初伝居合形

無双直伝英信流町井派を改め、修心流居合術兵法に名を変えてからは、本家を名乗る無雙直傳英信流の連盟や団体に遠慮することがなくなり、思いのまま、気の向くままに自由に稽古をするようになりました。
形を通して身体捌きを身につけるにあたっては、初伝形も初伝之抜、中伝之抜、奥伝之抜と三種にわけ、それぞれのレベルに合わせた稽古を行っています。

ざっくばらんにその違いを記しますと、初伝之抜では両手を刀にかけるまでの動きに特徴があり、横一文字の後の振りかぶりまでの動きでは両手にて受け流す形を作りながら行います。中伝之抜では半身のきりかたが初伝と異なり、両手で受け流す形だったものを片手で行います。一般的な英信流の居合に見る形に近いですね。奥伝之抜では両手のかけ方が手からではなく、肘の抜きにて行い、振りかぶりは片手受け流しまたは中心立ての要領で行います。

それぞれ納刀の動きも異なり、初伝之抜でははばき元から。中伝之抜では刀身の中程から。奥伝之抜では物打からとなるのですが、正面から見るとこの三伝の納刀はいずれも同じ動きに見えます。

他流や他道場では、奥納刀と言えば手首をくるっと返し、切先納めますが、修心流では独特の術理があって、こうした奥納刀を良しと考えておりません。あくまで三伝の納刀はいずれも同じ動きでなければならないのです。その理由についてはここでは触れません。

速さとは自ら速く動くものではなく、無駄の無い動きの中で自然と出来上がってくるものだと考えています。
故にゆっくりと丁寧に反復して居合形を抜く稽古を重ねるのです。
ゆっくりと正確な動きができないのに、速く動いてもそれは無駄な動きの塊であり、隙多き動きなのです。

刀 兼定(銀象嵌銘) ~附 朱乾漆石目地夕顔文抜塗鞘打刀拵~

刀 兼定(銀象嵌銘) ~附 朱乾漆石目地夕顔文抜塗鞘打刀拵~
http://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/katana/539/00.html
刀 兼定(銀象嵌銘) ~附 朱乾漆石目地夕顔文抜塗鞘打刀拵~

兼定は孫六と並び称される美濃刀工で、関七流奈良太郎系の鍛冶と言われています。
初代兼定は三阿弥兼則の子で兼長に学び、子の二代兼定(之定)、孫の三代兼定(疋定)と区別するために「親兼定」と呼ばれます。

二代兼定(吉右衛門尉)は「定」の字をウ冠の下に「之」と記す独特の書体で切ることが多いことから、「之定」(のさだ)と通称され、孫六兼元と並んで「末関」の双璧をなし、永正8年(1511年)に「和泉守」を受領。
斬味では最上大業物としても名高く、江戸期には「千両兼定」とも呼ばれ、数多の著名武将が好んで所持しました。有名なところでは武田信虎、織田信澄、柴田勝家、細川忠興(三斎)、明智光秀などが所持したほか、池田勝入斎の「篠ノ雪」は高名です。

三代兼定は銘の「定」字を「疋」と切ることから「疋定」(ひきさだ)と通称されています。

この刀は兵庫県下の旧家より出たうぶ品で、指裏の帽子に一部錆、所々にヒケが見られますが、刀自体の出来は非常に良く、杢目肌良く練れて肌立ち、匂口に沿って乱れ映りが判然と立っています。匂口は明るく、尖りごころの互ノ目を交え、焼き頭は締まりごころに、谷はよく沸づいてふわりとし、足盛んに入り、金筋砂流かかり、見所多い出来口となっています。

附属の拵は銀無垢の牡丹図揃金具を贅沢に用い、朱乾漆石目地に夕顔文を抜き塗りした、粋で落ち着きある鞘塗に仕上げ、布地片手巻の柄には全体に黒漆がかけられ、強固な印象を与えるも、水辺芦鷺図の目貫が無骨な中に柔らか味を感じさせます。鐔は鉄地の雲文透波貝図で耳には銀覆輪をかけ、切羽は上下四枚組とし、中に納まっている銀象嵌銘兼定刀に相応しく、実用面を重視しながらも、上品且つ豪華に仕立てられており、質実剛健なる細川忠興を連想させる逸品です。

裸身重量721グラム。 拵に納めて鞘を払った重量1,068グラム。

刀 無銘(越前重高)

刀 無銘(越前重高)
http://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/katana/538/00.html
刀 無銘(越前重高)

初代越前住播磨大掾藤原重高は、新刀期越前を代表する刀工で、新刀鍛冶工系譜に関兼則末葉又は門人とも伝えられています。 初・二代は受領ありそれ以下は受領無しと伝え、作風は良く出来た作に肥後大掾等に似るもの又日向大掾貞次等に似る作風のもの、互の目乱れ直刃等地鉄は板目、小板目の肌立ち心のものが多く見られます。銘字は初・二代とも『越前住播磨大掾藤原重高』を冠して、初代は重高の銘をやや横広に切り、二代は『重』の銘の中の『田』の上空間を縦長に、又『高』の銘字も縦長の形状になります。作刀は、初代は少なく、二代の作が多く見られます。

この刀は二代と思しき重高の作と極められた一刀で、地鉄は柾気強く鉄に小板目が交じり、良く練れて少しく肌立っています。

裸身重量737グラム。

居合中伝形“浮雲”

昨夜の本部道場定例稽古では、初伝形全11本を抜き、その後中伝形を一本目から四本目まで抜かせました。

四本目の浮雲から、手順が覚えられず苦労する門弟が多いです。

教える側としては、さして難しいことをしているわけではないので、一回で形を覚えて欲しいと言う思いがあるのですが、思い返せば私も英信流修業時代は、浮雲の形手順を覚えるのに一苦労したものです。

形を単に形として覚えようとしては身にはつきません。形の想定やこの形で学ぶべき課題を理解できれば、自ずと覚えることができるものだと考えています。
長らく稽古を離れていた次男が稽古に参加したのですが、次男は形稽古が大の苦手。苦手と言うよりは嫌いと言う方が正確かもしれません。

そんな次男ですが、形の意味、稽古課題の意味を教えたところ、珍しく約一時間近く浮雲の形稽古を熱心にしていました。

現代居合が形演武ばかりで、実際に対人相手に稽古することから離れてしまったため、同じ形でも先生方や道場によって所作が異なります。
私はこういった所作の違いが発生することに対し以前から違和感を抱いていました。

全く同じ想定であれば、所作の違いが発生することなどないと考えるからです。

勿論、相手の腕の角度、抑え方によって、微妙に形は異なってはきますが、前述の通り、全く同じ想定であったのなら、派閥が誕生すること自体おかしいと思う次第です。

昨夜の稽古で形の意味、この形で学ぶべき所作を真摯に伝えたところ、門弟達も、次男も、理解してもらえたようでしっかりと稽古に勤しんでいました。
形は踊りや振り付けではありません。それぞれの動きに稽古課題があり、意味ある稽古メニューとして組み立てられているものです。
古の伝播者達の意向を汲み取り、真摯に稽古する姿勢が大切だと考えます。
私達現代人が、先人から学ぶべきものは、形ではなく、形の中に秘められた稽古課題なのだということに気付かなければ、居合術は上達しません。

吉川メソッド代表“吉川朋孝”×平成の侍“町井勲”

吉川メソッド代表“吉川朋孝”×平成の侍“町井勲”
吉川メソッド代表“吉川朋孝”×平成の侍“町井勲”
http://www.yoshikawa-method.co.jp/cn7/cn8/corner57/index.html

本物を追求した二人の対談でわかった共通点

是非ご覧下さい。

月刊『秘伝』11月号 10月14日発売!!

月刊秘伝11月号
月刊『秘伝』11月号も日本刀情報満載!!
前田日明×町井勲 “斬れ者たち”の新・日本刀論

10月14日発売!
書店へGO!!!

短刀 無銘(千子)~村正一派の短刀~

短刀 無銘(千子)~村正一派の短刀~
http://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/tantou/143/00.html
短刀 無銘(千子)~村正一派の短刀~

刀剣趣味人でなくともその名を知る者が多い千子村正。この短刀は村正個銘極めには至らなかったものの、村正を含める千子派と極められた短刀です。
千子村正は南北朝時代の貞治より銘鑑に名を連ねます。現存する在銘品は室町時代中期に入ってから見られ、年紀の入りの作は文亀から天文までの五十年間に及び、この間、初、二代あるとも云われています。この時期の俗名は、右衛門尉と言い刀が少なく短刀、寸延短刀を多く見ます。
焼刃の構成や茎の仕立に特徴があり、刃味鋭く、当時から多くの武辺者に愛用され、また、徳川家に仇なす妖刀とのことから、徳川打倒を目指した諸将もこぞって用い、中でも真田幸村が有名です。
徳川家が天下を治め、泰平の江戸期になると、徳川家にはばかって数多くの村正が無銘にされたり、廣正や村重等と銘を改竄されました。
※外交史料集「通航一覧」の第四巻「寛明日記」によると、長崎奉行の竹中重義に疑義があり、幕府によって屋敷が捜索されたところ、おびただしい金銀財宝に加え、村正の刀を24口も所蔵していたことが発覚し、寛永11年(1634年)2月22日、重義は嫡子源三郎と共に浅草の海禅寺で切腹、一族は隠岐に流罪を命じられたといいます。

本刀は、六寸一分と小振りながら、身幅重ね尋常で、三ツ棟。板目肌に柾目肌を交えた地鉄には潤いが感じられ、匂口明るく、互の目を三つ一組で構成し、沸よく付き、刃文は掟に違わず表裏で揃い、刃先が掛けださんばかりに低く焼かれ、皆焼ごころに棟焼も交えています。刃中は砂流しが盛んで、帽子はそのまま乱れ込み小丸に返るなど、村正個銘極めでもじゅうぶんな出来口を示していますので、村正金象嵌銘を施し、再度保存刀剣審査に挑まれるのも一興かと存じます。

裸身重量94グラム。

短刀 駿河守藤原盛道

短刀 駿河守藤原盛道
http://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/tantou/142/00.html
短刀 駿河守藤原盛道

初代駿河守盛道は慶長頃の美濃の鍛治で同時代の美濃国岐阜の鍛治としては陸奥守大道と双璧をなす名工です。数代続いており本刀はその代別が記載されておりません。

建勲神社鉄砲隊創設創案

20160930-1

20160930-2

本日、10月19日に開催される船岡大祭での居合奉納の打ち合わせのため、京都建勲神社を訪ねました。
同神社松原宮司様と打ち合わせを済ませたあと、今後も古式砲術演武を続けたいと御相談頂き、不詳ながら私が先頭に立ち、これまで通り建勲神社での古式砲術演武を奉納させていただくべく、音頭をとらせていただくことになりました。

私が所属しているATJ古式砲術流儀保存会は、小谷野隊長が亡くなられた後、経験豊かな隊員が隊を引率されていましたが、皆さんご高齢になられたこともあり、隊としての活動は休眠状態にあります。

建勲神社は織田信長公を御祀りする神社だけに、信長公の印象として強い古式砲術の演武は人気が高く、建勲神社様としては毎年でも砲術演武奉納を行いたい意向です。
そこで、隊員の若返りも計り、新たに建勲神社鉄砲隊を組織したいと思い立ちました。

これまでは各々が様々な甲冑を身に纏っての演武でしたが、新たに隊を結成するにあたっては、皆揃いの鉄砲足軽具足で揃え、勇壮なる織田の鉄砲隊を再現したく存じます。
また、全装備全て個人負担であった鉄砲隊ですが、有志の方が参加しやすいように、具足の購入費や使用する火縄銃等の備品は、後援者を募って鉄砲隊で購入管理し、なるべく自己負担が少なく済むようにと考えております。

火薬と実銃を使用する演武だけに、コスプレや遊び感覚で参加される方はご遠慮願いますが、共に建勲神社の船岡大祭を盛り上げ、古式砲術の伝統や文化を正しく後世に伝え残したいとお考え下さる方がおられましたら、是非ともお声がけ下さい。
新たに組織するからには、本格的な鉄砲隊を作りたいと考えております。※眼鏡やゴム底の地下足袋等の使用を不可とし、当時のいでたちをそのまま再現したいです。

また、上述のように、活動資金を援助下さり、鉄砲隊を影ながら支えて下さる有志の方が居られましたら是非とも宜しくお願い致します。

恐れ入りますが、一人でも多くの有志を募れるよう、このブログ記事の拡散に御協力ください。宜しくお願い致します。

刀 陸奥運寿兼友作 慶応三丁卯秋

刀 陸奥運寿兼友作 慶応三丁卯秋
http://nihontou.jp/choice03/toukenkobugu/katana/537/00.html
刀 陸奥運寿兼友作 慶応三丁卯秋

会津兼友は銘鑑を紐解くに、元禄から明治まで七代に渡ってその名跡が続いており、この作品は幕末に活躍した五代兼友の作と鑑せられます。
この頃、会津藩は悲劇的な運命を辿ります。戊申戦争では一ケ月にもおよぶ会津城籠戦を凌ぎ、兼友、長道、道辰ら会津の刀匠達は弾丸の製造に尽力。十一代会津兼定は城外に討って出たとも伝えられ、一藩総力戦ともなった戦いは、白虎隊はじめ多くの悲劇を生み、敗れた会津藩士やその家族の多くと、そして六代兼友は北海道へ移住したと伝えられています。

兼友は兼定に似た美濃伝の沸が少ない直刃か互の目乱れを焼き、本刀はよく練れた杢目に地沸がついて地景入った精美な肌が少しく肌立ち、匂口締まりごころの中直刃に小沸がつき、鼠足入り、ほぼ等間隔に小足を交え、金筋が現れるなど、細やかな刃縁の働きが上品で見所多い出来口です。

裸身重量724グラム。