勝光 ~当店にて上研磨他諸工作済み! 研ぎ上がったばかりの地刃の冴えを御堪能下さい!!~

勝光

勝光
– Katsumitsu –
 
勝光は末備前を代表する名工。銘鑑によると初代は應永に始まり、以降七代まで続く他、同国同銘十名確認できます。
この脇指は代別等極められていませんが、反りや体配から室町中期頃の作と鑑せられます。細鏨で力強い銘のうぶ中心が印象的で、杢目肌良く練れて詰み、青味がかった精良な地鉄には、映りが立ち、匂口明るく冴えた湾れ調子の刃文に互ノ目を交え、金筋や稲妻を交える等見所多く、美術刀剣として価値高い作品です。
 
当店にて樋のさらい直し、銀はばき、白鞘を新調し、上研磨を施しました。本来の姿を取り戻した勝光の地刃の冴えをお楽しみください。
 
裸身重量415グラム。
 
 
各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。

 

(菊紋)伊賀守藤原金道 日本鍛冶宗匠(三代) ~ 当店にて上研磨済み! 研ぎ上がったばかりの地刃の冴えをお楽しみください!!~

(菊紋)伊賀守藤原金道 日本鍛冶宗匠(三代)

(菊紋)伊賀守藤原金道
日本鍛冶宗匠(三代)
– Iga no kami Fujiwara Kindou
Nihon kaji sousho(third generation) –
 
金道家は美濃より来住した一派で、近江守一竿子忠綱、信濃守源信吉、丹波守吉道、近江守久道家を加えて京五鍛冶と云われた名門です。
初代金道は関ヶ原合戦の直前、徳川家康より太刀千振の注文を受けた際、在京の鍛冶を金道の支配下に入れる事を条件に注文を引き受け、家康の取次にて日本鍛冶惣匠の勅許を受けることに成功。以降代々日本鍛冶惣匠と銘切り、五代目からは雷除と追銘します。
 
三代金道は俗名を三品勘兵衛と称し、。初代金道の孫にあたります。貞享元年6月28日(1684年)に伊賀守を受領し、享保6年頃より鍛冶惣匠の惣を宗に改め銘切るようになりました。
 
この脇指は身幅重ね頃合いで反り程好く、大杢目肌良く練れて肌立ち、沸本位の明るく冴えた互ノ目乱れを焼き、足よく入り、刃縁に砂流を見せる作品です。
 
当店にて上研磨を施しました。研ぎ上がったばかりの清々しい地刃の冴えをお楽しみください。
 
 
裸身重量508グラム。  拵に納めて鞘を払った重量787グラム。
 
 
各種クレジットカード、セディナショッピングローンによる分割購入も承っております。お気軽にお申し付け下さい。

長州住藤原清重作(新々刀)

長州住藤原清重作(新々刀)
長州住藤原清重作(新々刀)
– Choshu ju Fujiwara Kiyoshige saku –
 
周防国二王派は、保延頃の清真、または清平を祖として始まると伝えていますが、確実な遺作は確認されておらず、今日では清綱を事実上の祖としています。
清綱の現存する作例では「文永二年三月 清綱」と書き下し銘のある太刀が厳島神社に存在し、次いで建武二年紀の「防州玖珂庄清綱」銘の短刀が知られ、以後同銘は室町時代まで連綿と続いています。
周防国には東大寺などの寺領が多く存在し、二王派の作風に大和色が強いのは、大和本国との交流によるものと考えられており、二王の名の由来については諸説あるものの、周防国の仁王堂が火事に遭った時、仁王像を繋いでいた鎖を清綱の太刀で断ち切って、仁王像を救い出したことに由来するとされるものが通説となっています。
 
二王清重の工銘は室町時代に始まり、戦国最盛期を経て江戸時代前期寛文頃に栄え、幕末まで継承されており、直刃の穏やかな出来であることが特徴。
この刀は新々刀期の二王派を代表する名工清重による作品。文化・天保・元治と同銘三工が確認できますが、いずれの清重なのかまでは極められていません。
 
杢目肌良く練れて詰み、少しく肌立った地鉄は精美の一言に尽き、匂口明るく冴えた中直刃を足や互ノ目足が頻りに入り、切先へ向かうに従い刃中の変化に富み、細かな砂流や長い金筋も看取出来ます。鎬地には間が開いた二本樋を角留で上品に掻き、清重の技量の高さを示す優刀。惜しいことに切先先端が詰められたようで、フクラの匂口が一部焼き幅狭くなっていますが、その欠点を地刃の冴えがしっかりとカバーしており、故に特別保存刀剣鑑定に合格しています。
特別保存刀剣鑑定書付きですが思い切ってお安くご案内致しますので、是非この機会に清重の逸品をお求めください。
 
裸身重量897グラム。

平久守

平久守
平久守
– Taira Hisamori –
 
豊州高田派は、豊後国高田地区(現大分市鶴崎近辺)で栄えた刀工一派で、古刀期の作に平姓を銘切るものが多いことから、それらを平高田と称し、新刀期以降は藤原姓を銘切るようになったことから、藤原高田と汎称します。 古来より実用刀としての評価が高い一派で、武用刀として数多の武将に愛用されました。
 
久守は室町中期の明應頃に活躍した平高田派の刀工。
この刀は杢目肌柾強く淡く乱れ映りが総体に立ち、中直刃基調に湾れや互ノ目、丁子を交えて細かく乱れ、刃縁には砂流が随所に現れています。
 
裸身重量813グラム。  拵に納めて鞘を払った重量1106グラム。

源来次人正則 ~銘鑑漏れ刀工? 合作銘?~

源来次人正則 ~銘鑑漏れ刀工? 合作銘?~
源来次人正則
– Minamoto Rai Tsuguhito Masanori
 
初見の銘につき詳細不詳。源来次人なる刀匠と正則なる刀匠の合作であろうか。今後の研究に期待。
 
変わり鉄を混ぜた杢目鍛えで肌は良く詰んでチリチリと縮緬状を呈す。刃文は互ノ目乱れで匂口は沈み、刃肌に絡んで砂流や金筋をはじめ、複雑な変化に富んだ出来口。当店にて上研磨を施しましたので、清々しい研ぎ上がったばかりの地刃の冴えを存分にお楽しみ頂けます。
 
附属の拵は鞘に凹みや擦れ傷が見られるも総体に保存状態は良く、切羽や鐔もすり替えられることなくうぶのままであることが大変貴重。目貫は表裏共に同方向であることから、羽と胴を笹であしらった笹雁紋またはその変形紋であることが窺い知れ、この刀を所有していた士のルーツを探ることができそうです。後世に現状のまま伝え遺して頂くべく、刀身と共に拵も保存刀剣鑑定受審をお薦め致します。
※初見の銘につき保存刀剣鑑定合格保証は致しかねます。
 
裸身重量646グラム。  拵に納めて鞘を払った重量914グラム。

肥前國正次 昭和五十三年七月日

  肥前國正次 昭和五十三年七月日
肥前國正次 昭和五十三年七月日
– Hizen no kuni Masatsugu –
 
本名、田口喜一。佐賀県唐津市にて槌を振るった元元陸軍受命刀匠。陸軍々刀技術奨励会入選、金賞海軍大臣賞受賞。戦後も刀剣を鍛え、努力賞、奨励賞等を受賞。輝かしい名声を得た昭和の名工です。
 
この刀は杢目肌良く練れて少しく肌立った地鉄に地景交え、刃文は互ノ目丁子を焼き上げて、足や葉、砂流等、刃中の働き豊かな出来口。附属の拵は時代物の縁頭を用いています。
柄糸に痛みがありますが、素人による簡易補修がなされているため、すぐに巻き替えなくともお使い頂けます。ご希望の方には柄を巻き直してお納め致します。
※正絹柄巻20,000円。革柄巻25,000円。いずれも税別。その他再研磨等ご要望ございましたらお気軽にどうぞ。
 
裸身重量641グラム。  拵に納めて鞘を払った重量868グラム。

無銘(山城大掾國次)

無銘(山城大掾國次)
無銘(山城大掾國次)
– Mumei(Yamashiro daijo Kunitsugu) –
 
國次は越前下坂派の刀工で三代まで続く著名工。この刀は無銘ながら体配から鑑て二代國次の作と鑑せられます。
二代國次は名を甚助と言い、寛永六年に山城大掾を受領。中心に菊紋を切り、江戸・信濃松代でも刀を鍛えました。寛永六年には初代國次が没しているため、山城大掾受領も二代襲名にともなってのことかと思われ、寛永、正保、慶安、承応、明暦と、江戸前期に活躍しました。
 
本刀は反りやや深めの優雅な姿に、杢目肌良く練れて刃縁柾が強く、匂口明るく冴えた湾れ主調の焼刃には、刃縁よく沸づいて砂流が顕著に現れ、刃中にも変化に富んだ働きが随所に看取される美術価値高い出来口を示しています。
現状古研ぎで小錆も見られますが、地刃の観賞は可能。無銘ながらも出来良い一刀なので、是非とも上研磨を施し、白鞘に納めて御愛蔵頂きたい逸品です。
 
裸身重量711グラム。  拵に納めて鞘を払った961重量グラム。

無銘 ~地鉄精良なる一刀~

無銘 ~地鉄精良なる一刀~
無銘
– Mumei –
 
大磨上無銘ながらも、小板目良く練れて詰み、地沸付いた地鉄が精良。刃文は小沸本位の互ノ目乱れ。足・葉入り、金筋交え、見応えある出来口で価値ある一刀ですので、是非とも保存刀剣鑑定を是非御受審下さい。
元はかなり厚い鐔が添えられていたようで、現在では拵に組んだ際、柄とはばきの間に5ミリ程の隙間が空きますので、はばきまたは切羽の新調を御検討下さい。
 
裸身重量483グラム。  拵に納めて鞘を払った重量676グラム。

和泉守兼定 ~昭和26年福島県大名登録刀~

和泉守兼定 ~昭和26年福島県大名登録刀~
和泉守兼定
– Izumi no kami Kanesada –
 
延びた切先が鋭さを感じさせる。中心は江戸時代になってから中心反りを伏せ、更に斬撃に適したものに仕立て直しており、杢目肌良く練れた地鉄に互ノ目を焼き上げた作品。
附属の拵は保存状態も良好で、大名の所持品に相応しい卯の花色の気品ある柄巻きに、鞘は黒刷毛目塗り。縁頭に梅、目貫に松の図柄が用いられていることから、目出度い席でこの脇指が腰に添えられていた様子がうかがえます。
未鑑定品につき銘の真贋保証はございませんが、切羽もすり替えられることなくうぶの状態で残っている拵はとても貴重ですので、是非保存刀装審査を御受審頂きたく思います。
 
裸身重量321グラム。  拵に納めて鞘を払った重量504グラム。

助廣(初代) ~最上大業物 そぼろ助廣~

助廣(初代) ~最上大業物 そぼろ助廣~

助廣(初代)
– Sukehiro(First generation) –
 
初代助廣は播磨国津田(現、姫路市郊外)の出自と伝え、俗名を津田弥兵衛と言い、寛永初年(1624)頃に大坂に出て河内守國助に学び、正保4年(1647)師の没後に一家を成して常磐町一丁目に住しました。師伝の備前伝を得意とした新刀期屈指の名匠であり、生涯津田姓は用いず、藤原姓を名乗っており、『摂州住藤原助廣』、『摂州大阪住藤原助廣作』などと銘切りました。慶安元年二月吉日の年紀作には『そぼろ』、「明暦三年九月」には『於大坂そぼろ』の切付銘があることから、初代助廣を『そぼろ助廣』と呼称しているものの、その真意は不明で、晩年隠居直前の明暦元年8月から同2年8月(1655~56)頃に越前守を受領しています。
病弱のためか明暦年間(1655~57)と鑑せられる『越前守助廣』銘の作刀が僅かに現存しているものの、この頃から二代助廣の代作・代銘が多くなると云われています。
万治以降(1658~)は助廣の名跡を二代に譲り、作刀生活から遠ざかったと考察され、寛文3年(1663)11月16日歿しました。
業物位列(斬れ味の順位)では最高である最上大業物の地位を獲得しており、利刀を鍛える刀工としても名高く、人気の高い江戸前期の名工です。
 
この脇指は小板目が良く練れて詰み、地沸付いた精美な地鉄に、こずんだ互ノ目を匂口明るく焼き上げ、足よく入り、丁子刃交え、刃中には繊細な砂流や金筋を呈した作品です。
 
裸身重量593グラム。