったわけじゃないのだし、今は私達に誠意を見せるためにも一旦けじめとして買い取るべきだ。」

などと言う、Mさん達の執拗で言葉丁寧な脅迫とも受け取れる身勝手な責めから逃れたい一心と、

「Mさんは今はこう言っているだけ。数ヶ月後には言葉通りまたこれらの刀を買い戻して、道場展開に励まれるに違いない。」

といったMさんへの信頼から、結局、傷だらけにされた刀を、数ヶ月間一時的に買い戻すだけのことだと信じ、売った値段で買い戻したのです。

ところがどうでしょう。その後Mさんからは… なんの連絡もありません。ヒケだらけになり、発錆もしたそれらの刀を、再び商品にするために捻出した研磨工作代は、ゆうに75万円を超えました。

心身共に疲弊していたとは言え、あの時どうしてMさんの言葉を信じ、売った値段で買い戻してしまったのか? また、多人数で取り囲んでの脅迫に何故屈してしまったのか? 今も心残りで悔しくて仕方ありません。Mさん達多人数相手に一戦交えようとも、己の信ずる筋を通すべきだったと後悔し切りです。

悪いように考えすぎかもしれませんが、今となっては“Mさんは初めからこうするつもりだったのではないか?”と思えてなりません。要は道場展開というビジネスを始めるにあたって、試斬技術が欲しかっただけなのではないか? 私は担ぎ上げられ、まんまと利用されただけではないか?と。そして、当初はビジネスとして金になる算段であったものが、様々な試斬道場の現実を見るに、採算がとれない。またはさほど儲からないと判断し、何かしら口実を作って自分達は損失が出ない形で計画を反故にしたかったのではないか? 或いは私を追い出した後、他の刀剣商と組んで実際に試斬道場らしきものをやってはみたものの、成功しなかっただけなのかもしれません。

S流(M氏)での出来事、龍心館での一部の門弟との確執、Mさんとの出来事、更には妻と別れて一緒になろうとまで考えていた不倫相手からの様々な嘘の発覚と裏切りで、人を信用することに一種のトラウマを持ってしまった私は、益々対人関係が苦手になっていきました。

二度に渡る事実上の道場設立運営の失敗経験から、私は改めて“居合は己の趣味にとどめておこう”と強く思うに至り、人に教えることはもうするまいと諦めるようになったのです。

 

修心流居合術兵法誕生の経緯 2

S流(M氏)と袖を別つことになる少し前。それが1年前なのか2年前なのか、記憶力が乏しい私は今すぐに思い出せないのですが、籍を置いていた龍心館吉岡道場を辞しました。

その経緯については拙著『最強のすすめ』に記していますが、抜付での一撃必殺の居合を求め、龍心館での試斬稽古を推奨したことが発端です。門弟の中から「町井を辞めさせろ。」「町井を辞めさせないなら俺達が道場を辞める。」と吉岡早龍師に詰め寄る者が現れたと私は聞いています。

私はかねてより現在の英信流に疑問を感じていましたし、また、既に早龍師伝の英信流を脱却(守・破・離で言う破)しておりましたので、私個人の存在によって師にご迷惑をかけることを避け、自ら師に龍心館を去ることを伝えました。

この辺りの経緯を詳しく知らない人や、悪意ある噂を好む方は、龍心館を破門になっただの、英信流を破門になっただのと、面白可笑しく吹聴されますが、上述の通り吉岡早龍師とは一切の揉め事はございません。ただ一言、道場を辞するにあたり、師には一部の門弟の行動を指して、「今の龍心館は誰が館長か判らない状態にあります」とだけ忠言させていただいたことをハッキリと覚えています。

因みにこの頃、全日本居合道連盟(以下全居連)と折り合いが悪かった早龍師と龍心館は、全居連から日本居合道連盟(以下日居連)に移籍し、それに伴い龍心館の門弟達は昇段試験を受けることなく、全居連で取得したのと同じ段位を日居連から允可されました。これに伴いまして私は“全居連”でも“日居連”でも伍段位の允可を受けたことになります。

龍心館吉岡道場を辞した後は、これもまた拙著『最強のすすめ』に記していますが、妻の助けの下、毎日畳表と向き合う日々を約一年過ごしました。

今でこそ帯刀してからの横一文字の抜付をされる方をちらほら見かけるようになりましたが、私が知る限り、当時は身体を開く事無く畳表を抜付の一文字で両断される方はおられませんでした。身体を捻り、左に45度向いたり、或いは90度向いた状態で、勢いつけて切られる方はおられましたが、それは私が求める抜付ではありません。

結局のところ、誰も私が理想とする抜付ができる方がおられないので、自分自身で研鑽を重ねなければなりませんでした。

抜付を研究する上で大変役立ったのは、M氏から学んだ試斬の基本技術であったことは言うまでもありません。M氏との関係無くして今の私の存在はありません。S流を立ち上げたことで、M氏とは残念な袖の別ち方をしましたが、感謝の気持ちは今も持ち合わせております。

S流M氏の下を辞し、英信流の龍心館吉岡早龍師の下も辞した私は、独立して自身の流派、道場を構える考えなど毛頭無く、当然ながら門弟を募ることなどもしていませんでした。

自分自身だけが居合を楽しめればそれで良い。そんなスタンスであったのです。

そんな頃、刀剣の販売を通じて知り合ったお客様のMさんが私を後押ししたいと申し出られ、私に道場設立を勧められました。

「道場を開設するつもりは無い。一人気儘に居合を楽しめればそれでいい。」

と乗り気ではなく、首を縦に振らない私を、Mさんは彼の自宅兼会社に招き、言葉悪い表現になりますが、ほぼ軟禁に近い状態で説得を続けました。泊りがけも含め3日間ほど彼の自宅で説得され続けたと記憶しています。

Mさんが提案してきたのは、彼を含む彼の会社の従業員全員に私が試斬技術を叩き込み、ある程度の実力がついたところで、それぞれを支部長として道場のフランチャイズ展開というものでした。

「毎月100万程の安定した月謝収入があれば、銀行は1億でも融資してくれる。立派な本部道場も建てることができる。」

そんな甘い言葉に傾いてしまった私は、Mさんとその従業員達に約二ヶ月に渡って試斬技術を伝授することになります。

試斬には真剣が必要です。道場のフランチャイズ計画の下、本鍛錬の良質な軍刀などをかき集め、彼らのために良心的な価格でお譲りしました。当然ながら研ぎ身状態です。

まずは試斬大会で道場の名を轟かせる。その目的のため龍星剣猿田宗家主宰の“国際抜刀道試斬連盟”にMさん達と加盟。当時既に五本横並びでの袈裟と斬上、各種返し業、当時は猿田宗家とM氏くらいしか出来ないと言われていた“※据斬”の技術をも身につけていた私は、猿田宗家のご厚意で試験を受けることなく、国際抜刀道試斬連盟に於いても五段の允可を頂きましたが、当時、人より物斬りが巧いことに天狗になっていた私は、「俺の腕がたったの五段か?」と允可状を見て苦笑したことを覚えています。

※長さ90センチの畳表を巻き締め、地面に据え立てた状態で倒さず斬る斬り方。同様の斬り方を披露される方は他にもおられましたが、斬りやすい高さの台の上に置いて斬るなど、ここで言う据斬とは趣を異としています。

修心流居合術兵法誕生の経緯

以前にも触れたことがありますが、改めて修心流居合術兵法創流の経緯について記述させていただきます。長文に及ぶと思われるので数回にわけて記述することになるでしょうが、刀と居合が大好きで仕方ない時代錯誤の一人のオヤジが、歴史ある英信流の名を捨て、修心流居合術兵法に改名創流したいきさつを、是非とも知ってください。

 

私が奈良にある無雙直傳英信流の道場に通いだしたのは19歳の時でした。

幼い頃から刀剣類が好きで、趣味にしているうち、どうせなら使いこなせるようにもなりたいと思ったのが、道場に通いだしたきっかけであり、わざわざ遠い奈良の吉岡道場(龍心館)を選んだのは、当時好意を寄せていた女性(彼女)の家から近かったと言う理由からですが、後にこの道場で英信流を学んだことが、今の私の居合術理の基礎を作り上げることに繋がるのです。

入門して最初の二回か三回くらいは、基本所作や初伝形(大森流)一本目を個別に指導していただけましたが、その後の稽古は他の門弟と同じように、中伝や奥伝などを師が手本を示した後、皆と一斉に抜くという稽古でしたので、物覚えが悪い私は、なかなか形を覚えられず苦労したものです。

通っていた道場は、当時、全日本居合道連盟に属する道場で、段位は師や道場ではなく、連盟が允可していました。

よほどのヘマをしない限り、受験料を納めれば六段まで毎年昇段できます。私も道場に通いだして半年程で初段になりました。その後毎年昇段試験を受けることで五段迄はエスカレーター式に取得。そこで色々と疑問を感じるようになりました。

「昇段試験ってこんなに簡単でいいの?」

三段を取得した頃からでしょうか。様々な疑問が蓄積し、道場と言うよりは現英信流に飽き始め、“初太刀は牽制であり、二の太刀で斬る”と言った解説や、あまりにも自分に都合の良い業の解釈に不満が爆発。道場へ通う頻度も少なくなりました。

今では何故居合が刀一振だけで稽古するのか理由も解りますが、当時は私も“武士が嗜む武術なのに脇指を指さないのはおかしい”と考え、道場の自主錬時間には脇指を添えて形稽古をしたものです。その姿を見た吉岡早龍師はただ一言

「居合は大刀一本だけでやるもんや」

とだけ言われ、何故一本だけなのか理由は語られませんでした。

理由を説明されないその一言にも疑問を感じ、更には抜付の初太刀で樋音を発する人が、道場のみならず連盟所属の他道場の先生方、諸先輩方の演武からも聞こえないことに、益々疑念を抱くようになり、

「居合は抜付の初太刀こそが命。斬撃力無き抜付しかできず何が居合だ?」

と考えた私は、五段を取得してからは、連盟が発行する允可状に価値を見出せなくなり、道場へ通う頻度も、年に一回、二回程度となり、昇段試験を辞退すると共に、畳表を相手に、独自に抜刀道(※ここで言う抜刀道とは単なる試斬道)を研究するようになりました。

畳表と向き合うも、英信流では右から左にかけての斬上を稽古したことがないため、上手に斬ることができず、苦労したものです。

当時、畳表の準備や試斬稽古後のゴミ処理など、個人で行うには難しかったため、有料にて試斬稽古場と畳表を提供していた大阪の某流派の一角をお借りして、左斬上(※右から左への切り上げ)を稽古していた時、あまりもの下手振りに、その某流で一番の試斬の手練であったM氏が、私に声をかけ、自宅にお招き下さり、斬上他、試斬技術の基礎を指導してくださいました。

自然と師弟関係が芽生え、上述の某流を離れ、独立されたがっていたM氏の創流を私は手伝うようになりました。

日本刀剣愛好保存会※1のお客様の中で、抜刀道にご興味ある方をお誘いし、S流という新派が出来上がり、私はそこで師範代として活躍。M氏の跡を継ぎ、二代目を襲名するのも面白いなと考えていた矢先、M氏と私の間で亀裂が徐々に深まりました。

※1 美術刀剣 刀心の前名。美術価値の高低に関わらず刀剣を愛したいとの思いから敢えて美術という文字を外し、愛刀家皆で刀剣を保存愛護しようと言う目的で命名した。初期の頃は会員制だった。)

当初S流を立ち上げるにあたり、M氏は私に

「私は試斬はできても、居合はできない。居合は町井さんの方が実力あるから、形創案の際には色々と助言して欲しい。」

と仰っていたのですが、

「下緒を結んだままでの居合は宜しくないので、古式通りに垂らしましょう。」

「この動きには無理を感じるのでこうしませんか?」

と言った私の助言を煙たがられるようになり、更には門弟間で刀剣の売買が始まったりと、刀剣商である私の生活にも支障をきたす状態になりました。

私は雲霞食べて生きる仙人ではありません。家族を養うには利益も得なければなりません。S流の活動の中で、弛んだ柄巻き、鞘の修理や研磨など、それらの諸工作は私の店が引き受けるはずでした。

更に溝が深まったのは、演武時の衣装と披露する技について制約が出た時でした。

S流としての初めての古武道演武会への参加。師範代という立場もあり、私は裕福でもないのに清水の舞台から飛び降りる覚悟で紋付羽織に縞袴の一張羅を購入したのです。着物も上を見るときりがなく、私が買い揃えた物は安物ではありましたが、それでも一式で12万円程したでしょうか。

出来上がった紋付に袖を通し、演武会を楽しみにしていた私に、M氏側から紋付着用を禁ずとお達しが来ました。M氏だけが紋付で門弟は全員黒で揃えた稽古着でなければいけない。更には試斬演武での私の演武は三本横並びまでしか披露してはいけないと言われたのです。

当時五本横並びの袈裟、斬上を必死に稽古してきた私は、当然演武会でもそれを披露しようと考えていたのですが、

「町井さんが紋付着て五本斬ったら、先生(M氏)目立たないでしょ?」

と言うのが制約をかけられた理由でした。

私は師範代という立場上、また、S流の初演武ということもあり、自分なりにS流を盛り上げるべく衣装も用意したことを当然お伝えしましたが、M氏を宗家に崇め、事実上私が作り上げたS流から、「従えないのなら辞めろ」と言う冷たい言葉が私へ返ってきました。

演武会当日、そこに私の姿はありませんでした。S流を辞するまではなくとも、それ以来少しずつS流(M氏)との距離は広がりましたが、稽古に使う畳表の確保。稽古後のゴミ処理など、影ながらサポートは続けさせていただいていました。

私がS流を離れるもう一つの要因に、門弟の一人が、ヤフオクでうぶ中心無銘の新刀だか新々刀だかを購入し、それを自作の拙いはばきや拵に合わせ、中心を削り、刀の方を加工した事件があります。

日本刀が大好きで、刀を傷めぬ試斬技術を広めたい、それでいて自分の生計を立てることもできればこれほど嬉しいことはない。そんな純粋な思いからM氏を立てて創流したS流が、自分が思い描いた団体とは間逆のことをし始めたことに、大きな落胆と失望を感じました。

何よりも自分自身を責めたのは、“私がS流を作らなければ、長い年月を生まれたままの姿で残ってきた一振りの刀が、姿を変えられることもなかっただろうに…”という、例の中心加工事件。

やがてS流のメーリングリストでは、私が自らS流を辞するように、わざとらしい配信が続きました。

「町井さん一人に畳表の準備(畳表の水浸作業は全て私がしていました)やゴミ処理をお願いするのをやめよう」

言葉だけを見ると優しく美しい気遣いのように見えますが、早い話がこれまで頼りっきりだった畳表の確保と準備、ゴミ処理を自分たちで行い、私を追い出そうというものです(苦笑

メーリングリストで配信されてきたそのメールを見た時、私はS流を辞することを決意しました。

 

英信流修業時代の道場名や師の御尊名を公表しているのに、S流とM氏に関しては公に公表していないのは、こうしたいきさつがあって、私の居合人生から抹消したい黒い記憶であるからに他なりません。

私がS流を立ち上げなければ、一振の刀が健全な姿を留めることができ、少なくとも文化財破壊に加担する結果にならなかったはず。

私は今でもそのことが悔やまれてならないのです。