雑誌取材

修心流居合術兵法

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本日は13時より某学生向け雑誌の取材でした。

男子大学生と取材スタッフ一名の計二名が本部道場を来訪。

居合と言えば、とかく抜刀、納刀、刀を振って物を斬る。と言ったイメージを払拭すべく、色々な術理を解説しながら、男子大学生に修心流居合術兵法を体験頂きました。

力む、捻る、回す、などといった身体の使い方が身に染みている男子学生は、術理を頭では理解できていても体現することができません。

下緒捌きに始まり、居合形、剣術、居合柔術、槍術、手裏剣術と、様々な形と稽古法をご覧頂き体験頂きましたが、これが記事となって一人でも多くの若い学生さん達に、僕が追い求める居合術がなんたるかを知って頂き、興味を持っていただければ嬉しく思います。

 

子供の発想は凄い ~暴れん坊将軍を見て放った一言~

 

暴れん坊将軍

つい先ほどのことです。

学校の準備をする子供達を横目に、暴れん坊将軍の再放送、殺陣の部分だけを観ていたのですが…

 

「えぇい! 最早これまで! 出合え出合えッー」

 

の掛け声で一斉に飛び出してくる斬られ役を観て、四男が驚きの一言を放ちました。

 

「なんで誰も弓持って来ないの?」

 

これまでに暴れん坊将軍を観ていて、そんなこと一度も思いつきませんでした。

確かにそうです。

武家屋敷には常時弓に弦を張り、いつでも矢を射掛けることが出来るように準備されています。

二~三人でも弓を持ち出し、至近距離から射掛ければ、徳田新之助こと将軍吉宗は容易く討ち取ることができるはず…

 

子供の観察力と言いますか、発想力と言いますか、本当に驚かされますね。まさに暴れん坊将軍の盲点でした。

刀 盛久作(大和千手院)

刀 盛久作(大和千手院)

刀 盛久作(大和千手院)

http://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/katana/517/00.html

 

大和千手院派の盛久の手による刀です。盛久は室町中期の永正頃に活躍した刀工。千手院盛久、太郎盛久とも銘切ります。

この刀は大和物らしく柾目主体に小板目や杢目が混じり、総体に映りが判然と立つ地鉄に、稚児柏の如き表裏雰囲気が異なる刃文を焼いています。
匂口は明るく、表は刃縁硬く締まり、地に向かって煙り込むが如く匂口が拡がるのに対し、裏はその逆となり、一見備前物を思わせるような丁子乱れを巧みに焼き、刃中の変化も豊かで味わい深い出来口となっています。

大阪の旧家より数振り纏めて発見されたうぶ出し刀の中の一口で、当店が発見届けから登録審査迄お手伝いさせて頂きました。然るべく研磨諸工作を施した後に御紹介するつもりでしたが、現在工作が手詰まっており、なかなか着手に至れないため、ひとまず現状のままで御案内する次第です。

御購入者様の手によって研磨工作を施され、出世させてあげてください。

裸身重量751グラム。

修心流居合術兵法は単なる新興流派なのか? れっきとした古流派なのか? ~修心流居合術兵法の成立ちについて~

修心流居合術兵法

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修心流居合術兵法の成立ちについて記させて頂きます。

 

私が創流した修心流居合術兵法を、単に物斬り主流の新興流派と誤解されている方もおられるかと思いますが、修心流居合術兵法はれっきとした古流居合の一流派です。

と言いますのも、修心流居合術兵法とは無雙直傳英信流町井派を改名して誕生したものだからです。

無雙直傳英信流については以下にウィキペディアより転載することで説明を割愛させて頂きます。

 

無双直伝英信流(むそうじきでんえいしんりゅう)とは、江戸時代長谷川英信が開いた武術流派である。土佐および信州で継承された。長谷川英信流ともいわれる。土佐長谷川流長谷川英信流無双直伝流無雙神傳流等さまざまな流派名が名乗られていた。しかし近年、信州で見つかった英信の弟子であった荒井清哲が1668年に発行した伝書に無双直伝英信流の名が見られることから、すでに古くからこの流名であったことが確認されている。幾つもの分派があったと思われるが、明治以降残った二派を大江正路の門人達は谷村派下村派と呼んだ。谷村派は無双直伝英信流を、下村派は無双神伝英信流を称している。現在では土佐に伝わったもののみ残っており、別名土佐居合とよばれている。

居合のみの流派と思われがちだがこれは現在の居合の系統が広まったことによるものである。江戸時代、初代英信から2代荒井清哲の頃には和術(捕手術、小具足、組討など)を表芸とし、剣術小太刀術棒術、さらには槍術薙刀術も伝える総合武術として、数多くの弟子に教伝されていた。その後、3代林六大夫守政によって土佐に伝えられた系統からは居合が中心となっていった。さらに長谷川英信は修行時代にそれらを使った合戦術も学び、これに付随し馬術弓術の存在も指摘されているがこれは一説の域を出ず定かではない。戦前まで、2代荒井清哲によって信州に伝えられた系統では、無双直伝(英信)流和術を中心に棒術、居合、捕縄の技法が色濃く伝わっていたと思われる。

現代では同流異派の夢想神伝流と並び、現代居合道界の流派のひとつである。

 

歴史

土佐に伝わった系統では、居合の祖とされる林崎甚助(重信)を初代としているが、これはあくまで居合の祖という意味で第7代の長谷川英信を「流祖」と呼ぶ。流の開祖は長谷川英信である。ただし、無双直伝流の居合に関しては、信州の文書には土佐と異なる伝承が書かれている。長谷川英信は居合以外にも槍術柔術など各種の武術に優れており、幾つかの流派の流祖とされる。英信は尾張徳川家に千石で仕えていたといわれる。英信は、太刀のごとく下から抜き揚げる抜き付け技法であった居合を、刃を上にして抜きつける打刀を遣うに向いた技法に改めたと伝えられる。ただしこの説は、

  • 林崎甚助が生きた時代は既に打刀の時代である。
  • 他の林崎甚助を開祖とする流派も打刀を使う技法であり太刀居合が存在した形跡が無い。
  • この伝承について古伝書等には記載が無く、最も古い記録が昭和になってからである。

等から、近代になってからの伝承と考えられている。

また、南山大学教授の榎本鐘司は信州の無双直伝流の資料を調査し、信州の『居合根源之巻』に居合の伝系が記載されていない事から、居合の伝系(林崎甚助~長谷川英信にいたる系図)は土佐において『和根源之巻』(無双直伝流の柔術の伝書)を参考に作成されたという説をとなえている。信州の無双直伝流師範家につたわった文献によると、長谷川英信の弟子である和術の達人荒井(小管)清哲が、常陸国田宮某より林崎甚助系の居合を学び、晩年には居合を教授するようになった、とあり、信州では無双直伝流の体系に林崎系の居合を付け加えた荒井清哲である記されている事実を発表している。このため、土佐に伝わった系統が居合中心になっていったのではないかと考えられている。

 

信州での伝承

北信を中心に、半兵半農の身分の足軽の間に広く伝わった。文献や状況から、明治から昭和戦前あたりまでで継承者は絶え失伝したと思われる。比較的多くの文献が残っており、南山大学の榎本鐘司教授によって研究論文が発表されている。なお、現在いくつかの団体で残った資料から復元活動がおこなわれている。埼玉県で師範家の子孫により復元がおこなわれており、日本古武道協会に長谷川流和術として参加している[1]。また、古武道研究家の平上信行、千葉県の居合団体、英明会なども復元活動をおこなっている。

 

土佐での伝承

林崎系居合8代の荒井(小菅)清哲の弟子である林六太夫守政が土佐藩士であったことにより、土佐に伝わった。林六太夫は、荒井清哲より林崎系居合第9代を継ぐと共に、以前より学んでいた正座での居合が中心の大森流居合を無双直伝英信流居合術の体系に併伝した。こうして土佐では和術中心に伝承された信州と違い、居合中心に伝承されることとなり、大森流以外にも太刀打之位、詰合之位や奥居合(抜刀心持ノ事)などを含む、信州に伝わっていた九ノ腰が土佐に伝わって体系化されたものだと思われる。

第12代より、二派に分かれ、林益之丞政誠の系統を谷村派、松吉貞助久成の系統を下村派と後に呼ばれた。ただし実際には、明治以前はこの二派以外に多くの師範免許者はいたため、谷村派、下村派の区分は明治前後に出来た区分と思われる。下村派は伝統的に無双神伝英信流という流儀名を名乗っている。以下、代目は林崎甚助を始祖として数える。

 

明治以降

この項では主に大江正路の系統(谷村派)に関しているため、特記ない限り谷村派に準じて記載する。下村派に関しては無双神伝英信流に記載している。

近代に至り、大江正路は、下村派14代、下村茂市より下村派の居合を学んだ後、16代後藤(五藤とも)正亮に師事し第17代を継承した。しかし、居合術以外の多くの部分(剣術、和術、棒術)を大江が伝えなかったことから、谷村派では無双直伝英信流の多くの部分が失伝したといわれる。ただし、居合術以外の部分は同時代の他師範も学んでいなかったと思われる。一方の下村派においても伝書の存在こそあれど、やはり居合術以外の技は幕末の頃にはすでに失伝している。大江正路は英信流の技を整理して、大森流を「正座之部」、長谷川英信流を「立膝之部」として統合し、現在行われている内容に制定した。大江正路の門人に、森繁樹穂岐山波雄政岡壹實鈴江吉重中西岩樹山内豊健甲田盛夫山本晴介福井春政らがいる。

第20代の河野百錬は、昭和29年(1954年)に全日本居合道連盟を結成した。次いで昭和31年(1956年)、全日本剣道連盟に居合道部が発足したため、大江の高弟であった政岡壹實山本晴介とその弟子たちは全日本居合道連盟を抜け、こちらに加盟した。河野百錬の死後、全日本居合道連盟で第21代宗家の継承争いが起き、幾多の分派を生んだ。平成の現在は、全日本居合道連盟、全日本剣道連盟居合道部のほか、全日本居合道連盟から派生した大日本居合道連盟日本居合道連盟、平成22年(2010年)に正統正流無雙直傳英信流居合道国際連盟が独立、発足した。現代武道の居合道と並行して広く普及しているが、それぞれに交流がほとんどなく、時を経るにつれ業の解釈に少なからず相異を生み、更に交流を妨げている傾向がある。また、組織に属さず独自に活動する人物も多い。現代武道では組織に属さない居合道/英信流修行者を異質と見て、その技術を低く評価する傾向にある。それを「大企業病」と同じように大きな組織の英信流の技を懐疑的に見る修行者も多い。

現在は宗家が複数存在し、全日本居合道連盟・無双直伝英信流正統会が定めた宗家は下に記す通りで有る。あくまでも全居連や正統会の主張であり、歴史的、技術的に正統な宗家である根拠は無い。全日本居合道連盟は、英信流のみならず無外流、神伝流、田宮流、神道無念流などの流派も加盟しており、英信流の専門団体ではない。慣例的に無双直伝英信流正統会(英信流専門団体)の宗家が全日本居合道連盟の会長職に付く事が多い。本来は「宗家」と言う称号は存在せず土佐藩が存在していた時には「芸家」と呼ばれた。廃藩置県で藩が無くなった現代では流祖から数え何代目(または○世)という表現が正しいという者もいる。

 

  • 無双直伝英信流正統会の定めた宗家(谷村派)

始祖 林崎甚助重信

二代 田宮平兵衛業正

三代 長野無楽入道

四代 百々軍兵衛光重

五代 蟻川正左衛門宗続

六代 萬野団右衛門信定

七代(流祖) 長谷川主税助英信

八代 荒井勢哲清信(信州へも分派する)

九代 林六大夫守政(土佐国へ伝わる)

十代 林安大夫

十一代 大黒元衛門清勝

十二代 林益之極政誠

十三代 依田萬蔵敬勝

十四代 林弥大夫敬勝

十五代 谷村亀之極自雄

十六代 後藤正亮

十七代 大江正路

十八代 穂岐山波雄

十九代 福井春政

二十代 河野稔百錬(大阪 全日本居合道連盟創設)

二十一代 福井虎雄聖山(岐阜)

二十二代 池田隆聖昂(大阪)

二十三代 福井將人(岐阜)

その他
  • 大江正路に谷村派を学んだ山内豊健土佐藩山内家の子孫)の系統は山内派といわれる。
  • 谷村派、下村派を学んだ中山博道夢想神伝流を創始している。
  • 他にも大江系の無双直伝英信流を学び、独自の流派や分派を創始している例がある。
  • 平成16年に無雙直傳英信流町井派が発足。現在は修心流居合術兵法
  • 二十代には竹嶋壽雄(土佐直伝英信流)、山越正樹(山内派)がいる。
  • 二十一代には平井一蓮阿字斎(大日本居合道連盟)、清水俊充(日本居合道連盟)などがいる。
  • 二十二代には平井明阿字斎(大日本居合道連盟)、利水幸雄(日本居合道連盟)などがいる。
  • 二十三代には江坂静巌(正統正流無雙直傳英信流居合道国際連盟)、福嶋阿正齋(大日本居合道連盟)、清水寿浩(日本居合道連盟)、などがいる。
  • 全日本居合道連盟ならびに無双直伝英信流正統会の主張する正統性には、懐疑的な意見が多い。

 

上記がウィキペディア記事の転載です。

 

 

今の私は自分が目指す居合を更に追い続け、それを身につけたいと言う思いが強いため、歴史家や武術史研究家の如く英信流の歴史を深く研究したことはありませんが、残された形の一つ一つの動きに“何故?”と言う疑問を抱きながら、日々古流英信流本来の姿を模索し続けています。

そのような身の上ですから、私は肩書きや系譜について固執する気持ちはありません。

様々な技術研究の末、無雙直傳英信流正統会から離れて町井派と称するようになり、それから更に研究稽古を重ね、失伝されかけている居合柔術や槍術なども加えていく過程で、無雙直傳英信流町井派から完全に名を改め修心流居合術兵法を興すに至り、そして、本当の武術の追求と継承を通じて人格形成を目指したいとの願いも込めて「修心流」と命名した次第です。

これを単なる新興流派と捉えるのか、れっきとした古流であると捉えるのかは、その人の受け取り方次第にお任せしますが、アメリカシアトルや中国北京に支部が誕生しようとしている今、修心流居合術兵法の成立ちや技術体系について、編纂が必要な時期にきたと感じたため、少しずつこのブログ上に於いても記述していこうと思います。

 

上記の系譜に加筆すると、修心流居合術兵法は以下のように記すことができます。

 

~修心流居合術兵法系譜~

始祖 林崎甚助重信

二代 田宮平兵衛業正

三代 長野無楽入道

四代 百々軍兵衛光重

五代 蟻川正左衛門宗続

六代 萬野団右衛門信定

七代(遠祖) 長谷川主税助英信

八代 荒井勢哲清信

九代 林六大夫守政

十代 林安大夫

十一代 大黒元衛門清勝

十二代 林益之極政誠

十三代 依田萬蔵敬勝

十四代 林弥大夫敬勝

十五代 谷村亀之極自雄

十六代 後藤正亮

十七代 大江正路

十八代 穂岐山波雄

十九代 福井春政

二十代 河野稔百錬(ここで正統会から分かれる)

二十一代 景山断士

二十二代 吉岡早龍

二十三代 (流祖)町井勲(無雙直傳英信流町井派創派 後に修心流居合術兵法に改名)

 

上記のような系譜となりますが、歴史や系譜に拘るつもりは毛頭もなく、私は自分が目指す居合術を追求するのみという姿勢で居ります。そのため現在の英信流を名乗る団体はもとより、他の居合会派とも基本的に交流は無く、各種連盟にも所属せずに独自に居合術を教授しています。

古流英信流を求め、研鑽を重ねるうちに、居合術とは刀の抜刀納刀ばかりではないと悟った今、修心流居合術兵法では居合術の他に剣術、小太刀剣術、二刀剣術、主に十文字を用いる槍術や薙刀術、弓術や手裏剣術、体術や使用する刀剣を吟味する武家目利きをも教授するようになりました。体術に至っては居合形が基となっているため、居合柔術と称しています。

研究したいこと、やりたいことがありすぎて、正直なところ、週に三回程度の稽古では、門弟達に正しくどこまで技術を伝播できるのか不安なところもあります。

願わくば現在生活の糧を得るために本業となっている刀剣商を卒業し、残りの人生を居合術の研究だけに注ぐことができればと願っているのですが、なかなかそうもいかず、私自身、稽古時間の不足と稽古相手の技量不足に悩んでいます。

門弟達には一日も早く私の技量に追いついてもらい、毎回互いに冷や汗をかくほどの凄みある稽古が出来ればと、また、無雙直傳英信流を改名して誕生させた修心流居合術兵法の名が、後世に残ることを願っています。

刀 肥前國忠吉(偽銘) ~居合や試斬等、武用刀に最適~

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刀 肥前國忠吉(偽銘) ~居合や試斬等、武用刀に最適~

http://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/katana/516/00.html

 

肥前國忠吉銘に関しましては、お写真をご覧頂ければお判り頂けます通り、申すまでも無く偽銘でございます。しかしながら板目肌柾流れの地鉄に、匂口明るい数珠刃仕立の互ノ目を焼き、太い足が頻りに入り、横手のところで互ノ目を一つ焼いている点、反り浅目の体配から、虎徹を連想させる出来口です。

反り浅目の寛文新刀体配の刀は、刃味鋭いこともさることながら、初心者にも扱い易い手持ちバランスですので、抜付等の片手操作も疲れを感じさせません。

忠吉銘はご愛嬌と受け取っていただき、手持ちバランス最上の無銘刀としてお求め下さい。拵を誂えて、居合や試斬稽古等のお供にどうぞ。

裸身重量680グラム。

刀 無銘(二尺三寸八分六厘) ~試斬に最適~

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刀 無銘(二尺三寸八分六厘)

http://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/katana/515/00.html

 

身幅広めで先重ねは身幅の割りに薄めで程好い反りの造り込みで手持ちバランスも良い。
巧みに纏められた地鉄に、砂流や金筋が随所に現れた互ノ目丁子乱れを湾れ調に焼き上げており、観賞刀としても申し分ない出来口で、経年による薄っすらとした錆が見られる所もありますが、現状でも地刃共にご観賞頂ける状態です。刃に粘りありそうな雰囲気があり、試斬稽古などにもお薦めの一刀です。

裸身重量838グラム。

修心流居合術兵法 ~その名を名乗らず~

修心流居合術兵法

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未だ知名度が低い修心流居合術兵法。

元々無雙直傳英信流を修業し、一時は無雙直傳英信流町井派と名乗っていましたので、修心流居合術兵法も系譜を大層に語るなら、「室町時代から続く流派です」と嘯くこともできますが、僕は肩書きや系譜と言ったものに興味がないので、修心流居合術兵法は平成に興した新興流派ですと謳っています。

しかし、世の中には肩書きや系譜、歴史、伝統と言ったものに固執し、陶酔する人達もたくさん居られます。

過去にブログで記述したことがあるかわかりませんが、修心流居合術兵法では稽古着に刺繍を施しません。

いえ、厳密に言えば袴に氏名を刺繍するくらいは許可していますが、流派名は初伝位を印可されるまで刺繍することを許さないのです。

これは伝統でもなんでもありません。僕個人の考えによるものです。

技術が拙い者が流派名を名乗ることなどおこがましいと思っているからです。ですから初伝位を境にある程度形も様になってきた者、技術的にも良しと判断された者だけが、修心流居合術兵法の名を刺繍することができるのです。

今現在袴に流派名の刺繍を許されているのは古参門弟の柳原君一人だけですが、彼は刺繍を許可しても流派名の刺繍を未だに行いません。

これが柳原君自身が己に厳しく、「まだまだ修心流居合術兵法の名を刺繍するには早い。」と謙虚な姿勢からのものであれば格好も良いのですが、彼の場合単にケチなだけで、刺繍代が勿体無いからと言うのが現実であったりします(苦笑

最古参で今や主席指導員という立場上、あちこち穴が空いた足袋を履き続けるのもやめて欲しいのですが、「勿体無い。」「まだ履ける。」と、数回履き替えを勧めたのですが未だに穴だらけの足袋で稽古しています。見かねて一足新しい物を進呈しても、古い足袋ばかりを使い続けています。

さて少々話が脱線しましたが、世の中には暴走族の特攻服かと驚く程、稽古着のあちこちに刺繍を施す人がいます。考え方が異なるだけに、僕の眼から見ると、その稽古着は気持ち悪くて仕方がありません。

過去、門弟の数人が試斬大会に出場する際にも、申込用紙には修心流居合術兵法の名前は書くなと言いつけました。流派名を名乗って入賞もできないのなら流派・道場の恥だと心得てくれと話したことがあります。

袴に流派名を刺繍すると言うことは、流派と言う看板を背負うということ。それによって責任が発生するということです。

そう言った僕の自論から、自分の袴に流派名を刺繍できることを目標に、修心流居合術兵法の門弟達は稽古に励んでいます。

続々と紹介される刀剣

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ここのところ毎日のように刀剣の紹介を続けている美術刀剣 刀心WEB

この刀にしよう!

そう思って御購入お申し込みされたお客様が、その後も続々と紹介される刀剣をご覧になって、

あぁ、やっぱりこっちの刀の方が好みかも…

と、御注文を変更されることがございます。

 

今回の記事で何を皆様にお伝えしたいかと言いますと、美術刀剣 刀心WEBで一旦商談中の表記が出ていたものが、次の日には商談中の表記が消え、あたかも商談不成立になったかのように見えてしまうことがあるかと思いますが、お客様が商品である刀を手にとってご覧になり、何かしら欠点があって返品し、商談が破談したという内容ではありません。ということです。

 

何十万もの対価をお支払いになられるお客様からすれば、続々と紹介される刀剣に目移りしてしまうのはいたしかたないこと。

皆様に誤解を与えてもいけませんから、今後は商談中の表記は控えることにいたします。お気に召す品がございました時には、お手数をお掛け致しますが在庫確認のご連絡を頂ければと思います。

勿論直接申し込みのご連絡を頂いても、商談中かどうかはお知らせ致しますので、お気軽にお問い合わせ、お申し込みください。

刀 大磨上無銘(青江長次)

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刀 大磨上無銘(青江長次)

http://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/katana/488/00.html

 

長次は備中青江派最後の刀工で、文和年紀及び応永年紀のものが遺されています。
長次の作風は穏やかな直刃、或いはは華やかな丁子乱れなどを焼き、南北朝前期の青江物とは異なり、逆丁子にならない点に特色を示しています。

本刀は総体に錆に包まれた状態のうぶ出し状態を、当店にて極上研磨、極上はばき、極上白鞘の諸工作を施し、特別保存刀剣鑑定までを受審して、この度世に初めて出る名刀です。

良く練られた地鉄には乱れ映りが立ち、匂口は柔らかく繊細な小乱れを呈して足よく入り、砂流が見られるなど見所多く、美術鑑賞刀として申し分ない名刀です。

裸身重量599グラム。

刀 濃州住兼秀作 昭和四十六年二月吉日

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濃州住兼秀作 昭和四十六年二月吉日

http://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/katana/514/00.html

 

本名中田勇。大正2年8月24日、長野県基礎軍大桑村にて生誕。昭和3年大桑村の尋常小学校を卒業し、高知県安芸市にて十二代川島正秀鍛錬所で徒弟として八年間の鍛錬技術習得後、同12年2月に岐阜県関市に移住し、渡辺兼永の門下で日本刀美濃伝の研究に着手。同12年10月から15年10月まで日本刀鍛錬塾の塾生長になりました。
昭和13年10月にはヒトラーユーゲント来日記念刀の短刀31口を鍛え上げ、ヒットラー、ムッソリーニ両首相にも日本刀を献上。同16年に関刀剣株式会社に入社。優秀な鍛錬技術を認められ、陸軍受命刀工として鎚を振るい、東條英機総理大臣に軍刀を、同32年に天皇・皇后両陛下への献上刀を鍛錬。同38年『兼秀日本刀鍛錬所』を設立して日本刀の鍛錬と研究に専念、人生を日本刀に捧げ、同51年11月22日『関市重要無形文化財』の認定を受け、翌52年3月11日には『岐阜県重要無銘文化財』に指定されるなど、昭和を代表する刀匠として活躍しました。

本刀は昭和46年に鍛えられた兼秀の秀作で、中心仕立も良く纏められ、 小板目肌柾交じり、少しく肌立った地鉄に、ふわりと柔らかい感じの明るく冴えた互ノ目乱れを巧みに焼き、刃中良く沸え、細かな砂流や金筋が随所に見られ、身幅広めの豪壮なる体配は、元陸軍受命刀工に相応しい刃味を発揮してくれることでしょう。
安価居合用真剣として鍛えたものではなく、注文打ちに応じた刀だけあって、地刃の冴えや研磨も良い一刀です。
期間限定特別価格のこの時期に是非お求め下さい。

裸身重量920グラム。