肥前守藤原鎮忠

肥前守藤原鎮忠

肥前守藤原鎮忠
– Hizen no kami Fujiwara Shigetada –
 
豊州高田派は、豊後国高田地区(現大分市鶴崎近辺)で栄えた刀工一派で、古刀期の作に平姓を銘切るものが多いことから、それらを平高田と称し、新刀期以降は藤原姓を銘切るようになったことから、藤原高田と汎称します。
古来より実用刀としての評価が高い一派で数多の武将に愛用されました。
 
鎮忠は豊後高田派の流れを汲む刀工で、伊賀名張に住し紀伊でも作刀しました。荒木又右衛門伊賀越の仇討後、同荒木村荒木神社に鎮忠の刀が寄進されたことでも知られる刀工です。
 
この脇指は杢目肌柾流れて肌立った地鉄に、匂口明るく三つ一山に互ノ目を焼き上げており、刃縁盛んに変化を見せ、砂流が随所に看取される作品です。
現状は古研ぎで薄らと蜘蛛の巣が張ったような錆びが見られます。再研磨頂き大切に御所持頂きたいとの思いから、研磨代を考慮した低価格で御案内差し上げます。
 
裸身重量407グラム。  拵に納めて鞘を払った644重量グラム。

豊後住山城大掾藤原國平 ~白鞘・拵・継木付き~

豊後住山城大掾藤原國平 ~白鞘・拵・継木付き~

豊後住山城大掾藤原國平
– Bungo ju Yamashiro daijo Fujiwara Kunihira –
 
豊州高田派は、豊後国高田地区(現大分市鶴崎近辺)で栄えた刀工一派で、古刀期の作に平姓を銘切るものが多いことから、それらを平高田と称し、新刀期以降は藤原姓を銘切るようになったことから、藤原高田と汎称します。古来より実用刀としての評価が高い一派で数多の武将に愛用されました。
 
國平は主に江戸前期の寛文頃に活躍した刀工で、初銘を豊平と称し、義行とも銘切りました。
 
この刀は小板目杢交じりの地鉄が良く練れて少しく肌立ち、小沸本位の中直刃は匂口明るめでふわりとした柔らかい感じの焼刃を呈しています。
反りの浅い寛文新刀体配が流行した時代に於いて、この刀は反りがやや強く、昭和26年の大名登録刀であることから、特別な註文に応じて鍛えられた一刀であることが推測されます。
現状では極小の刃毀れや一部に小錆が見られるため、お買い上げいただいたお客様の手によって然るべき研磨を施して御所持頂きたく、保存刀剣鑑定書付きの真面目な一刀ですが採算度外視の破格値で御案内差し上げる次第です。
 
裸身重量767グラム。  拵に納めて鞘を払った重量991グラム。

武州住安家 ~現存数少ない下原一派安家の刀~

武州住安家 ~現存数少ない下原一派安家の刀~

武州住安家
– Bshu ju Yasuie –
 
武州安家は本国武蔵の国(東京都)下原一派の刀工で武蔵太郎安貞の門人と言われており、彼の生年など詳細は不明。今後の研究が期待されます。
 
この刀は反りの浅い典型的な寛文新刀体配で、小板目肌少しく肌立ち、鎬地は柾がかり、刃文は小沸本位の湾れ調の刃取りに互ノ目ごころの刃を交え、叢沸付き、物打には長い金筋が看取されます。
下原刀は華やかさに欠けるものが一般的ですが、これは実用刀としての価値を前面に強く出している為で、この刀も刃物としての利を追求した一刀と言え、本工安家は現存数少ない為希少です。
 
当店にて上研磨を施しました。研ぎ上がったばかりの安家の地刃の冴えを存分にお楽しみください。
 
裸身重量688グラム。

無銘(法華) ~約二尺四寸五分~

無銘(法華) ~約二尺四寸五分~

無銘(法華)
– Mumei(Hokke) –
 
鎌備後国法華とは、三原派とは別系の備後国葦田郡の国分寺跡に於いて鍛刀した一派を指し、その祖を助国と伝え、日蓮宗の信者に支持されていたとも云われており、現在の鑑定基準として法華極めの無銘物は、南北朝~室町初期にかけての作とされています。
 
この刀は杢目肌良く練れて肌立ち、中直刃調に互ノ目を交え、細かな砂流や足入り、打除も看取され、古雅な雰囲気を楽しめる美術刀剣として価値ある作品です。特別保存刀剣鑑定を是非御受審頂き、末長く御愛蔵頂きたい逸品です。
 
裸身重量848グラム。

三男の二代目修行

時間があれば携帯のゲームばかりしている三男。

中学三年生なので来年は高校受験である。

大家族で生活も大変な中、本人の希望で塾にも通わせたのですが、ゲームにハマり過ぎて志望校はとてもじゃないが合格できない状況。

これから先の将来設計について話し合ったところ、志望校は諦めるとのことで、とりあえずは入れそうな高校を受験するようです。

でも、ただ単に高校を出れば良いと言う訳でもないので、真剣に将来を考えろと諭したところ、暗に逃げ道なだけかもしれませんが、

「修心流の二代目を継ぐ。美術刀剣刀心を継ぐ。」

との返答がありました。

この心意気、いつまで続くのかわかりませんが、今や最古参門弟となり、実力もめきめきとあげてきた柳原に追いつかせるべく、本格的に修行開始とあいなりました。

昨夜の稽古にも弟二人と共に参加した三男。長いブランクがある割には私の血を引くためか覚えが良い。

まだまだ二代目襲名には道のりが長いですが、挫折せずに極めてもらいたいと切実に思います。

動画は6年前、8歳の頃の三男。長女も一緒に写っています。長女もやる気さえあれば日本一、いや、世界一の女流居合術家になれるのに… 勿体無い…

↑ 私と将平作の真剣で打ち合う三男。

豊後住藤原行長 ~良業物として名高い豊後の名工~

豊後住藤原行長

豊後住藤原行長
– Bungo ju Fujiwara Yukinaga –
 
豊後国には鎌倉時代初期に定秀・行平の名工が興き、南北朝時代には同国高田の地に友行が出現して豊後国『古高田』の始祖として名高い。文明二年(1470)に大山祇神社に奉納された国宝の大太刀(無銘 伝豊後友行 附)野太刀拵)をはじめ、重要文化財、重要美術品を含め五口の国指定品があります。
友行の門人である重行の子、長盛の代より藤原姓を改め平姓を名乗ったことから、室町時代の作品は『平高田』と呼称しています。
戦国時代末期になると高田の地は大友氏の庇護を受けて備前、美濃と比肩する最盛期を迎えて利刀を鍛えました。
安土桃山期になると大友氏の失脚に伴い一時衰退したものの、海運の利に恵まれて再復興し『統行』以降に藤原姓を復活させたことより『藤原高田』と呼ばれています。
 
高田鍛冶は古刀期より盛んに他伝を採り入れたために作域が広く、斬れ味に優れたことから中級武士の好尚に乗じて大いに繁盛し、統行、重行、行長の三工が良業物位列に叙され称賛されており、行長の刃味は良業物として知られています。
 
この脇指は元先の差が開き、反り浅目で切先やや延びごころで、江戸前期の寛文に差し掛かる頃の作。板目杢交じりの地鉄がよく練れて肌立ち、淡く映りごころを交え、刃文は中直刃調に互ノ目を連ね、刃縁には細かな砂流や金筋等が看取され、足よく入り、観賞刀として見所ある出来口を示しています。
附属の陸軍略式軍刀拵は、当時としては珍しい二鐶吊仕様。
当店にて研磨を施しました。研ぎ上がったばかりの地刃の冴えをお楽しみ下さい。
 
裸身重量514グラム。  拵に納めて鞘を払った重量817グラム。

武州下原住内記康重

武州下原住内記康重

武州下原住内記康重
– Bushu Shitahara ju Naiki Yasushige –
 
武州下原派は現在の東京都八王子に住した永正頃の山本周重を初代とし、江戸時代後期にかけて山本一族十家を中心として、大いに繁栄した一派です。
特に「廣重」「周重」「康重」「照重」の四工が著名で、地鉄に渦を巻いたような肌(渦巻き肌の如輪杢)が表れるのが特色と言われています。
初代康重は初代周重の子で初銘を周重と切るが、北条氏康より康の字を給わり康重に改銘すると云われ、三代康重は山本内記と言い、二代藤左衛門康重の子あるいは孫と考えられています。四代以降は代々山本内記康重の名を襲名して明治に至る言われていますが、経眼される作品は殆どありません。
 
この刀は体配から四代康重の作と鑑せられる一刀で、姿は典型的な寛文新刀体配を示し、杢目肌に黒味を帯びた変わり鉄を交えた地鉄に、ふわりと柔らかい感じの直刃を焼き上げた作品です。
当店にて研磨を施しました。研ぎ上がったばかりの地刃の冴えを存分にお楽しみください。
 
裸身重量591グラム。  拵に納めて鞘を払った重量グラム。

無銘(同田貫宗廣)

無銘(同田貫宗廣)

無銘(同田貫宗廣)
– Mumei(Dotanuki Munehiro) –
 
同田貫は九州肥後国菊池の同田貫(地名)を本拠地に、永禄頃から活躍した肥後刀工の一群で延寿派の末流と伝えられ、上野介、左馬介、兵部、又八、国勝、正国、その他数名が知られています。
一派の作柄は概ね無骨な姿に匂口が締り、叢沸がついた乱刃を焼き、その鋭利さをもって賞賛されており、本刀の作者である宗廣は、肥後同田貫一派の末尾を飾る良工で、本名を小山太郎と云いました。彼は同田貫有宗、肥後細川家の六千石重臣とともに江戸の水心子正秀に学び、刻銘は、肥後同田貫宗廣、肥後同田貫宗廣作、肥後同田貫上野介拾代嫡孫延寿太郎宗廣作、肥後同田貫小山延寿太郎藤原宗廣作、肥後同田貫延寿宗廣、小山延寿太郎藤原宗廣などと切り、天保元年から明治四年までの作品が経眼されます。
 
新々刀期の同田貫は、身幅広く重ね尋常。切先伸び心で反り程良く、鍛えは小板目または杢目肌。主に備前伝の丁子乱れ刃を焼き、中には兼元を範とした作品も見られ、同田貫の由来は、田んぼに死体を横たえて胴を切ると、胴を貫(ぬ)けて下の田んぼまで切り裂く、から来ており、旧幕臣にして直心影流の継承者である榊原鍵吉が、明治天皇の御前で兜を割った際にも同田貫の刀(同田貫宗廣の刀とも)が使われました。また、時代劇では『子連れ狼』の主人公、拝一刀の愛刀として、『破れ傘刀舟悪人狩り』でも、主人公である蘭学医・叶刀舟の愛刀。『三匹が斬る!』においても、主人公の一人である千石こと久慈慎之介の愛刀として登場し、正宗や村正と並んで馴染み深い刀として大変人気があります。
 
この刀は無銘ながら、新々刀期の同田貫を代表する名工、宗廣と極められた一刀で、程好い姿に匂口明るい互ノ目乱れを焼き、刃縁地鉄に絡んで変化を見せ、刃中には金筋や稲妻が看取でき、附属の半太刀拵は、虫喰と称される変わり塗りが施され、高禄の士の所有であったことが窺えます。
※鞘の胴金は経年により若干のぐらつきが見られます。
 
 
裸身重量794グラム。  拵に納めて鞘を払った重量1,109グラム。

濃州住兼延 昭和五十年二月日

濃州住兼延 昭和五十年二月日

濃州住兼延 昭和五十年二月日
– Noshu ju Kanenobu –
 
本名、丹羽脩司。明治36年生まれ。岐阜県重要無形文化財の指定を受けた昭和前期を代表する刀匠で、美濃伝日本刀鍛錬技法保持者5名のうちの一人です。(善定真勢子藤原兼吉-丹波兼信-本人、丹波兼延-亀井昭平)
 
この刀は切先やや延びごころの豪壮な姿で、柾がかった杢目が良く練れて詰み、匂口明るく冴えた湾れ調子の互ノ目乱れを焼き、尖りごころの互ノ目丁子を交え、足や葉を交えた作品。
居合用の安い研磨ではなく、美術鑑賞用の上研磨が施されているため、刀の顔とも言うべき横手付近が凛とし、見映えが良く、実用兼美の一刀として申し分ない出来で、鯉口に角が据えられた上手の白鞘も附属していることも好ましい。
 
裸身重量812グラム。  拵に納めて鞘を払った重量1,073グラム。

無銘(宝寿)

無銘(宝寿)
無銘(宝寿)
– Mumei(Hoju) –
 
奥州には奈良時代から鎌倉時代にかけて多数の刀工が存在していたことを古伝書は伝えており、舞草・月山・玉造と呼称される蝦夷鍛冶らが挙げられています。
日本刀の源流をなす草創期の舞草鍛冶は岩手県一関市や平泉周辺を拠点に平安時代中期の安部氏に仕え、東北の都・平泉の軍備を担った集団で奥州鍛冶の中心的存在で、一関市北側の舞草神社と白山妙理大権現、馬頭観音を信仰し鍛刀に励みました。
鎌倉時代の古伝書『観智院本銘尽』には鬼丸・世安・森房・幅房・瓦安の五名が挙げられていますが、文治五年(1189)、平泉滅亡後は壊滅状態となっています。
 
宝寿(寶壽)は現在の宮城県玉造郡鳴子町鍛冶谷沢を拠点とした鍛冶集団で玉造鍛冶に属して、家則・貞房・寶壽などの刀工を輩出し室町時代まで数代にわたる作刀が続けられました。
立地条件から早期に律令制度に組み込まれ、奥州藤原氏滅亡後も延命しており、一部は諸国に移り九州系の刀鍛冶とも交流があったと考えられます。
 
「寶壽」銘の代表作、武蔵御嶽神社所蔵の正中(1324~)年紀のある豪壮な『宝寿丸黒漆鞘太刀』(重要文化財)は源頼朝に臣従し「宇治川の先陣争い」で活躍した畠山重忠が奉納したものと伝わっており、古備前の正恒は舞草有正の子と云われ、また伯耆安綱と奥州鍛冶の類似性など、宝寿は日本刀の草創期を語る上で欠かせない存在です。
 
この刀は板目肌柾流れて肌立ち、刃文は直刃基調に小湾れや互ノ目を交えて匂口潤み、刃中柾目に絡んで砂流頻りにかかり、地鉄が詰まず、寧ろ間が開いて肌立つ様は、いかにも宝寿らしい素朴で古雅な味わい深い出来口を示す作品です。
 
裸身重量704グラム。