暗殺剣  士の一族

暗殺剣  士の一族

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渓流詩人ブログ

忌憚無き意見交換をさせていただいている渓流詩人さんが、江戸期の居合(英信流系)に関して大変興味深い記事をお書きになられています。

敵が己に害をなさんとするのを… という綺麗事を正論だと考えられる方に、江戸時代の武家社会について知っていただければと思います。

相手が斬りかかって来たから斬った… では済まされない。正当防衛すら通じない封建社会の中で、何故に居合、剣術を極めたのか?

非常に勉強になる記事です。

 

修心流居合術兵法誕生の経緯 4

前述の様々な出来事の後、瞬時の抜付横水平斬りを完成しつつあった私は、この頃“無双直伝英信流町井派”と称すようになり、門弟を募る事無く、“私の技術は子供達に受け継がせよう”と、幼い実子を相手に居合を教えながら過ごしていました。

Mさんの一件から一年くらいが過ぎた頃でしょうか。

私の店に刀を買い求めに来られた大喜多さんが、

「居合を習ってみたいのですが、どこか良い道場があれば御紹介していただけませんか?」

と御相談されました。

この頃既に“現代の居合道(※あくまで英信流系をここでは指す)”は単なる刀を使った体操程度にしか思えなくなっていた私は、

「武術としてまともに使える居合の道場は無いですよ。」

とお答えしました。

現在の居合道の世界がどのようなものか、これまでの私の経験をお話したところ、

「町井さん自身、居合をされるんですよね? 町井さんから居合を教えて頂く事はできませんか?」

と言う話になりました。

上述の通り、子供達(実子)相手に居合を教えていたので、実子達に交じってご一緒にどうぞと、大喜多さんに居合を教えることになったのですが、大喜多さんは柔道の世界では名を知られた方で、自宅には柔道場があり、天井も高く、居合の稽古にはうってつけ。私は子供を連れ、週に二回程大喜多さんのお宅の道場で稽古するようになりました。

それから直ぐのこと、近所に住む愛刀家の細木さんが、私の店によく遊びに来られるようになり、

「僕も居合やってみたいなぁ」

と言うことで、私の自宅前にある自治会館でも居合の稽古をするようになりました。後にここが本部道場となります。

これまで記述しましたとおり、私は無雙直傳英信流を修業してきましたが、現行の英信流に疑問を感じ、それとは一線を引く意味で“無双直伝英信流町井派”を名乗るようになったわけですが、大喜多さん、細木さんと、実子以外にも居合を教えるようになったことをきっかけに、妻から流派名改名を勧められました。その理由は大きく三つに示しますと以下の通りです。

 

・手の内など刀の持ち方からして根本的に英信流とは異なること。

・現行の英信流と形の理合や術理、一部の形に改編を加えたこと。

・英信流を名乗り続けている限り、本家を名乗る英信流の型にはまらなくてはならないこと。

 

龍心館吉岡道場在籍晩年の頃、稽古に顔を出すと、自分の居合術理を否定され、柄を握る手がくっつきすぎだ。などと元に戻すよう指示されることが頻繫でした。そう言った経験から、独自のスタイルを貫くには、英信流のしがらみから脱却する必要がある感じた私は、妻の提案に大きく頷き、2005年、無双直伝英信流町井派を修心流居合術兵法に改名し、ここに修心流居合術兵法が誕生したのです。

名前こそ修心流居合術兵法ですが、稽古しているのは実際に使える英信流であり、本来の古流英信流を再現することを目標にしています。

このくだりは拙著『最強のすすめ』にも記載していますが、修心流という名前を考えてくれたのは、これまで私が散々迷惑をかけてきた妻であり、妻には感謝の気持ちでいっぱいです。

それ以降、細々と修心流として活動し、居合を教授してきましたが、そんな私と修心流の名が、全国的に少し知られるようになったのは、なんと言ってもフジテレビの人気番組であった『THE BEST HOUSE』の生放送4時間SPに於いて、私が千本斬りのギネス記録奪回に成功したことでしょう。

また、私の英信流二十三代について記述させて頂きますが、二十三代は初代から数えて23番目という意味であり、私が正統派英信流の23代宗家と言う意味ではありません。私に英信流を御指南下さった吉岡早龍師自身も、現在の正統派を名乗る英信流から見れば亜流の一人です。

なんだ町井は本流で英信流を学んだのではないのかと、伝統や系譜ばかりを重んじる人は亜流を軽んじることでしょう。しかし私は“亜流の英信流”だったからこそ今の私、修心流が誕生できたと考えています。

19歳のあの時、好意を寄せていた女性の家から遠くないと言う不純な動機から、居合の良し悪しも判らぬままに飛び込んだ英信流の道場が吉岡早龍師の龍心館であったことは、神仏祖先のお導き。幸運中の幸運であったと思います。

現在、本家本流を名乗る英信流の宗家は三人おられますが、そのいずれの道場、いずれの宗家の下で修業を積んでいたなら、私が目指す古流英信流の再現には辿りつく事が出来なかったと思います。

何かと軽んじられる亜流ですが、亜流には亜流だからこそ、本家本流に流されたり影響を受けることなく、墨守することができた理合と術理、口伝が残っており、宗家が代替わりする度に、非実戦的な形改編を重ねて来た本家本流とは違う物があるのです。

 

四回に分けて修心流誕生のいきさつを記述しましたが、全文をご拝読下さった方に感謝。

そして、修心流誕生に至る経緯を作ってくださった、吉岡早龍師、対立していた龍心館の一部の門下、袖を別ったS流M氏、私を精神面、金銭面で追い込んだMさん、修心流一番弟子となられた大喜多さん、本部道場開設のきっかけを作ってくださった二番弟子の細木さん、その他私に関わってこられた全ての方に、感謝の意を述べます。

私との関わり方がどうであれ、皆様との関わりがあったからこそ、今の私と修心流居合術兵法は存在します。

また、これまで散々女性問題で苦労をかけてきた妻にも、「ありがとう。」

修心流居合術兵法誕生の経緯 3

Mさんとその部下に試斬技術の手解きを開始して二ヶ月。返し業の成功率も上がり始め、道場のフランチャイズに向けて準備が整いつつあったある日のこと、私は精神的にも金銭的にも追い込まれる事態に陥ることとなる。

Mさんが私の女性問題を挙げ、道場フランチャイズ展開に待ったをかけたのです。

人に自慢できることではなく、私を支えてくれる妻を裏切る行為だけに、本来ならこうした公の場に記述するべきではないのでしょうが、様々ないきさつがあって今の私があると考えるので、恥を忍んで記述しますと、当時私は三年近く不貞行為を働いていました。所謂不倫です。

私に妻以外の女性がいることを、Mさんは御存知でしたし、Mさん自身も本妻が居ながら愛人と共に暮らす生活を送っておられました。そんな間柄でしたので、私の不倫相手もMさんと面識を持つようになり、共に道場フランチャイズ計画に参加していました。

全ては己の身から出た錆ですが、早い話が大義名分を掲げた裏切りに遭ったのです。

拙著『最強のすすめ』に記述している通り、私は宗教家ではありません。ただ居合が好きなだけの一人の男に過ぎません。私が宗教家であったなら、女性関係を責められて然りですが、今でも私はM氏とその部下に対しては快く思っていません。

道場を開設する気持ちはないと、乗り気ではなかった私を引っ張り出したのは前述の通りMさんであり、彼が描いた絵図の通りに彼の部下達にみっちりと試斬指導も二ヶ月の間行いました。皆、ある程度実力もつけました。その二ヶ月間、私は昼食や夕食を御馳走になることはあっても、技術の教授料は一円たりとも頂いていません。まるまる二ヶ月間とは言いませんが、二ヶ月間のうちの多くの時間をただ働きさせられたわけです。

本業に費やすべき時間を奪われるわけですから収入も減ります。それだけでも金銭的ダメージは大きいのに、Mさんが私にとった行動は、Mさんとその部下達のために用意した刀、計6振を私に買い戻しさせるというもの。当然試斬稽古に使用した刀ですから、ヒケが入ったり、斬り損じて曲げてしまったりと、研磨も含め、状態は悪くなっています。それを販売した価格で買い取れと迫ってきたのです。

無論そのようなヤクザまがいな要求に応える必要も義理もありませんが、これまたMさんの仕事場兼自宅において、Mさんとその部下達計6人に囲まれた軟禁状態の中、ましてや不倫相手とその両親、また、妻との問題で心身共に疲弊していた私は、

「道場展開計画が完全に白紙になったわけじゃないのだし、今は私達に誠意を見せるためにも一旦けじめとして買い取るべきだ。」

などと言う、Mさん達の執拗で言葉丁寧な脅迫とも受け取れる身勝手な責めから逃れたい一心と、

「Mさんは今はこう言っているだけ。数ヶ月後には言葉通りまたこれらの刀を買い戻して、道場展開に励まれるに違いない。」

といったMさんへの信頼から、結局、傷だらけにされた刀を、数ヶ月間一時的に買い戻すだけのことだと信じ、売った値段で買い戻したのです。

ところがどうでしょう。その後Mさんからは… なんの連絡もありません。ヒケだらけになり、発錆もしたそれらの刀を、再び商品にするために捻出した研磨工作代は、ゆうに75万円を超えました。

心身共に疲弊していたとは言え、あの時どうしてMさんの言葉を信じ、売った値段で買い戻してしまったのか? また、多人数で取り囲んでの脅迫に何故屈してしまったのか? 今も心残りで悔しくて仕方ありません。Mさん達多人数相手に一戦交えようとも、己の信ずる筋を通すべきだったと後悔し切りです。

悪いように考えすぎかもしれませんが、今となっては“Mさんは初めからこうするつもりだったのではないか?”と思えてなりません。要は道場展開というビジネスを始めるにあたって、試斬技術が欲しかっただけなのではないか? 私は担ぎ上げられ、まんまと利用されただけではないか?と。そして、当初はビジネスとして金になる算段であったものが、様々な試斬道場の現実を見るに、採算がとれない。またはさほど儲からないと判断し、何かしら口実を作って自分達は損失が出ない形で計画を反故にしたかったのではないか? 或いは私を追い出した後、他の刀剣商と組んで実際に試斬道場らしきものをやってはみたものの、成功しなかっただけなのかもしれません。

S流(M氏)での出来事、龍心館での一部の門弟との確執、Mさんとの出来事、更には妻と別れて一緒になろうとまで考えていた不倫相手からの様々な嘘の発覚と裏切りで、人を信用することに一種のトラウマを持ってしまった私は、益々対人関係が苦手になっていきました。

二度に渡る事実上の道場設立運営の失敗経験から、私は改めて“居合は己の趣味にとどめておこう”と強く思うに至り、人に教えることはもうするまいと諦めるようになったのです。

 

修心流居合術兵法誕生の経緯 2

S流(M氏)と袖を別つことになる少し前。それが1年前なのか2年前なのか、記憶力が乏しい私は今すぐに思い出せないのですが、籍を置いていた龍心館吉岡道場を辞しました。

その経緯については拙著『最強のすすめ』に記していますが、抜付での一撃必殺の居合を求め、龍心館での試斬稽古を推奨したことが発端です。門弟の中から「町井を辞めさせろ。」「町井を辞めさせないなら俺達が道場を辞める。」と吉岡早龍師に詰め寄る者が現れたと私は聞いています。

私はかねてより現在の英信流に疑問を感じていましたし、また、既に早龍師伝の英信流を脱却(守・破・離で言う破)しておりましたので、私個人の存在によって師にご迷惑をかけることを避け、自ら師に龍心館を去ることを伝えました。

この辺りの経緯を詳しく知らない人や、悪意ある噂を好む方は、龍心館を破門になっただの、英信流を破門になっただのと、面白可笑しく吹聴されますが、上述の通り吉岡早龍師とは一切の揉め事はございません。ただ一言、道場を辞するにあたり、師には一部の門弟の行動を指して、「今の龍心館は誰が館長か判らない状態にあります」とだけ忠言させていただいたことをハッキリと覚えています。

因みにこの頃、全日本居合道連盟(以下全居連)と折り合いが悪かった早龍師と龍心館は、全居連から日本居合道連盟(以下日居連)に移籍し、それに伴い龍心館の門弟達は昇段試験を受けることなく、全居連で取得したのと同じ段位を日居連から允可されました。これに伴いまして私は“全居連”でも“日居連”でも伍段位の允可を受けたことになります。

龍心館吉岡道場を辞した後は、これもまた拙著『最強のすすめ』に記していますが、妻の助けの下、毎日畳表と向き合う日々を約一年過ごしました。

今でこそ帯刀してからの横一文字の抜付をされる方をちらほら見かけるようになりましたが、私が知る限り、当時は身体を開く事無く畳表を抜付の一文字で両断される方はおられませんでした。身体を捻り、左に45度向いたり、或いは90度向いた状態で、勢いつけて切られる方はおられましたが、それは私が求める抜付ではありません。

結局のところ、誰も私が理想とする抜付ができる方がおられないので、自分自身で研鑽を重ねなければなりませんでした。

抜付を研究する上で大変役立ったのは、M氏から学んだ試斬の基本技術であったことは言うまでもありません。M氏との関係無くして今の私の存在はありません。S流を立ち上げたことで、M氏とは残念な袖の別ち方をしましたが、感謝の気持ちは今も持ち合わせております。

S流M氏の下を辞し、英信流の龍心館吉岡早龍師の下も辞した私は、独立して自身の流派、道場を構える考えなど毛頭無く、当然ながら門弟を募ることなどもしていませんでした。

自分自身だけが居合を楽しめればそれで良い。そんなスタンスであったのです。

そんな頃、刀剣の販売を通じて知り合ったお客様のMさんが私を後押ししたいと申し出られ、私に道場設立を勧められました。

「道場を開設するつもりは無い。一人気儘に居合を楽しめればそれでいい。」

と乗り気ではなく、首を縦に振らない私を、Mさんは彼の自宅兼会社に招き、言葉悪い表現になりますが、ほぼ軟禁に近い状態で説得を続けました。泊りがけも含め3日間ほど彼の自宅で説得され続けたと記憶しています。

Mさんが提案してきたのは、彼を含む彼の会社の従業員全員に私が試斬技術を叩き込み、ある程度の実力がついたところで、それぞれを支部長として道場のフランチャイズ展開というものでした。

「毎月100万程の安定した月謝収入があれば、銀行は1億でも融資してくれる。立派な本部道場も建てることができる。」

そんな甘い言葉に傾いてしまった私は、Mさんとその従業員達に約二ヶ月に渡って試斬技術を伝授することになります。

試斬には真剣が必要です。道場のフランチャイズ計画の下、本鍛錬の良質な軍刀などをかき集め、彼らのために良心的な価格でお譲りしました。当然ながら研ぎ身状態です。

まずは試斬大会で道場の名を轟かせる。その目的のため龍星剣猿田宗家主宰の“国際抜刀道試斬連盟”にMさん達と加盟。当時既に五本横並びでの袈裟と斬上、各種返し業、当時は猿田宗家とM氏くらいしか出来ないと言われていた“※据斬”の技術をも身につけていた私は、猿田宗家のご厚意で試験を受けることなく、国際抜刀道試斬連盟に於いても五段の允可を頂きましたが、当時、人より物斬りが巧いことに天狗になっていた私は、「俺の腕がたったの五段か?」と允可状を見て苦笑したことを覚えています。

※長さ90センチの畳表を巻き締め、地面に据え立てた状態で倒さず斬る斬り方。同様の斬り方を披露される方は他にもおられましたが、斬りやすい高さの台の上に置いて斬るなど、ここで言う据斬とは趣を異としています。

修心流居合術兵法誕生の経緯

以前にも触れたことがありますが、改めて修心流居合術兵法創流の経緯について記述させていただきます。長文に及ぶと思われるので数回にわけて記述することになるでしょうが、刀と居合が大好きで仕方ない時代錯誤の一人のオヤジが、歴史ある英信流の名を捨て、修心流居合術兵法に改名創流したいきさつを、是非とも知ってください。

 

私が奈良にある無雙直傳英信流の道場に通いだしたのは19歳の時でした。

幼い頃から刀剣類が好きで、趣味にしているうち、どうせなら使いこなせるようにもなりたいと思ったのが、道場に通いだしたきっかけであり、わざわざ遠い奈良の吉岡道場(龍心館)を選んだのは、当時好意を寄せていた女性(彼女)の家から近かったと言う理由からですが、後にこの道場で英信流を学んだことが、今の私の居合術理の基礎を作り上げることに繋がるのです。

入門して最初の二回か三回くらいは、基本所作や初伝形(大森流)一本目を個別に指導していただけましたが、その後の稽古は他の門弟と同じように、中伝や奥伝などを師が手本を示した後、皆と一斉に抜くという稽古でしたので、物覚えが悪い私は、なかなか形を覚えられず苦労したものです。

通っていた道場は、当時、全日本居合道連盟に属する道場で、段位は師や道場ではなく、連盟が允可していました。

よほどのヘマをしない限り、受験料を納めれば六段まで毎年昇段できます。私も道場に通いだして半年程で初段になりました。その後毎年昇段試験を受けることで五段迄はエスカレーター式に取得。そこで色々と疑問を感じるようになりました。

「昇段試験ってこんなに簡単でいいの?」

三段を取得した頃からでしょうか。様々な疑問が蓄積し、道場と言うよりは現英信流に飽き始め、“初太刀は牽制であり、二の太刀で斬る”と言った解説や、あまりにも自分に都合の良い業の解釈に不満が爆発。道場へ通う頻度も少なくなりました。

今では何故居合が刀一振だけで稽古するのか理由も解りますが、当時は私も“武士が嗜む武術なのに脇指を指さないのはおかしい”と考え、道場の自主錬時間には脇指を添えて形稽古をしたものです。その姿を見た吉岡早龍師はただ一言

「居合は大刀一本だけでやるもんや」

とだけ言われ、何故一本だけなのか理由は語られませんでした。

理由を説明されないその一言にも疑問を感じ、更には抜付の初太刀で樋音を発する人が、道場のみならず連盟所属の他道場の先生方、諸先輩方の演武からも聞こえないことに、益々疑念を抱くようになり、

「居合は抜付の初太刀こそが命。斬撃力無き抜付しかできず何が居合だ?」

と考えた私は、五段を取得してからは、連盟が発行する允可状に価値を見出せなくなり、道場へ通う頻度も、年に一回、二回程度となり、昇段試験を辞退すると共に、畳表を相手に、独自に抜刀道(※ここで言う抜刀道とは単なる試斬道)を研究するようになりました。

畳表と向き合うも、英信流では右から左にかけての斬上を稽古したことがないため、上手に斬ることができず、苦労したものです。

当時、畳表の準備や試斬稽古後のゴミ処理など、個人で行うには難しかったため、有料にて試斬稽古場と畳表を提供していた大阪の某流派の一角をお借りして、左斬上(※右から左への切り上げ)を稽古していた時、あまりもの下手振りに、その某流で一番の試斬の手練であったM氏が、私に声をかけ、自宅にお招き下さり、斬上他、試斬技術の基礎を指導してくださいました。

自然と師弟関係が芽生え、上述の某流を離れ、独立されたがっていたM氏の創流を私は手伝うようになりました。

日本刀剣愛好保存会※1のお客様の中で、抜刀道にご興味ある方をお誘いし、S流という新派が出来上がり、私はそこで師範代として活躍。M氏の跡を継ぎ、二代目を襲名するのも面白いなと考えていた矢先、M氏と私の間で亀裂が徐々に深まりました。

※1 美術刀剣 刀心の前名。美術価値の高低に関わらず刀剣を愛したいとの思いから敢えて美術という文字を外し、愛刀家皆で刀剣を保存愛護しようと言う目的で命名した。初期の頃は会員制だった。)

当初S流を立ち上げるにあたり、M氏は私に

「私は試斬はできても、居合はできない。居合は町井さんの方が実力あるから、形創案の際には色々と助言して欲しい。」

と仰っていたのですが、

「下緒を結んだままでの居合は宜しくないので、古式通りに垂らしましょう。」

「この動きには無理を感じるのでこうしませんか?」

と言った私の助言を煙たがられるようになり、更には門弟間で刀剣の売買が始まったりと、刀剣商である私の生活にも支障をきたす状態になりました。

私は雲霞食べて生きる仙人ではありません。家族を養うには利益も得なければなりません。S流の活動の中で、弛んだ柄巻き、鞘の修理や研磨など、それらの諸工作は私の店が引き受けるはずでした。

更に溝が深まったのは、演武時の衣装と披露する技について制約が出た時でした。

S流としての初めての古武道演武会への参加。師範代という立場もあり、私は裕福でもないのに清水の舞台から飛び降りる覚悟で紋付羽織に縞袴の一張羅を購入したのです。着物も上を見るときりがなく、私が買い揃えた物は安物ではありましたが、それでも一式で12万円程したでしょうか。

出来上がった紋付に袖を通し、演武会を楽しみにしていた私に、M氏側から紋付着用を禁ずとお達しが来ました。M氏だけが紋付で門弟は全員黒で揃えた稽古着でなければいけない。更には試斬演武での私の演武は三本横並びまでしか披露してはいけないと言われたのです。

当時五本横並びの袈裟、斬上を必死に稽古してきた私は、当然演武会でもそれを披露しようと考えていたのですが、

「町井さんが紋付着て五本斬ったら、先生(M氏)目立たないでしょ?」

と言うのが制約をかけられた理由でした。

私は師範代という立場上、また、S流の初演武ということもあり、自分なりにS流を盛り上げるべく衣装も用意したことを当然お伝えしましたが、M氏を宗家に崇め、事実上私が作り上げたS流から、「従えないのなら辞めろ」と言う冷たい言葉が私へ返ってきました。

演武会当日、そこに私の姿はありませんでした。S流を辞するまではなくとも、それ以来少しずつS流(M氏)との距離は広がりましたが、稽古に使う畳表の確保。稽古後のゴミ処理など、影ながらサポートは続けさせていただいていました。

私がS流を離れるもう一つの要因に、門弟の一人が、ヤフオクでうぶ中心無銘の新刀だか新々刀だかを購入し、それを自作の拙いはばきや拵に合わせ、中心を削り、刀の方を加工した事件があります。

日本刀が大好きで、刀を傷めぬ試斬技術を広めたい、それでいて自分の生計を立てることもできればこれほど嬉しいことはない。そんな純粋な思いからM氏を立てて創流したS流が、自分が思い描いた団体とは間逆のことをし始めたことに、大きな落胆と失望を感じました。

何よりも自分自身を責めたのは、“私がS流を作らなければ、長い年月を生まれたままの姿で残ってきた一振りの刀が、姿を変えられることもなかっただろうに…”という、例の中心加工事件。

やがてS流のメーリングリストでは、私が自らS流を辞するように、わざとらしい配信が続きました。

「町井さん一人に畳表の準備(畳表の水浸作業は全て私がしていました)やゴミ処理をお願いするのをやめよう」

言葉だけを見ると優しく美しい気遣いのように見えますが、早い話がこれまで頼りっきりだった畳表の確保と準備、ゴミ処理を自分たちで行い、私を追い出そうというものです(苦笑

メーリングリストで配信されてきたそのメールを見た時、私はS流を辞することを決意しました。

 

英信流修業時代の道場名や師の御尊名を公表しているのに、S流とM氏に関しては公に公表していないのは、こうしたいきさつがあって、私の居合人生から抹消したい黒い記憶であるからに他なりません。

私がS流を立ち上げなければ、一振の刀が健全な姿を留めることができ、少なくとも文化財破壊に加担する結果にならなかったはず。

私は今でもそのことが悔やまれてならないのです。

 

本来あるべき日本刀研磨を考える…

先日、福島県の将平鍛刀場にて研磨作業に勤しんでからというもの、消えかけていた“刀を研ぎたい”と言う気持ちに再び火がついたようです。

ただ、現代主流の美術観賞用研磨には興味はありません。

将平刀匠が本来あるべき日本刀の姿を追い求めているように、私も本来あるべき日本刀研磨を追い求めてみたいと思ったのです。

そもそも現代の研師は仕事に時間をかけすぎ。預けて数年、酷いところになると十年を超える待ち時間。戦国の世なら戦が終ってしまいます。

鉄肌拭い研ぎも研師によって色々と拭いの調合秘伝があるのですが、これって本来おかしなことなのではないでしょうか?

悪く言えば偽物作りのための研磨と言えなくもありません。拭いを調合することによって鉄の色を人工的に変化させてしまうのですから…

時代が遡る刀に見せたい。二流刀工の傑作を一流刀工の作に見せたい。そんな邪な考えから拭いの調合が生まれたのではないでしょうか?

私は刀剣鑑定家の高山武士先生に

「町井君、拭いは鉄肌だけでいいんだよ。磁鉄鉱やら孔雀石やら色々調合する研師がいるけれど、それじゃその刀本来の鉄色が損なわれるじゃないですか。」

と言われた一言で眼が覚めた気がします。

その刀をその刀らしい姿に仕上げる。他の刀に見えるように仕上げる必要はない。

現代の研磨はいずれも大名仕事です。江戸時代、街中を闊歩する侍達の刀が、今現在見るような研磨をかけられていたとは私には思えません。

将平鍛刀場にて次々に下地を仕上げる私の姿を見て、将平刀匠は

「町井さん仕事早いね~」

と驚かれると同時に

「今の研師さんは皆時間かけすぎなんだよね。」

と仰いました。私も大きくそれに頷きます。

手抜き甚だしい安研ぎではなく、しっかりとした下地、しっかりと砥石を効かせた研磨であって、4日程で仕上げることができるのではないかと…

美術研磨の場合は、刃肌が見えるほどに内曇を引き込み、鎬の針がけも下針、上針と手間をかけるものですが、武器として損傷すること前提の刃物に果たしてそこまで手間隙をかける必要があるのか?

仕上げの段階でヒケ一つ入れば砥戻しをする現代研ぎ。ヒケ一つあったからと言って切味に影響はありません。一つ前の砥石の目を完全に消しさる程度に石を効かせただけでも、じゅうぶんに観賞には耐えうる刀に仕上がるはずです。

刀の売買や居合の教授、その他メディア出演など、なかなか時間を作ることができませんが、折を見て、最短何日でそれなりの研磨ができるのか試してみたい…

真の日本刀とは効率良く、大量生産できる体制が一番大切なのだと思います。

レーザービーム投石部隊


野球に全く興味がない私は、イチロー選手がどのような活躍をするのかすら知りませんでした。
先日渓流詩人さんのブログで上に掲げた動画が紹介されており、見るなり唖然となりました。

強い肩
正確なコントロール

動画を見て一番に思ったことは、戦国時代の足軽投石部隊のことでした。
講談や時代劇の影響で、日本人は白兵戦志向と考えられがちですが、実は遠戦志向であり、戦の勝敗は弓と鉄砲、投石で決まったと言われます。
太刀や刀を抜いて戦うことは珍しく、槍や薙刀を含め、刃物による白兵戦は4~6%程度だったと言われます。

中でもあまり知られてはいませんが、戦では投石が多く行われ、それこそメガーリージャー並みの強靭な肩を持つ足軽で編成された投石部隊の活躍は凄まじかったものと思います。
武器となる石つぶてはどこにでも落ちており、調達に苦労することはなかったことでしょう。

イチロー選手の動画を見て、遠いところから、兜首目掛けて正確に石を投げる投石部隊足軽の姿を容易に想像することができます。
音も立てずいきなり石が飛んでくる…
食らえば骨折や脳震盪は免れないことでしょう。

ただ、あまりにも地味すぎるため、講談や時代劇では取り上げられ、語られることもありません。

近頃の試斬体験会及び試斬に思うこと

昨今、刀剣乱舞なるゲームがきっかけで、女性の間にも刀ブームが起きています。

多くの人が日本刀に興味を持ってくださることに関しては、とても嬉しいことと喜んでおります。

しかしながら、にわか知識の勉強会や試斬体験会に趣く方々を見ると、個人的に困惑するばかりです。

この記事を読まれてご気分を害する方もおられるでしょうが、敢えて書かせていただきます。

ちゃんと道場に通って技術を磨き、それから試斬稽古をされるのと、興味本位で刀(真剣)でポーズを作ったり、振り回したり、果ては素人相手の試斬体験会に趣くのとでは、刀剣に対する精神的な心構えが全く異なります。

また、やたらめったら本数を切ったり、太物を切ったり、そういった切ることばかりにやっけになっている流派、道場、各種団体におかれましても、刀剣に対する精神性が欠如していると言わざるをえません。

ズバリ申し上げます。

安易に試斬体験会に趣く方々は、愛刀家ではありません。刀剣を虐待しているだけのナルシストです。
そのような方々は日本刀が好きなのではなく、刀を構え、振り回し、切っている自分に酔っているだけです。
これは私個人の見解ばかりではなく、実際に精神分析、精神鑑定の分野から、専門家が指摘しています。

江戸時代、罪人の死体を用いて競われた日本刀の切味。その延長で日本刀は真っ二つに裁断するものと、間違った認識がはびこっており、刀剣を扱うことを生業にしている方々は、昨今の刀剣ブームに乗じて金儲けをしてやろうという邪な心根のもとでしか動いておりません。

素人相手に付け焼刃な試斬体験をさせ、刀を振る己に酔うナルシスト心を煽り、日本刀を美術品としてではなく、単なる刃物扱いとして販売する。はたまた自らが営む道場に誘い会員数を増やす。いずれも蓋を開けてみればそこには営利を目論んだものばかりです。

高価な日本刀を手にさせてくれる。たった数千円で刀で畳表を切らせてくれる。なんて親切な人達だ。

その程度にしか思っていないのでしょう。そこに群がる人達は。

人間誰しも雲霞食べて生きているわけではありませんので、それなりに利益を得なければならないのはしかたないこと。しかし、私は一愛刀家としてそれらの行為に警鐘を鳴らします。

過去のブログ記事で、素人が畳表に切り込んだ時に生じる刀への負担については記述しておりますが、再度写真を掲載します。

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これらの写真は肉眼では気付けない一瞬を捉えたものです。
わかりますか?

刀にこれほどの衝撃と負担がかかっているのです。
こうしたことが何度も行われると、刀は金属疲労を起こし、いずれ折れてしまいます。

安易に試斬体験に趣く人達が、何の自覚もなく、こうして刀を虐待しているのです。

無銘の安い刀だから… と貸し出されているその刀、鑑定書がついていないだけで、実は大名刀の大磨上無銘物かもしれません。
まだまだ名刀は巷に埋もれています。作者銘がない物、大銘が切られた刀(超有名な作者銘が入った刀のこと)だから、どうせ偽物だろう。そう思い込んで使われている刀の中に、とんでもない名刀が紛れている可能性は否定できません。
それらの命を縮め、奪おうとする行為をされていることを自覚されてください。本当に刀のことが好きなのなら…

以前ブログにも記述しましたが、このように素人に使いまわされる刀を見ると、私は“愛する女性が輪姦されているようにしか受け取れない”のです。

極端な喩えになりますが、試斬体験に趣く刀剣女子、刀女子の皆さん、刀を貴女に、試斬体験する人を性欲むき出しの男達に置き換えて考えてみて下さい。

「この女、どんな抱き心地がするんだろうな? みんなで味わってみようぜ。」

抵抗することも許されず、乱暴に扱われ、心も身体にも傷がつきませんか??

貴女方が遊び半分で試斬に使った刀も、同じように傷ついているはずです。
言葉を発することができないだけに余計に可哀想です。

それから、日本刀の正しい使い方と言うのは、あのように畳表や竹を真っ二つに切るものではないのです。
それはしっかりと古流の剣術や居合を修練されれば理解できることですが、刀はサッと動脈を切るだけの使い方が正しい使い方なのです。
今現在、日本国内には約300万振の刀剣が残されていると言われています。他の国に比べると圧倒的に刀剣の数が多いのです。

何故だかわかりますか??

それは、古の武士や侍達が、大切に大切に遺して来たからに他なりません。
剣術の稽古には木刀や竹刀を用い、真剣の使用を控えていたからなのです。

そのような古の人々の想いすら、貴方達は踏みにじっている。

早くそのことに気付いて下さい。
試斬を体験したいのであれば、ちゃんと道場に入って修業して、実力をつけてからにしましょう。

試斬体験から道場に入るのではなく、道場に入ってから試斬。道順を違えないで下さい。

何よりも刀が大好きでやまない、一愛刀家からのお願いです。

渓流詩人さんに何があったのか?

詳しくは渓流詩人さんのブログに詳細が記されています。
連絡
http://blog.goo.ne.jp/kelu-cafe/e/8a828bc4d1f2a05f27e59fa01fa24714

分派が流派名を名乗った時点で分派とは言えない。
それはもう別物なのだと私は考える。

それをとかく分派分派とサブタイトルのように使いまわし、挙句の果てには流派名自体に付け加えるのは如何なものか?

新興流派は新興流派で宜しいではないですか。

名を語るのではなく業を磨けば宜しいではないですか。

私はそう思います。

とある流派に関して、歴史的な観点からの指摘をされていた渓流詩人さんの警鐘記事が削除されるのは、とても大きな損失だと感じます。

ニセモノ注意! 本物小笠原流と小笠原流礼法宗家(ニセ) ~渓流詩人さんのブログから~

ニセモノ注意! 本物小笠原流と小笠原流礼法宗家(ニセ)

http://blog.goo.ne.jp/kelu-cafe/e/276b3b3e36c29ded1442de77ffcc48f9

 

今やどこでも見かけるようになった、両手を腹前で合わせる御辞儀。

武術の世界でも同じようなことが速度を上げて進んでいます。

嘆かわしいことです。

曇り無き眼で真実を見極めるべきなのですが、安易に捏造されたものを真実だと疑ってやまない純真な人が多い…