9月28日の夕方、NHKの番組の中で、大阪市福島区にOPENした?居合道場の様子が紹介されていたらしく、たまたまそれを観ていた私の親が即電話をかけてきました。
生憎と来客中だったので、今すぐテレビを見てみろという親の言葉に「来客中だから無理」と断ったが、昨日電話で放送されていた内容を聞いた。
外国人や素人相手に居合体験?をさせるもので、結構流行っているらしいとのこと。「お前もやってみたらどうだ?」と親は言うが、速攻で
「無理!! 絶対に無理!!」
と断った。親は商売、金を稼ぐことが大切なのだから、割り切ることはできないのか?と粘るように私に言うが、出来ないものは出来ない。
誰とも知らぬ他人に己の刀を貸すなんてこと、仮に己の刀ではなく、体験用に用意した刀であったとしても、私には素人に安易に刀を貸すなんてことは到底できない。
「お前は考えが古すぎる。刀に対して魂込めすぎ。」
と親は言うが、このスタンスを変える気は今のところ微塵もない。
そもそも素人相手に試斬体験会などを行うことに対して、私は頑ななまでの否定派なのだ。
体験会を皮切りに、色んな人に刀や居合に興味を持ってもらえたらいいじゃないか?
との意見もあるだろうが、試斬体験って、単に刀を物を切るための刃物としか見ていないってことじゃないの??
そんなに気易く刀に触れさせていいの??
武術ってそんなもんじゃないでしょう??
と私は思うのです。
数千円支払えば刀を貸してくれて畳表を切ることができる。そりゃぁ体験してみたい人にはありがたいことかもしれないが…
私はこう思うのです。
刀は単なる刃物ではない。武士の魂とまで言われ、神器にまで昇華した神聖なものである。
素人が遊び半分で手にするものではない。
刀を手にするには刀への熱い想いが必要不可欠である。
他人の刀を借りて使うのではなく、己が汗水流して苦労して得た金で買ってこそ、刀はその人の守り刀になるのではないだろうか。(親から子へ贈呈される刀等も含む)
試し切りをするにしても、いきなり切るのではなく、しっかりと修業を重ねた上ではじめて行うものである。
貧乏だった私は今ほど刀を所有していませんでした。中学を卒業してアルバイトができるようになり、それで貯めた金で買った短刀は、それこそ安物でしたが私には価値在る一刀でした。
二十歳になり、骨董市で買い求めた昭和刀(半鍛錬軍刀)ですら、私には名刀と同じ価値がありました。
苦労して稼いだ金で手に入れたたった一振の刀、二振目、三振目と買う余裕は無く、それが故に一振の刀を如何に壊さず、長く使い続けることができるか? そればかりを念頭に修業してきたからこそ、今の技術を身につけることができたのです。
斬り損じた時にはヘラヘラ笑うのではなく、まずは刀が曲がってはいないか? そればかりを心配し、そうして刀によって技術を育んでもらったのです。
今後私が刀にも触れたことがない素人に、数千円で試斬体験をさせることがあったとしたら、意味のない試斬体験には絶対にしない。その道のプロが使うのではなく、一般の素人による滅茶苦茶な使い方にどれ程耐えることができるのか?を検証すべく、藤安刀匠、中西刀匠の荒試し試作品に限って行うことだろう。
これは素人を楽しませるために行う試斬会ではなく、刀の強度を実検するための試斬会。これなら意味があり、非常に有意義なことと思う。
藤安将平刀匠と数年前話していてこのように言われました。
「私の作品を町井さんではなく、刀の使い方も知らないド素人にバンバン使ってもらいたい。そうすることで私が鍛えた刀の真価が見えると思う。戦国時代、腕の立つ武将はほんの一握りであって、殆どが普段は農作業をしているような足軽でしょう? 武術や剣術に長けていない素人が使っても折れない強い刀でなければ本当の日本刀とは言えないと思うんですよね。だから私が鍛えた刀で、ド素人が無茶な使い方をした結果を是非知りたいです。」
将平師のこの言葉に私は「なるほど」と思いました。刀を手にして戦う者は修練を重ねてきた手練とは限らない。誰が使っても折れない刀… まさに理想的です。
将平師は腕が良いとは言え、時折己が満足いかない不出来の作品が出来ることがあります。
「疵だらけなので消費してください。」
そう手紙が添えられ、荒試し用としてこれまでにも数振御提供頂いたことがありますが、次回そのような刀が届いた時には、一度ド素人ばかりを募り、刀の使い方、斬り方を一切教えることなく、好き勝手に切り込んでみてください的な試斬会を開催してみたいと思う。素人を楽しませるための巷の試斬会ではなく、荒試しの一環としての試斬会。
このブログを読まれて興味を持たれた方、また、自身が鍛えた刀の荒試しを希望される現代刀匠の方、お気軽に御連絡下さればと思います。
さて、話を元に戻しますが、私は今後も自身の刀を他人に貸すこと、観光客や素人に試斬体験させること、遊びやスポーツ感覚で試斬をしたいと思う人を相手の試斬会は行わない。
刀を壊すことで私個人が金を儲けることよりも、人と違って数百年生きることができる刀を健全な姿で後世に残すために、私自身が損な生き方をする方を選びたい。
最後にもう一言。
時折気軽に「町井さん試斬教えて下さいよ。」と言われる方がおられますが、私は己の門弟以外に技術を教える気持ちは全く無い。武術ってそう言うものじゃないでしょうか?
古臭いかもしれませんが、然るべき起請文を提出してもらい、師弟関係を結び、武術修業を基礎からしっかりと積んだ門弟にしか試斬指導する気は無い。気難しい偏屈に映るかもしれませんが、人に技術を教わると言うのは友達感覚で行われるものではなく、師に自分を預け、礼を尽くした上でその技術を修業、伝授してもらう… これ、昔は当たり前のことなんですよ。
ですから修心流居合術兵法の規則にもこのような一文があります。
日頃の定例稽古に参加することなく、試斬稽古にのみ参加することを認めず。
今の日本、当たり前が当たり前でなくなりつつあることは非常に寂しく、大切な伝統文化の損失だと思います。
文章を読ませていただき変わり行く時代のなかで如何にして伝統を守るのかと改めて考えさせられます。
例えば田弥流秘術居合術で有名な黒田鉄山氏の祖父である泰治鉄心斎氏は「居合は剣術中の精髄」と言い、曾祖父の正郡氏の時代は居合は剣術、柔術で目録を許され居合の素質有りと認められた者のみしか学ぶことができなかったと鉄山氏本人が書いた本で読みました。
そのくらい素人ではわからぬ居合を素人に真剣(素人に真剣は危ない)でやらせるのは確かに間違いだと思います。
しかし同時に移り変わり行く時代の中で日本のあちこちでその流れに対応できずに消滅、あるいは消滅しかけている伝統が山ほどあるでしょう。
それを考えると如何にして伝統の中身を変えずに今の時代に合わせるかという伝統のテーマが見えてきます。
口で言うほど簡単なことではないのですが偶然このコメントを拝読したのでついつい偉そうにしゃべってしまいました。頑張って伝統を守って下さい。失礼いたします。