肥前國忠孝作 昭和五十年五月日


肥前國忠孝作 昭和五十年五月日
– Hizen no kuni Tadataka-
https://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/katana/1300/00.html

本名、井上慶昭。明治37年生まれ。昭和10年より父である井上勘三郎國包より作刀を学び、昭和16年堀井俊秀系の田口正次に入門。昭和18年小倉陸軍工廠受命刀匠となり、戦中は軍刀の鍛錬に従事。戦後は東松浦郡肥前町(現唐津市肥前町)にて作刀しました。

この刀は元先の幅差さほど目立たず、先幅広めの体配。地鉄は小板目が大きく柾流れ、どちらかと言えば柾目に小板目が交じると言った肌合い。刃文は湾れで刃縁や刃中、肌に絡んで渦巻き状の刃や金筋・砂流を顕著に見せ、鋩子は表裏共にすぐ調に丸く返る。
元先の幅差が少ないため、見た目重そうに感じますが、鞘を払って構えてみると、見た目とは裏腹に手元重心でバランスが良く、試斬の稽古に適した一刀です。

附属の拵は鞘が傷んでいたため、当店にて簡易武用鞘を新調しました。柄や鐔は全て時代物の金具が用いられており、無骨ながらも上品さを感じさせます。
裸身重量805グラム。  拵に納めて鞘を払った重量1,054グラム。

各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。

剣心将大作 令和二年十二月日


剣心将大作 令和二年十二月日
– Kenshin Masahiro –
https://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/katana/1299/00.html

町井勲プロデュースの居合、試斬稽古のために鍛えた一振です。
元先の差が程好く開いたスラリとした姿。バランスは刀身中央から手元にかけての重心でバランス良く、片手操作でも扱い易い造り込みになっています。
元先の幅差程好く開き、切先延びごころ。地鉄よく地沸付いて無地風となり精美。刃文は広直刃調に僅かに広狭を持たせ、所々に互ノ目を焼き、刃中には足や葉が頻りに入って互ノ目や互ノ目丁字を成し、鋩子は表裏共に直ぐに丸く返っています。
附属の拵は構図が良い現代金具を用いた簡易武用拵で、鞘の塗にもこだわりました。長期に渡って存分にお稽古にお使い頂けますので、この機会に店主町井勲監修による武用刀を是非御入手下さい。

裸身重量805グラム。  拵に納めて鞘を払った重量1,029グラム。

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無銘(文珠)- Mumei(Monju) –


無銘(文珠)
– Mumei(Monju) –
 
 
文珠とは江戸初期頃に活躍した紀伊の大和手掻系の刀工一派。初代の手掻包永は、般若の文殊菩薩の剣を鍛えた功により文殊四郎の名を与えられ、それ以降、手掻派は文殊姓を名乗り、本家は代々文殊四郎を襲名したと言われています。
同派からは南紀重國も排出しており、新刀然たる派手な刃文がもてはやされたこの時代に於いて、文珠派は大和伝を墨守した古雅な作品を数多く遺しています。
 
この刀は元先の幅差開き、反り浅く、中切先に結んだ寛文新刀体配で、地鉄は小板目良く練れて少しく肌立ち、地景入った地鉄に匂口明るい直刃を焼きあげ、鋩子は表裏共に直ぐに先丸く、長く焼き下げています。
特筆すべき疵欠点も無く、更には当店にて観賞用上研磨済みですので、御手をかけることなく研ぎ上がったばかりの地刃の冴えをご堪能頂けます。
 
附属の九八式陸軍刀拵は鉄鞘で、鐔や目貫の鍍金状態も程良く、通番号『69』揃いの完品。柄糸が傷んでいたため当店にて上柄巻きを施しました。個人で同諸工作を行いますと、ざっと26万円を超える高額のコストをかけております。是非この機会に研ぎ上がったばかり、上柄巻仕上げたばかりの手垢も付いていない清々しい一刀を御入手下さい。
 
裸身重量598グラム。  拵に納めて鞘を払った重量987グラム。
 
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無銘(金高) – Mumei(Kanetaka) –


無銘(金高)
– Mumei(Kanetaka) –
 
 
室町後期永禄頃の美濃金高と極められた大磨上無銘の刀。たっぷりとした身幅と重ね、大きく延びた切先で風格ある姿は、南北朝期の古名刀の大磨上を想起させます。
腰元には戦いに於ける戦勝祈願として、草の倶梨伽羅龍と連台に剣と梵字の彫りが施され、見るからに武辺の者の指料であったことが窺え、見ためとは裏腹に手持ちバランスは手元から中程重心で扱い易さを感じます。
 
地鉄は小板目杢交じりで良く練れて詰み、刃文は互ノ目乱れ主体に互ノ目丁子や尖りごころの刃を交え、足入り、刃縁に様々な変化が見られ、金筋入り、細かな砂流かかり、帽子は表裏乱れ込んで丸く返る。
 
所々に白く変色したような小錆がございますが、現状でも地刃の御観賞は可能です。研磨代を考慮した価格で御案内致しますので、是非当店に研磨を御用命下さい。上研磨御用命の方には、研磨代の二割を当店が負担応援致します。
 
附属の拵に装着されている若芝在銘の鐔ですが、吾妻屋や橋の橋脚部分が立体的な造り込みとなった、手の込んだ仕事振りです。縁頭は漆黒の色良い赤銅磨地に綱に戯れる猿の図で、目貫は葵と梅の図柄。柄糸は上品且つ仕事が良い卯の花色の蛇腹巻きが施されています。はばきには高知の大名である山内家の土佐柏紋が指表面にのみ刻されており、伝来の良さを物語っています。
 
裸身重量803グラム。  拵に納めて鞘を払った重量1,124グラム。
 
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土佐住瑞龍子貞弘造之 昭和六十一年七月日 – Tosa ju Zuiryushi Sadahiro –


土佐住瑞龍子貞弘造之 昭和六十一年七月日
– Tosa ju Zuiryushi Sadahiro –
 
 
南国高知の名工、岩本貞弘。島根にその人ありと知られた川島忠善(号 瑞雲子)に学び、陸軍受命刀工として槌を振った山村善貞の門人で、荒々しく沸づいた作風を得意とし、左行秀写しを鍛えさせると現代随一と言わしめました。
 
この刀は元先の幅差開き、中切先、反りが浅めの寛文新刀体配で、小板目肌よく練れて詰み、地沸付き、刃文は鎬に迫る程広く、荒々しい大粒の沸で互ノ目と互ノ目丁字を焼き上げています。
 
刃中には金筋や荒々しい砂流も看取され、帽子は表裏共に直ぐに丸く返り、一際明るい金筋を刃縁に焼き上げ、上述の通り、左行秀写しを得意とした貞弘の本領を遺憾なく発揮した、まさに沸の妙味と呼べる出来口を示しており、一本鑢で丁寧に仕立てられた茎には、流暢なる銘字が入念に刻されています。
 
附属の拵は頑強なる茶石目塗り鞘で、柄巻には茶漆が施され、武辺者がいかにも好みそうな質実剛健な拵となっています。
 
反りが浅めで元先の差が開いた、寛文新刀体配の刀は、通常イメージする日本刀らしさに欠けるように受け取られがちですが、実は居合や武用刀としては非常に有利な姿であり、手持ちも軽く感じられ、斬撃に於いては切先の振り遅れをカバーするので断然良く斬れ、また、居合の抜付に於いても扱い易く、スピードある抜付を実現してくれることを、今の居合・抜刀を嗜む方々はあまりご存知ではありません。
本刀は手元重心であるため、実重量よりも手持ちが軽く感じられるバランスの良い一刀で、真摯に居合を稽古される方にはうってつけの良刀です。柄にガタツキも無く、即武用刀として御愛用頂けます。
当店にて研ぎ上げました本刀の地刃の妙味とその刃味を存分にお楽しみ下さい。
 
裸身重量734グラム。  拵に納めて鞘を払った重量1083グラム。
 
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豊後高田住藤原行長 – Bungo Takada ju Fujiwara Yukinaga –


豊後高田住藤原行長
– Bungo Takada ju Fujiwara Yukinaga –
 
 
豊州高田派は豊後国高田地区(現大分市鶴崎近辺)で栄えた刀工一派で、古刀期の作に平姓を銘切るものが多いことから、それらを平高田と称し、新刀期以降は藤原姓を銘切るようになったことから、藤原高田と汎称します。古来より実用刀としての評価が高い一派で武用刀として数多の武将に愛用されました。 豊後国に於いて行長同銘工が数名確認され、古いものでは室町後期の天正頃にその名を見ることができますが、本作は江戸前期の行長と鑑せられます。
 
元先の幅差開き反り浅めの寛文新刀体配。現状では長いヒケがやや目立ちますが、地刃の鑑賞に支障は無く、地鉄は小板目よく練れて詰んで精美。刃文は匂口明るく冴えた中直刃仕立てで、刃縁の内側に糸を添わせたが如き真っ直ぐな金筋が随所に見られ、砂流かかる箇所も看取出来、行長の直刃の完成度の高さを知らしめる作品です。
もとよりバランスが良い一刀ですが、拵に厚く重い鐔が添えられているため、更に手元重心となってバランスが頗る良く、扱い勝手の良さを感じさせます。金色に輝く縁頭も印象的です。
余力ある方は是非とも再研磨または化粧直しを施し、行長の地刃の冴えを存分にお楽しみ頂きたく思います。上研磨御用命のお客様には、研磨代の二割を当店が負担、応援させて頂きます。
 
裸身重量870グラム。  拵に納めて鞘を払った重量1,195グラム。
 
各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。

河内守國助 – Kawachi no kami Kunisuke –


河内守國助
– Kawachi no kami Kunisuke –
 
元先の幅差開き、切先やや延びたスラリとした体配。地鉄は杢目で大杢目交じり、地景入って肌立つ。刃文は匂口明るく冴えた互ノ目を焼き上げ、概ね互ノ目を2つ一山に刃取り構成しており、刃中には金筋、稲妻、砂流が顕著に現れ、鋩子は直ぐ調に激しく掃き掛け丸く返る。
國助銘に関しては首肯できかねるため、無銘刀としてお求め下さい。銘消しご希望の方はお気軽に当店にご用命下さい。銘を消せば保存刀剣の鑑定が付きます。
手持ちバランスが非常に良く、片手操作も楽々とこなすことができる居合稽古にはうってつけの一刀です。
 
店主町井勲監修の下、銀牡丹祐乗はばきと簡易武用拵を新調致しました。柄と刀身との芯合わせ等妥協すること無く製作しておりますので、安心して居合等の武用刀としてお使い頂けます。写真には写っておりませんが、真新しい黒の下緒をおつけ致します。
※製作年代を江戸前期と表記しましたが、もう少し下がる可能性もございます。現状では錆等がございます。研磨ご希望の方、120,000円(税込)にて承りますのでお気軽にご用命下さい。
 
裸身重量702グラム。  拵に納めて鞘を払った重量929グラム。
 
各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。

土州住関田勝弘 天保十年二月日 – Doshu ju Sekita Katsuhiro –


土州住関田勝弘 天保十年二月日
– Doshu ju Sekita Katsuhiro –
 
勝廣は江戸後期に活躍した土佐山内家の御用鍛冶。筑前の鍛冶「左行秀」を土佐に招き、土佐定住と藩工への斡旋を行ったことで知られます。行秀も勝廣の鍛冶場を使用して作刀しており、勝廣の死後、その後を継ぎ行秀が土佐藩工となっています。本作は『天保の大飢饉』の時の作品で、この後の8月には土佐藩内に倹約令が出ました。食べるものが無く、大変な時代に作られた刀ですが、生きるために一生懸命鍛えたため、優れた作品も多く、「天保打ち」として全国的に高い評価を受けています。
勝廣の現存する有銘作は少なく、 知られる作品としては高知城歴史博物館に脇指が一口、小刀が数点のみ収蔵されているのみ。
 
この刀は刀身に比して茎が長く、茎にも反りが高く付き、元先の幅差が程好く開き、地鉄は小板目よく練れて詰み新々刀然としており、地沸付いて淡く映りごころ在り。刃文は中直刃基調に所々に湾れや節を交え、匂口はあ明るく冴えて締まるも刃方に向かって煙込み、表裏元の方には一際強い大粒の沸が付き、鋩子は表裏直ぐ調に弛みごころを見せ、丸く返っています。
現状、ヒケや擦れ傷がついており、研ぎ上がりに比べると些か見劣りするかもしれませんが、特筆すべき疵欠点無く、しかも現存数少ない作品ですので、資料的価値も高い一刀です。余力ある方は是非とも研磨、白鞘の諸工作を施し、美しい状態で次の時代に引き継いで頂きたく思います。
 
附属の陸軍九八式刀拵はアルミ鞘で、柄気に用いられている鮫皮はセルロイド製。通番号は全て2362で揃った完品です。長く職業軍人が用いていたため、金具の桜花葉の摩耗が見られます。鞘尻の石突金物の螺子が欠落していますが、当店にて修復可能ですのでお気軽にご相談下さい。柄糸にやや傷みが見られるので、柄糸巻き直しご希望の方もお気軽に当店にご用命下さい。
 
裸身重量544グラム。  拵に納めて鞘を払った重量924グラム。
 
各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。

新藤二郎源義國 享保三年二月日 – Shindo Jiro Minamoto Yoshikuni –


新藤二郎源義國 享保三年二月日
– Shindo Jiro Minamoto Yoshikuni –
 
江戸時代になって漸く藩政が落着きを見せてきた延宝頃、時の藩主南部重信は、諸職人を京都、甲府、江戸等から招聘して文化の高揚に尽力しました。南部藩で初めて刀匠を召抱えたのもこの時期で、新藤國義をもって嚆矢としています。
國義は京信國の流れをひく筑前福岡の信國吉貞の子、孫四郎吉助の次男として生まれ、江戸に出て鍛刀中、延宝の末年頃、藩主重信に見出され五十駄の俸禄で召し抱えられました。以後、幕末期の八代義國まで約二百年間に渡り新藤家は南部藩第一の刀匠の家柄として主導的役割を果たしました。
國義は天和元年(一六八一年)に居を盛岡に移し、下小路で鍛刀に従事。延宝頃と天和・貞享頃及び元禄十年頃とで銘の切り方に三種の違いが見られます。元禄十一年十二月一日に歿し法名は「剣山刃公信士」と言い、東顕寺に葬られ、以後、東顕寺は新藤一派の菩提寺として代々の刀匠が葬られています。
 
二代新藤義國は國義の長男で治郎兵衛を襲名しており、元禄十二年正月に家督をついでいます。宝永五年(1708年)二月二十八日の「御側諸職人御支配覚帳」に「一、五拾駄(弐拾駄御切米・三拾駄拾人御扶持)下小路 新藤治郎兵衛」とあるのが、二代義國のことであり、享保十五年(一七三〇年)六月二十日に歿しました。
法名は「夢相常説信士」言い、遺作は非常に少なく、銘は「新藤源義國」と切ります。六代、八代の義國も同じく「新藤源義國」と銘を切りますが、鏨の使い方にそれぞれ特色があります。
 
この刀は現存数少ない二代義國の豪壮なる一振で、身幅重ね共に一般的な同時代の刀に比して頑丈であり、元先の差が程好く開き、切先やや延びごころ。これだけ豪壮であればさぞ重いであろうと思われるが、手元重心で身幅と重ねの割に軽く感じられ、義國の技量の高さを感じます。庵は割と高く、鎬幅は狭い造り込みで、地鉄は小板目肌杢交じって柾流れ、よく練れて詰んで精美。刃文は匂口明るく冴えた互ノ目乱れに互ノ目丁字を交えて焼き上げており、刃縁を沸が包み込み、焼頭を縁取った様な独特の刃を見せ、乱れの谷には太い足が頻りに入り、微細なる砂流も刃中に看守される。鋩子は横手下で互ノ目を焼き込み、直ぐに先丸く尋常に返る。
古研ぎながら地刃の鑑賞には支障ございませんが、現存作品少なく、更には頗る出来が良い一刀だけに、余力ある方は是非とも上研磨を施して頂き、本刀の良さを更に引き出してお楽しみ頂きたく思います。
 
裸身重量943グラム。
 
各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。

鐔2点追加しました!