私が「居合の真理は一つ」と断言する理由
先日、私が瀧落の形動画を掲載したところ、必要以上に上から目線で、礼を欠いたコメントが寄せられました。その態度に対して私が反論すると、今度は「謙虚さがない」「学ぶ姿勢がない」といった批判を受けました。
しかし、そう判断する前に、一つだけ考えていただきたいことがあります。
真摯な技術論と、まるで自分が相手を指導する立場にでもあるかのように上から物を言うことは、まったく別のものです。
私は一つの居合流派を率いる立場にあり、何十年もの人生を日本剣術の研究、修練、検証、そして伝承に費やしてきました。私の技術や活動は世界中で紹介されてきました。だからといって、私が批判を受け付けないという意味ではありませんし、誰もが私に同意しなければならないとも思っていません。知識と経験を持ち、互いへの敬意をもって行われる真剣な議論であれば歓迎します。
私が問題にしているのは、私と稽古をしたことも、私の技術を直接体験したこともなく、私が何を原理としてその技を行っているのかすら理解しないまま、一修練者が他流の長に対して、まるで教え諭す立場にあるかのような態度で語ることです。
これが流派を率いる者同士、あるいは経験を積んだ指導者同士が、技術について真剣に意見を交わすのであれば話はまったく別です。そのような議論には大いに価値があります。
しかし、武道とは技術だけではありません。
まず礼に始まります。
居合について語る前に、伝統や伝承、他人の技術の正誤を語る前に、まず一人の武道家として相手にどう接するべきかを学ぶべきです。
「謙虚さ」は、批判される側だけに求められるものではありません。批判する側にも同じように必要なものです。
私は異なる意見を恐れていません。
しかし、「助言」という形を借りた無礼まで受け入れるつもりはありません。
私の考えや技術を否定的に捉える方がいることは理解しています。人は誰しも、すべての人から理解され、受け入れられるわけではありません。
ただ、なぜ私がこれほど強い言葉で居合について語るのか。その背景を知らなければ、単なる傲慢な人間に見えるのかもしれません。
おそらく、私の反応を理解できない方の中には、私が現在の考えに至るまで、どのような道を歩いてきたのかをご存じない方もいるのでしょう。
そこで少し、私が歩んできた道についてお話ししたいと思います。
私は5歳の頃から日本刀に興味を持ち、7歳から剣道を始め、剣道形も学びました。中学生では剣道部に所属しましたが、途中から部活動には顔を出さなくなり、ついには名簿から名前まで消されました。それでも試合になると選手として呼ばれる。今となっては笑い話です。
19歳の頃、それまで集めることに夢中だった日本刀を「どうせなら本当に使えるようになりたい」と考え、無雙直傳英信流の吉岡早龍先生に師事しました。24歳で五段を取得しましたが、その頃から、私の中に大きな疑問が生まれ始めました。
「自分が習っているこの技は、本当に武術として使えるのだろうか?」
特に納得できなかったのが、抜付の一太刀について「これは牽制であり、初太刀で相手を斃すものではない」という説明でした。
私は、それならば実際に検証してみようと考えました。
そこから一年間、ひたすら畳表を相手に、斬撃力を備えた抜付を研究しました。
教えてくれる人はいません。
その頃の私にとって最大の師は、自分が使う一振の日本刀そのものでした。
入射角、刃筋、身体の使い方、力が伝わる方向。さまざまな条件を変えながら、どうすれば無駄なく刀に力を伝えられるのかを繰り返し検証しました。
そして私は、当時自分が学んでいた居合のあり方と、自分が求める「術」としての居合との間に大きな隔たりがあると考えるようになりました。
道場を離れ、当初は「無双直伝英信流町井派」を名乗りました。しかし英信流を名乗る以上、私が検証によって辿り着いた抜付や、私自身は「改変」ではなく「本来あるべき姿への復元」と考えていた形についても、既存の枠組みとの整合性を求められます。
それでは、自分が追究したい居合を突き詰めることができない。
そう考え、英信流の名を離れ、「修心流居合術兵法」として自分の研究と稽古を続ける道を選びました。
その後、ありがたいことにテレビ番組などから声をかけていただくようになり、さまざまな課題に挑戦しました。
時速1440キロで飛来するピンポン球、時速350キロで飛来する直径6ミリのBB弾、鉄パイプや鉄板、舞い落ちる木の葉、細い蕎麦、そして最近では岩まで。
振り返ってみれば、本当にさまざまなものを斬ってきました。
しかし、テレビで紹介されるのはどうしても「何かを斬る町井勲」です。
そのため、私を「ただ物を斬るのが得意な人」と考えている方も少なくないでしょう。
そういう方にこそ、一度私の道場で普段どのような稽古をしているのかを見ていただきたいと思っています。
私が教えているのは「斬ること」ではありません
私の道場では、ひたすら刀や木刀を振りかぶる稽古をさせます。
「振り下ろす」のではありません。
振りかぶるのです。
多くの人は刀を振り下ろすことばかりに意識を向けます。しかし、刀を無駄なく扱うためには身体全体の緩みが必要であり、そのためにはまず正しい振りかぶりを身につけなければならない、というのが私の考えです。
特に肘をどのように緩めるか。
一見すると非常に地味な身体操作ですが、毎日数時間稽古したとしても、本当に身につけるには8年、10年という時間が必要になるでしょう。
私が追究しているのは、見栄えのする形ではありません。
なぜ、その動きでなければならないのか。
なぜ、その身体操作が必要なのか。
相手から実際に力を加えられても、その原理は成立するのか。
そこを徹底的に検証します。
だから私にとって形とは、単に仮想敵を斬る芝居ではありません。
刀という極めて精密な「物差し」を使って、一人でも身体操作を反復して磨くことのできる稽古体系なのです。
「瀧落」を例にすると分かりやすい
先日公開した「瀧落」の動画についても、
「目付けがおかしい」
「無駄な所作がある」
と感じた方がいるでしょう。
既存の現代居合の形を基準として見れば、そう見えることは理解できます。
しかし私は、そこにこそ問題があると考えています。
たとえば岩田憲一氏の居合道教本では、瀧落について「敵が己の鞘を握らんとする気配を感じ……」という趣旨の説明がなされています。
私は、この「気配」という説明そのものを疑いました。
実際に相手がこちらの抜刀を妨害しようとするなら、わざわざ気配を知らせながら近づいてくるでしょうか。
人間の後頭部に目はありません。
ならば「後ろの敵を察知した」という物語から動きを考えるのではなく、実際に鞘を掴まれ、こちらの動きを封じられたところから、身体をどう使えば状況を打開できるのかを検証すべきではないか。
私はそこから瀧落を考えます。
実際に相手に掴ませる。
力を加えさせる。
動きを封じさせる。
その条件下でも成立する身体操作を探る。
そうして検証していくと、形の中に残された一見不可解な動きが、驚くほど緻密で合理的なものとしてつながっていくのです。
だから私は、**「真理は一つである」**と考えています。
これは「技の形が一種類しかない」という意味ではありません。
相手の握り方、位置、角度、力の方向が変われば、技の現れ方はいくらでも変わります。私はそれを「一つの技に360通りある」と表現しています。
しかし、その360通りを成立させている身体原理そのものは一つだということです。
「いろいろな解釈があってよい」で終わらせたくない
伝統武術について語ると、
「伝承によって違いがある」
「それぞれの解釈を尊重すればよい」
という言葉をよく耳にします。
もちろん、異なる伝承が存在するという事実そのものは尊重されるべきです。
しかし私は、違いが存在することと、そのすべてが武術的に正しいことは別問題だと考えています。
実際に相手から力を加えてもらい、その技が成立するのか。
身体構造として合理的なのか。
刀という道具の性質に適っているのか。
私はそこを検証したい。
伝承だから正しいとも、古いから正しいとも、私自身が言ったから正しいとも思っていません。
成立するかどうかを身体で確かめる。
それが私の研究姿勢です。
居合は「刀を抜いて斬ること」だけではない
私が考える居合の本質は、刀の抜き差しや斬撃だけではありません。
相手に身体を押さえられた状態でも自由に動けるか。相手の力と衝突せず、その軸を崩し、自分が優位に動ける状態を作れるか。
そうした身体操作まで含めて居合術だと考えています。
私の道場では、木刀を中段・正眼に構えた状態で右手を押さえられても振りかぶれるか、といった稽古も行います。
正座から立ち上がる動作についても同じです。
単に上へ立ち上がればよいのではありません。外部から動きを妨害されても身体を破綻させず、相手との関係の中で自分が動ける状態を作れるか。
形の一つ一つを、そのレベルまで掘り下げて考えます。
だから私は、自分の行っているものを単なる「現代居合」とは考えていません。
私は、英信流の形に残された身体原理をもう一度掘り起こし、長い伝承の過程で意味が分からなくなってしまった動作を、実際に成立する「術」として再検証する仕事をしているつもりです。
私は謙虚に見られるために稽古してきたのではありません
私はもう53歳です。
人生の残された時間が無限ではないことも分かっています。
だからこそ、私は自分が長年の研究と実践の中で掴んだものを、曖昧な言葉で濁したくありません。
間違っていると思うものには、間違っていると言います。
それによって「傲慢だ」「謙虚さがない」と言われることもあるでしょう。
構いません。
ただし、私は「自分の言うことを無条件に信じてほしい」と言っているのではありません。
むしろ逆です。
疑うなら、実際に試してほしい。
私の技術に疑問があるなら、動画のコメント欄だけで結論を出すのではなく、道場に来て、私が何を教え、何を検証し、どのような身体操作を「居合術」と呼んでいるのかを実際に見てほしい。
その上で判断していただければいい。
私自身も、誰かに認めてもらうためにこの道を歩んできたわけではありません。
私が求めているのは称賛でも、肩書でも、多数派からの承認でもない。
刀を通して、人間の身体をどこまで合理的に使うことができるのか。
そして、かつて「術」であった居合の中に何が残されているのか。
それを生涯かけて追究したいだけです。
世界中の居合修練者から反発を受けることになったとしても、私はこれからも自分が「本来の居合術」だと信じるものを発信し続けます。
そして、私の考えや技術に何かを感じ、「学びたい」と門を叩いてくれる人には、私がこれまで何十年もの試行錯誤の中で得てきた知識と技術を、出し惜しみすることなく伝えていきます。
理解してくれる人が百人いる必要はありません。
一人でも、本気で術を求める人に正しく伝わればいい。
その積み重ねの先に、私が目指している**「術としての居合の復興」**があると信じています。

































