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修心流居合術兵法 修心館 館長 町井勲のブログです。
随時更新していますのでお楽しみください。

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江戸時代の武士に刀を杖のようにする所作はあったのか!? ~天心流兵法の嘘を暴く まとめ~

ビワトー撮影の士

天心流兵法なる江戸柳生分流や宝蔵院流槍術陰派を名乗る団体による誤まった情報の拡散と、既に発表してしまった所作への間違いの指摘に対するこじつけブログ記事に対し、何度かにわけて記してきました天心流で言うところの杖太刀なる所作について、新たに情報提供を頂きましたので、江戸時代の武士の作法を正しく知って頂くためにも、しつこくこのブログで私見を述べさせていただきます。

これまでのブログ内容をご存じない方は、是非併せて下に紹介いたします記事もご拝読下さい。

天心流兵法が発信する誤まった情報を真向から斬る! ~刀は地面に立てるものではない!!~

天心流兵法が発信する誤まった情報を真向から斬る! ~刀は地面に立てるものではない!! 2 ~

天心流兵法が発信する誤まった情報を真向から斬る! ~刀は地面に立てるものではない!! 3 ~

天心流兵法が発信する誤まった情報を真向から斬る! ~刀は地面に立てるものではない!! 4 ~

 

さて、天心流兵法なる江戸柳生・宝蔵院流を名乗る系譜捏造団体が頑なとして過ちを認めない“杖太刀”なる所作について、天心流は以下のように発言しています。

「杖太刀とは、脱刀時(刀を帯から外した時)に刀を立てる所作を指す天心流の用語です。こうした所作は天心流だけに存在するものではありません。たくさんの写真や絵図により、武家社会にそうした所作があった事実が明示されています。」

そして上記一文と共に数枚の幕末に撮影された士の写真を例に挙げているのです。

ここで疑問が一つ登場します。

自ら「絵図により」と記しているにも関わらず、例として挙げているのは幕末に撮影されたポーズづけの写真ばかりであって、肝心なる絵図が一つも示されていないことです。

以前、天心流が示した絵図については、私がこのブログにおいて“武士ではなくかぶき踊りの役者であり、描かれているのは演目の一場面である”と事実を述べました。それ以降は確固たる絵図が見当たらないのでしょう。上述の通り幕末に撮影されたポーズづけの写真ばかりを明示と言って紹介しています。

さて、今回有志の方より頂戴しました幕末や明治に撮影されたであろう写真を紹介させていただきますが、ここに面白い事実が見えてくるのです。

 

ご紹介しますのは「蘇る幕末」と言う朝日新聞社の出版による本に掲載されている写真ですが、元となっている写真の数々は、オランダのライデン博物館に保管されている、幕末の日本を写した膨大な写真の一部です。
もう一冊の本から紹介する写真は「写された幕末」に掲載されているもので、ビワトーという慶応年間に横浜に在住していた写真師によって写されたものです。尚、ビワトーの写真アルバムは、別の横浜居留の外国人から横浜市に寄贈されました。

オランダのライデン博物館の写真はヨーロッパの人々へ、東洋の日本という全く文化の異なる国について知らせるための写真で、ポーズをとった物が多く、こちらは外国人に分かり易く、ことごとく刀が目立つ位置に持ってこられ、鞘尻や鐺が地面についているものばかりです。
これは明らかに外国人写真家の求めに応じたポーズです。
当時の写真技術ですから息を止めてぶれないようにしたでしょうし、刀が腰に帯びられていては左右に揺れてぶれてしまうので下に付けたがったのかも知れませんし、西洋の軍人がサーベルを自分の前や横に立て置く風習になぞらえ、写真に写る武士にもそれと同じポーズをとらせたものと想像されます。

一方、スナップの多いビワトーの写真では刀を地につけて立てている写真は一枚もありません。
最後のページに「江戸の残侠」という題名で博打打ちが文中では長脇指とされる刀を抜き身で地面に突き立てている写真があるのみです。自然なポーズを求めたところ、粋がった博打打ちが

「抜き身で地に突き立てる様なポーズで撮ったらかっこいいんじゃぁねぇの?」

と自ら鞘を払ったのか、はたまたビワトーがなんとなく

「博打打チラノ 気性ノ荒サヲ 表現シタイノデ 抜キ身デ ナニカ カッコイイポーズデ 決メテ モラエマセンカ?」

と、ポーズをとらせたのかは今となっては解りませんが、こうした複数の資料の比較で真実(天心流がこじつける虚実)が見えきますし、古伝と言いながら外国人のセンスでとらせたポーズを形に取り入れているのですから、天心流が捏造流派であると自身で顔に書いていると言っても過言ではないでしょう。

根付の世界でも同じ様な事があり、若い愛好家が外国人の間違った論文を鵜呑みにして、捏造された文化史を信じ込んでしまった事例があります。

おかしいと思ったこと、疑問に思ったことは、情報を鵜呑みにされず、自身で調べてみるのもまた一興かと思います。勿論これは私のブログ記事にも言えることで、私が発する様々な情報にも間違いが含まれている可能性も否定できません。「調べる」と言う習慣をこの機会に是非身につけられてみてはいかがでしょうか。

尚、外国人カメラマンのポーズづけによって始まった、刀の鞘尻や鐺を地につけるポーズは、自然と日本人カメラマンや被写体である個人にも擦り込みで受け継がれたものと私は考えております。

では写真の数々を御紹介致します。

ライデン撮影の士写真

ライデン撮影 平常指(へいじょうざし=普段腰に指している刀)ではなく、両者共に陣太刀を手にしているので、明らかに刀を選んでのポーズづけであることがわかります。

ライデン撮影の士写真

ライデン撮影 こちらも右の士は金具の位置をずらすと太刀として吊り下げることができるタイプの拵をわざわざ選んで撮影に臨んでいると思われる。

ライデン撮影の士写真

ライデン撮影 中央の人物だけが刀を手にしており、他の者は脇指のみ。中央に写る人物がこの写真の主であることがポーズづけによって示されている。

ライデン撮影の士写真

ライデン撮影 髪型から察するに、明治に入ってから撮影されたものではなかろうか。

ライデン撮影の士写真

ライデン撮影 両者共に背景のスタジオセットは同じ。刀の位置もほぼ同じで、ポーズづけによるものだと簡単に推測できる。

ライデン撮影の士写真

ライデン撮影 屋外のように見えて、実はスタジオセットである。これもポーズづけされている。

ライデン撮影の士写真

ライデン撮影 京都太秦映画村にはこのようなポーズで撮影された素人の写真が、時代劇扮装写真館に多々飾られている(笑

 

 

ビワトー撮影の士

一方、こちらはビワトーが自然なポーズで撮影した士の写真。脇指のみを帯びる者は、大刀を撮影現場の脇にある刀掛にでもかけているのであろう。両刀を指している者は腰から刀を外さず、二刀指のままである。

ビワトー撮影の博打打ち

長脇指には見えないですし、髪形などから見ても、明治になってからのものではなかろうか? 左端の人物は仕込杖らしきものを、中央で座する者は刀(長脇指?)を背負い、日本国旗(日の丸)を手にしています。

国旗としての日の丸は、幕末に船舶用の国籍標識(惣船印)として導入され、その後に船舶用に限らず国籍を示す旗として一般化したとされますので、ビトワー撮影のこの博打打ちの写真は、日本国旗を手にしていることから、ライデンと同じように海外向けにポーズづけして撮影した可能性が否めない。

藤安将平作 大般若長光写太刀

長光 マサヒラ作(大般若長光写)
– Nagamitsu Masahira –
東京国立博物館所蔵の国宝『大般若長光』の写しである。
大般若長光は備前長光作の太刀で、室町期としては破格の代価といえる永楽銭で六百貫と評価されたことから、大般若経六百巻に因み、「大般若」の異名を得た。
元、室町将軍義輝所持で、小虎之太刀とも呼ばれていたが、義輝が永禄8年(1565)5月19日、松永久秀と三好三人衆に襲われて敗死した際、三好下野守政生入道謙斎(一説に三好長慶とも)の有に帰した。
後、織田信長の所持となったのは、信長の援助で京都に帰還した将軍義昭を、永禄12年(1569)正月、謙斎ら三好一族が攻撃し、かえって撃破された以後のことのはずである。
信長は元亀元年(1570)6月、姉川合戦の際、徳川家康の来援に謝して、大般若長光を家康に贈った。奥平信昌は父:貞能と共に、元亀元年(1570)6月、江州姉川の戦に徳川家康軍として参戦したが、やがて武田信玄側について、弟の仙丸を人質に出していた。信玄が天正元年(1573)4月急死すると、家康は7月、菅沼正貞の守る長篠城攻撃を始めるとともに、旧臣である奥平信昌と、14歳の長女:亀姫との婚約を条件にして家康方に寝返らせた。弟の仙丸は磔刑になるという悲運に泣いたが、信昌は長篠城主に抜擢されるという好運に恵まれた。
家康は長篠合戦における奥平信昌の長篠城固守の功を賞して、元亀4年(1576)7月、自らの娘の亀姫を信昌に入輿させると共に、遠江(愛知県)の領地の加増、及び大般若長光を信昌に与え奥平家の礎ができた。
大般若長光は、上野国吉井(群馬県多野郡吉井町)、二十万石の藩主:菅沼定利の養子となった信昌の三男:奥平摂津守忠政が継承し、その嫡子:奥平飛騨守忠隆に伝わっていたが、忠隆が25歳で早世し、その子:右宗も4歳で幼死したので菅沼家は断絶した。そのため大般若長光は、忠政の弟:松平下総守忠明が譲り受けることになった。忠明の母は家康の長女でもあるので、家康の養子となり松平の姓を与えられ、晩年には十八万石、播州姫路(兵庫県)の藩主となり、その子孫は武州忍(埼玉県行田市)藩主として明治を迎えた。
その後、大般若長光は大正初年同家を出て、山下汽船の山下亀三郎の手に渡り、大正12年の関東大震災で蔵が倒壊して下敷きになり曲がってしまったが、研師:吉川恒次郎の手によって直された。
大正13年3月、山下家売立の際出品され、一万二千円まで値がついたが親引きとなり、後、伊東巳代治伯爵の手に移り、昭和6年12月14日に重要文化財(旧国宝)に指定された。
伊東伯爵の死後、1939年(昭和14年)に旧帝室博物館(現東京国立博物館)に買い上げられることとなり、その際に提示された買上価格である6万円は話題となった。1941年(昭和16年)、遺族からに正式に帝室博物館に譲渡され、戦後も引き続き東京国立博物館で所蔵されている。1951年(昭和26年)6月9日に文化財保護法に基づく国宝(新国宝)に指定され、現在は国有で東京国立博物館が蔵する。
長船長光は、鎌倉時代の刀工としては比較的に多作であり、数多くの名刀を世に生みだしている。長光の名作中にあっても「大般若長光」と「津田遠江長光」はその筆頭であり双璧と並び称されている。二振ともさながら父:光忠に見紛う堂々たる風格を表し、華やかな丁子主調の乱れが見事であって甲乙つけ難いが、「津田遠江長光」が無類の健全さを持しているものの磨上げられて本来の踏張りのある太刀姿がやや失われているのに対し、「大般若長光」は生ぶ茎で猪首切先の雄渾な太刀姿を保って貫禄十分といわれている。
国宝に指定される刀剣の総数は122振にのぼり、相州正宗が最も多く9振となり、それに次いで長船長光が6振を数えるが、国宝に指定される6振の中でも「大般若長光」「津田遠江長光」「三所権現長光」「谷干城遺愛」の4振が長船長光の代表作であり、「四大長光」「長光四名作」として広く知られている。
(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)
大般若長光の本歌は、刃長73.6センチメートル。反り3.0センチメートル。造り込みは鎬造、庵棟。刀姿は腰反り高く、切先は中切先詰まり猪首となる。地鉄は小板目肌が詰み、地沸細かについて乱映りが立ち、刃文は高低のある丁子乱を主体に大丁子、互の目交じり、足・葉よく入り、ところどころ金筋入り、総体に匂口冴える。帽子は乱れ込んで先は小丸に返る。彫物は表裏に棒樋を丸止めとする。茎は生ぶで、先を僅かに切る。鑢目は勝手下り。目釘孔2つ。佩表に「長光」二字銘がある。
この太刀は、古刀再現第一人者である現代の名工、藤安将平による大般若長光写しの作品。姿や法量を本歌に似せ、掲載写真では肌立って見えるも、肉眼で見るに、地鉄は小板目よく練れて詰み、地沸細かに付いて淡く映り立ち、刃文は匂口明るく冴えた高低ある丁子乱れを主体に、大丁字に互ノ目を交え、刃中には足や葉、金筋が入り、鋩子も本歌同様に乱れ込んで先小丸に返っている。
現代刀匠の多くが、土取りに於いて押形からデッサン方式で刃文構成を人工的に焼くのに対し、将平刀匠は地鉄の練り方、そして自然な土置きによって、自らの技術と炎と水によって大般若長光らしい刃文を焼き上げている。故に刃取り構成を本歌と同じ形状に拘る方の眼から見れば写しとして物足りなさを感じるかもしれませんが、刀剣趣味玄人の方の眼からすれば、大般若長光の影打の太刀か?と識者を唸らせる出来口です。
将平の作品には必ずと言って良い程鍛錬疵が現れますが、本作は殆ど鍛錬疵が無いと言って過言ではない力作!!
当店の写真撮影技術では、本太刀の出来の良さを存分に表現しきれないので、是非とも現物を手にとり、その出来、再現の高さをまじまじと実感頂きたい優品です。
裸身重量700グラム。
各種クレジットカード、ショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。

刀 無銘(新刀寿命) 二尺四寸三分 町井勲監修武用拵新調済

無銘(新刀寿命)
– Mumei(Shinto Toshinaga) –
https://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/katana/1662/00.html

7月に公演させていただきました、HIH国際塾での動画を御紹介致します。

HIH国際塾よりご依頼頂き、7月に行いました公開演武と講義の様子を御紹介します。

この動画を見れば、日本刀のことや士(さむらい)のことがよくおわかりいただけるかと思います。

56分程の動画になりますが、どうぞ始めから最後まで御覧ください。

特に『士』と『侍』の違いや、当時の武士がどのようにして戦っていたのか等、今広く誤認されている常識が覆るかと思います。

下記画像をクリックすると動画をご覧になれます。

短刀 (菊紋)河内守源廣信

8/18に開催した第一回「刀剣取扱作法講習会並びに刀剣鑑賞会」にご参加下さった方からのお手紙

8月18日(日)に刀心大阪にて開催致しました、第一回「刀剣取扱作法講習会並びに刀剣鑑賞会」にご参加下さった方からのお手紙を御紹介させていただきます。
とても嬉しいご感想を書き綴って下さいました。私を含め、スタッフ一同励みになります。ありがとうございます。

 

 

美術刀剣 刀心 町井さま 皆様

ご多忙中失礼致します。
本日、講習会に参加させて頂きましたAと申します。
本日は誠に有難うございました。
町井先生の全てに理由をつけて教えてくださるご教示、丁寧な図解や一つ一つのお言葉、皆様のご経験に基づくお話、拝見・触れさせて頂いた個性豊かな刀剣から、今まで知らなかった多くの事柄を学ばせて頂きました。
手入作法講習用にご用意頂いた脇指は、こんなにも鞘からの抜き差し、柄の脱着が固い白鞘があること、洋鉄故の整った様子を体現する姿、その装いで彫られた銘と、数々の衝撃を受けた一振りになりました。
波平行安の「実戦刀の姿」も圧巻でした。映りの棟側の強度を上げているという機能の一助も伺えたように感じます。今後は傷を見たら周辺も注意深く観察してみようと思います。
直秀は帽子の中の刃文が白熱灯にかざさなくても判然と見えること、そしてよく研がれた刀を触れるというかけがえの無い体験をさせて頂きましたこと、感動しました。
それらを拝見した後の島田義助で、肌立つ地鉄に沸立つ刃文と、相州伝の介在物あり玉鋼の特徴を実感できた気がします。個人的に相州伝の肌が好きなので、拝見できて嬉しい気持ちもありました。
鎌倉・末相州・江戸・洋鉄の肌目を一挙に比較できた経験も印象に残りました。「介在物が少なくなる、なくなること」でどのような変化が起きるかの一端を体感させて頂けました。
私の愛刀の目釘に関しまして、ご査収並びにご指導を頂き誠に有難うございました。
ズレていた故の硬さ、そのズレを直す方法をご教示頂けて本当に助かり、勉強になりました。
お陰様で、帰宅後に目釘を抜き、茎を見ること、および刀身全体の手入れ、そしてその後、元通りに戻す(組む)工程を行うことができました。
本当に有難うございます。
この一振りは(鞘の抜き差しや柄の脱着に)力を込める必要はございませんでしたが、ご教示頂きました抜き方も実践してみました。また、ついに茎の手入れができたので、手に付着した油での手入れも行ってみました。
ついに茎と、根本の刃文や肌を見られて感無量でした。銘に裏の腰樋痕、根本の小さな金筋や板目、刃文の立ち上がりを見て、また、全身を手入れして、よりこの一振りの魅力に触れ、より一層好きになりました。
改めまして、お譲り頂きましたことにもお礼申し上げます。
刀心さんにご縁を頂けましたこと、改めて大変幸いに思いました。
今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。
尚、ご多忙の折、お返事に関しましてはお気遣いなさらないで頂けましたら幸いです。
長々と大変申し訳ございません。

第一回、刀剣取扱作法講習会、鑑賞会の様子