模擬刀は10年を目安にした方が良いのかもしれません

今夜の稽古時に門弟である柳原の模擬刀が茎から折れました。

折れた模擬刀

刃がついていない模擬刀と言えど、近頃の模擬刀はかなり薄刃仕上げが多く、切先は厚刃のものでも尖っています。

運悪く周囲の人に刺さってしまうと死亡を含む大事故に繋がりますから、狭い空間での稽古は細心の注意が必要ですね。

 

実は稽古中に模擬刀が折れる事案は今回で三回目。

一回目は中古模擬刀を買ってきた門弟の物を、稽古に使える強度なのか確かめるべく私が抜付した際にはばき下から折れました。

二回目は購入後一ヶ月程の新品の模擬刀でしたが、尺骨を使って抜きつけた刀の勢いを止める狭い場所での抜付稽古の際に、やはりこちらもはばき下から折れました。

そして今回の三回目ですが、柳原が稽古開始前に素振りをしていたら折れたとのこと。私は仕事の都合でその場には居合わせていなかったのですが、やはり今回もはばき下で折れていました。

 

柳原の模擬刀は、購入してから約8~9年になるでしょうか。

 

私が思うに、居合稽古用の模擬刀は、10年を目安に刀身を交換するか、買い換えたほうが安全のためには良いように感じます。

長らく使い続けている模擬刀をお持ちの方、眼に見えぬところで金属疲労を起こしているかもしれませんから、事故を招かぬようご注意くださいね。

 

美濃坂製の模擬刀なら、私が営む「刀心」が1~2を争う最安値です。もし刀身交換しゃ買い替えをお考えの場合は是非ご相談下さい。

修心流居合術兵法 奉納公開演武のお知らせ

2月11日(祝 建国記念日)に、東京都大田区東雪谷にあります 雪谷八幡神社(ゆきがやはちまんじんじゃ) に於きまして、公私共に深いお付き合いを頂いております青木久先生が奉納演武を行われます。

ありがたいことに修心流東京道場の門弟さん達も御一緒にいかがですかとお誘いいただきまして、まだまだ技量未熟ではございますが、私の門弟二名が演武奉納させていただくことになりました。

当日は単独で行う居合形を五本程演武奉納予定です。

私自身も時間の都合がつけば応援に馳せ参じるつもりです。場合によっては私も演武奉納させていただくかもしれません。

 

上述の通りまだまだ技量未熟ではございますが、日頃一生懸命居合術修行に打ち込んでいる門弟二名の演武。剣友であります青木久先生の演武も見ものです。

お近くの方やお時間許される方は是非とも雪谷八幡神社へお越しいただき、奉納演武を御観覧下さい。

袈裟の角度を作る

昨日は修心流居合術兵法東京道場直伝稽古日でした。

私が関西に住んでいるため、頻繁には東京に指導に行けない都合上、一カ月に一回乃至二回、1日6時間ぶっ通しで稽古指導するのですが、昨日の稽古は6時間ずっと袈裟の角度作りの稽古、つまり、袈裟の構えの稽古を行いました。

居合形を稽古するわけでもなく、ただひたすら上段に構えた刀を袈裟の構えまでもっていくだけの単純な稽古。

多くの人はつまらなくて辞めてしまうことでしょうが、今現在稽古に励む修心流の門弟達は皆熱心で、黙って私の指導に従ってくれます。

6時間ずっと同じことばかりさせる側としても、やはり少しは気が引けるもので、

「もう3時間もこればっかりやってるけど、もし飽きたなら他の稽古にしましょうか?」

と問えば、嬉しいことに

「いえ、このままこの稽古でいいです。」

と言ってくれました。

 

この日6時間もぶっ続けで同じ所作の稽古ばかりした甲斐があり、目覚ましく進歩した門弟も(嬉

しかしながら、私も驚く程理想的な動きが出来るようになったのに、暫くするとまた出来なくなっている。

 

6時間の稽古が無意味だったのかと言えばそうではなく、一度でも体現することができたなら、また身体が思い出す時が必ず来ますし、過剰な意識が出来ないようにさせているので、その意識を捨て、壁を超えることができた時、その所作と業は真にその人の物となるのです。

 

できたものができなくなる。その繰り返しで業は昇華されていきます。

 

さて、表題にあります「袈裟の角度を作る」というものですが、上に記しました稽古法にて習得します。

単に斜めに刀を振ることが袈裟ではないと、過日の記事で書きましたが、1度ずつ角度を変えた場合、袈裟は左右それぞれ88通り存在することになります。

皆さんは1度ずつ角度を変えて88通りの袈裟に刀を振ることができますか?

いくら刀を水平に近い角度にしたところで、腕で角度を作っている間は全88通りの袈裟はできないものです。

1度ずつ角度に応じて身体を変化させることが出来るようになれば88通り全ての袈裟ができるようになります。するとピンポイントで甲冑の隙を狙い斬ることも理論上可能になるわけです。

 

稽古着

今回は袴や着物の着用についてを書き綴ります。

新たに入門者が増えると、馴染みの武道具屋に稽古着と袴を発注するわけですが、その際よく耳にする武道具屋の言葉。

 

「町井先生のところは通常より2サイズダウンなので、今回ご用意させて頂く袴は○号ですね。」

 

私は角帯を腰骨の位置で締めて袴を着用するのですが、近頃の居合の修行者は脚を長く見せたいのでしょうか? かなり長い袴を腰骨より上、つまりウエストの位置で履かれる傾向にあるようです。

たまにネット上で、隣国の民族衣装の如き着用者を見かけることがあるのですが、袴を上方で穿くのは、武術としての居合を目指すなら間違いです。

 

袴を腰骨より上で穿いてしまうと刀を閂指※1ができず、せいぜい鶺鴒指※2や落指になってしまいます。

※1 閂指(かんぬきざし)=水平に刀を帯びること。

※2 鶺鴒指(せきれいざし)=主に時代劇で見るような刀の帯び方。

※3 落指(おとしざし)=時代劇に登場する着流姿の浪士のような垂直に近い角度になる刀の帯び方。

 

袴を上方で穿くと刀を鞘から抜き放つために必要なストロークが短くなりますが、腰骨の位置で履くとそのストロークが長くなる分、抜きやすくなります。

ですから刀を素早く抜くことを重視するあまり、袴の上から更に空手帯のような細い帯を股関節辺りの位置に締め、そこに刀を指す人が見られますが、私はこのような自分に都合の良い帯刀の仕方をする人が、どれだけ素早く抜刀しようが全くもって凄いとは思いませんし、むしろ嫌悪しております。れっきとした士(さむらい)の刀の帯び方ではないからです。そのような刀の帯び方では手を離して歩くこともできません。そのような帯刀が士の時代に存在したかどうかは想像すればすぐにわかるものですが、何故か皆さんそう言った士としての着付や士の作法を無視し、ただただ素早い抜刀を褒めるばかり。しかもそれが「ど」がつく素人ならまだしも、何かしらの武道を嗜む方が褒めているのですから閉口せずには居れません(苦笑

それだけ今の時代は武術としての居合、士の作法を知らぬ人が多くなったという証拠でもあります。

 

皆さんは稽古着を着用される際、なにか気をつけている点はありますか?

 

私の門弟が、稽古着の着用を私から教わる際、いの一番に叩き込まれるのは、

全て左側から

と言うことです。

これは武士の作法であり、仮にも士が嗜む武術を修練されるのであれば徹底的に心得ておかねばならないことです。

襦袢や着物に袖を通す時には必ず左側から。

袴を穿く際も左脚から。

この作法は士ならではのもので、士にとって左がいかに重視されていたのかがわかります。

例えば平安時代や鎌倉時代の大鎧を着用する士の画を見ると、左腕にだけ籠手をつけていることに気づくはず。右腕は太刀を振るったり、弓を引いたりと、動くことで防御も兼ねるのですが、一方の左腕は手綱を掴んでいたり、弓を引く際には大きく前方に伸ばすため、無防備になるのを籠手を着けることでカバーしているわけです。

故に甲冑の着用にしても、まずは左側から順に装着していきます。

私も全てを知り尽くすわけではありませんので、他にもあるかもしれませんが、士が右から装着する物としては韘(かけ=手袋)くらいしか思い浮かびません。

他が全て左側から装着していくのに対し、何故韘は右からかと言うと、太刀を握り、弓を引く都合上、左から装着するよりも右から装着した方が、逸早く臨戦態勢をとれるからというのが理由です。

 

次に袴の前紐について。

結婚式や成人式といった晴れの日の男性和装では、袴の前紐を十文字に結ぶ姿が見られますよね。居合の演武会や大会、そして稽古場でも、この十文字結びをしている方を見かけることがあります。どのような結び方であっても個人の自由ではありますが、古の士に倣うなら、一文字結びか結びきりと呼ばれる結び方であるべきだと思います。

江戸時代の武士が十文字結びをしなかったのかと言えば、江戸も中期以降の平和になった時代には、お洒落感覚で十文字結びをしていた士もいたかもしれません。

しかし、戦場に臨む古い時代の士達が結びきりであったことは想像に難くありません。名を上げる絶好の機会でもあった戦場に於いて、袴やその他の装具の紐が解け、存分に戦働きができないようでは士の本懐を遂げることなどできません。戦が終わるまで甲冑も袴も脱がない覚悟で結びきりにしていたことでしょう。

ですから士の武術を学び、嗜む者としては、やはり古の士に倣って結びきりか一文字結びを採用すべきではないでしょうか。

 

最後に、二種の袴について。

ご存知の方も多いでしょうが、袴には「馬乗袴」と「行灯袴」の二種があります。前者は平たく言えばズボン式、後者はスカート式です。

行灯袴は一般的に、明治中期以降、女学生達が着用していたスカート式の袴が、裾さばきのしやすさから後に男子も略式として使用するようになった物と言われますが、私が聞き学んだものでは、既に江戸時代には行灯袴が存在し、町人が羽織袴を着用する際、武士に憚って馬乗袴ではなく、それを模した行灯袴を着用したと言うもの。つまり、町人用袴モドキであって士が着用するものではないというお話でした。真相のほどはさておき、士ならば馬乗袴でなければいけないと言うのは事実です。

※私の記憶が確かなら、二重数年前、大農家の蔵で見た裃の袴は行灯袴でした。

古い時代から行灯袴があったと仮定してお話しますが、戦が絶えなかった殺伐とした時代。城から緊急召集を意味する太鼓の音が聞こえたら、士達は着の身着のまま甲冑と武具を持って城に馳せ参じました。国と己の命が懸かっていた時代です。一分一秒を争って城にかけつけたことでしょう。

さぁ、戦だ!!

そんな時に行灯袴だったら?? 馬に跨れませんし、臑当も装着できません。つまり戦えないということです。

故に武としての居合を学ぶ者、嗜む者や、居合に限らず武を志す者は、行灯袴の着用は避けるべきではないでしょうか。

 

 

今回のまとめ

・袴は腰骨の位置で穿くのが良い。

・着物や袴の着用は左から。

・袴の前紐は結びきりか一文字結びにすべし。

・行灯袴の着用は避けるべし。

 

 

 

日本の古武術のみならず、日本における生活の中でもよく見かける正座。

 

お子様を剣道や合氣道、空手と言った武道教室に通わせておられる方、また、御自身が武道教室に通っておられる方、道場でこんな場面を経験したことがありませんか?

私が幼い頃に通っていた剣道の道場を例にしますが、稽古の始めと終わりに

 

「着座」

 

の号令がかかり、生徒全員が一列または数列に並んで正座します。

すると武道教室の先生がこう言うのです。

 

「背筋正して!」

 

その言葉に生徒達はピンと背筋を伸ばし、直角に上半身を立てるのです。

それを見る親御さん達は、

「おっ! 背筋をピンと伸ばして良い姿勢だ!」

と思われるようですが、私の武術理論から見ると…

 

これ、全然ダメなんです。

 

何がどうやって直角L字に座すのが良いことだと認識されるようになったのか、私には解りかねますが、とにかく私の武術理論上これは絶対してはダメ!

特に居合を嗜む人はしたらダメなんです。

 

直角L字に胸を張って正座する人を、背後から軽く押してみましょう。

倒れません。

 

次に正面から軽く押して見ましょう。

あれれれれ? 簡単に後ろに倒れてしまいます。

 

これ即ち床に着いている脚と上半身の軸がずれているということなのです。

ではどのように座せば良いのか?

素敵な御手本を示す方がおられます。

 

人間と神のハーフ… 釈迦でーっす!!

もとい、鎌倉の大仏様です。

鎌倉大仏

座す大仏様は各地で見られますが、私は鎌倉の大仏様のこの姿勢にしびれます。

軸が整っているからです。

鎌倉の大仏様を見ると、なんとなく猫背っぽくて、お顔は前に出て見えます。そう、これこそ武術を意識した座なのです。

 

正座、立膝、私が嗜む居合にはこの二種の座り方があるのですが、どちらも上体はやや前傾がベスト。

正座で説明するなら、直角L字ではなく、傾いたL字に座るのが武術としての理想形。

足の指先と膝頭を底辺とするなら、頭の位置はその中心に来るように座る。つまり線で結べば二等辺三角形になるように座るのです。

この状態で正座して先程と同じことをしてみましょう。

後ろから軽く押す… 前から軽く押す…

左右横からも押してみましょう…

 

どうですか?

直角L字正座と違って倒れにくいことに気づかれますでしょう?

そしてこの二等辺三角形を作る正座には様々な利点もあるのです。

少し技術が必要ですが、相手が強く押してきても、呼吸を合わせれば2~3人がかりで押そうが後ろに倒れません。この時の呼吸を合わせるというのは、合氣道で言うところの「氣」と呼ばれる不思議な力! ではなく、腹式呼吸ではなく胸式呼吸で応じるということ。物理的にどう言う作用が起きているのかと言えば、横から押してくる力のベクトルを上方に逃がすという働きに変えているというわけです。

更に眼に見えて有効なのが、刀の柄が水平または水平やや水流し(少し下に傾くこと)の角度になるということ。

これにどのような利点があるかすぐに想像できた方は、なかなかの武術センスの持ち主。

柄が水平或いは水平やや水流しの角度になるということは、手を刀にかけるまでの時間が短縮されるということ。零コンマ数秒の遅れが命を落とす結果になる武術の世界において、如何に早く刀に手をかけることができるか? はとても重要。しかも柄頭が上に向いてしまう直角L字正座では、刀に手をかけるまでの腕の動き、つまり初動がどうしても読まれてしまうのに対し、二等辺三角形正座は初動を読み辛くさせるのです。

 

居合とは立合の対義語。

さぁさぁ我と立ち合え!

と宣戦布告してからの勝負ではなく、突然の有事に対応することが理想的なわけですから、単に正座と言っても本当の意味で気を張らなければいけません。直角L字正座で胸を張るのではなく、武術としての正座で張るのは気!

 

普段の居合稽古の中で少しこれを意識して座してみてください。

これまでとは違った景色を見ることができると思いますよ。

 

因みにアイキャッチ画像として使用している六男の正座。理想的な二等辺三角形正座です。稽古で教えたものが自然と身についたようで、今回のブログ記事用に撮影したものではなく、一昨年の端午の節句辺りになんとなく撮影したものですが、肘から指先への角度もほぼ完璧です。

近頃では古流を名乗る流派、道場によるSNS投稿の動画や写真の中で頻繁に、両掌を上に向けて座っていたり、恥部を隠すかの如く、両手を股の間に挟みこむように座ったり、はたまた膝頭の前に五指を立てるような座り方をしているものを見かけますが、いずれも武術観点から見ると疑問符をつけざるをえないものばかりです。いずれの座り方も命が失われる危険があった時代に果たして行われていたでしょうか?

1+1=2でしかなく、地球を照らす太陽が一つだけであるのと同じで、物理的にも武術的にも適った姿勢、所作と言うのは一つだけと覚えておいて支障はないでしょう。私はそう思います。

隙

 

武術の世界や生活の中でもよく耳にすることがあると思います。

隙とはなんぞや?

皆さん考えられたことはあるでしょうか?

 

攻撃できる機会。反撃できる機会。

 

そんな答えが聞こえてきそうです。確かにそう言う意味合いもあるでしょう。

今回は私なりの隙について語ってみたいと思います。

因みに日頃私が欲しいものは、同じ隙でも、私への愛情が冷めてしまった妻からの「好き」なのですが(笑

 

さて、冗談はさておき本題に入りましょうか。

 

昔の人は本当に物事を上手く表現したなと感心せずには居れません。武術における隙とは、文字通り隙間を意味する隙。そのためアイキャッチ画像を少し開いたドアの写真にした次第です。

武術における隙については動画で解説すれのが一番手っ取り早くご理解頂けると思うのですが、ここは敢えて文字だけで表現しましょう。

 

全身と半身が正しく使いこなせることを前提にお話しします。

全身のまま胸の前で掌を合わせてみてください。ちょうどお祈りするような形です。

少し脇を締めるように意識して、腰を回転させてください。

掌の間が開き、隙間ができましたでしょう?

それが「隙」なのです。

※因みに刀心スタッフS君は武術の概念がないため、手を合わせたまま上半身だけ回転したので掌に隙ができませんでした。やはり言葉だけでは何を説明しているのか難しいのかも… でもそれでいいのです。考えることが大事だから。

 

大きな隙間は拳がすり抜けられます。

小さな隙間だと拳は通りませんが、重ね数ミリの日本刀なら簡単に通り抜けてしまいますよね。

如何に小さな隙であっても、そこに日本刀が通過できるだけの隙間が出来てしまうと、実戦では命を落とす結果になります。

 

では次に、半身をきるという動作が正しくできる方、同じように掌を合わせた状態で、半身をきってください。

左右の掌は上下前後に動きますが、自分の中心に残ったままになっており、隙間ができないことがお解り頂けるはずです。

 

このことから何が言えるかと言いますと、武術に横の動きは不適切ということです。

薙刀や長巻を使った試斬動画を稀に見かけますが、薙刀を横から出していますよね。

これ、武術としての観点から言いますと… 「ありえない…(by 湯川学)」 なのです。

動きが全て見えるばかりか、上で解説したように隙が出来てしまうから。

 

昨今の居合や剣術を見ると、腰の回転が目立つ人がとても多く、指導者ですらそれに気付けていないのです。

抜付で鞘の鯉口が外に開いている人はその典型。

私は他流のことはあまり知りませんが、全剣連系の英信流、夢想神伝流の居合演武をされる方に、鞘引きではなく鞘開きになっている方が見かけられます。

これ、即ち抜きつけているのではなく、自ら隙を作っているだけと結論づけることができるのです。

 

僅か数ミリの隙さえ作ってはいけない。

相手に差し込まれる(刺し込まれる)隙を作ってはいけない。

 

武術においてこれは一番大切なこと。中心軸を意識するだけで、居合のみならず、あらゆる武術は上達します。

試斬

試斬(しざん)

文字通り、その刃物の切味を知る為に行う物が本来の試し切りだと私は考えているのですが、いつの時代からか自分自身の腕試しに変わってしまったように思います。

昨夜、とある古流を名乗る道場が、試斬を積極的に取り入れている理由をこのように記しているのを見かけました。

 

形通りに試斬をすることで、刃筋を通すことと間合いを学ぶ。

 

一見理に適った理由に見えますが、人と畳表では間合が異なることを知らなくてはいけません。畳表を両断する間合は畳表を両断するための間合。武術としての間合ではないのです。

こうしたところに現代を生きる居合、剣術修行者、指導者の思慮の不足を感じてなりません。

 

私も時折畳表や竹を斬ることがありますが、現在では試斬や試斬稽古とは言わず、自分の中で明確に試斬と分けているつもりです。畳表斬りはあくまで刃筋確認であって、武術ではないのですから、

 

斬稽古

刃筋確認

 

と称すのが妥当と考えます。

 

畳表や竹斬りは、あくまで斬る稽古、刃筋を通すための稽古であって、間合の稽古ではない。

故に私の道場では試斬と言う言葉は使いません。

一時私も物を斬ることで実力を示すと言う、馬鹿な観点を重視した時期があり、その頃には頻繁に畳表を斬る稽古を行っていましたが、武術としての居合、剣術をつきつめていきますと、物を両断することに意味を感じなくなりまして、今では数か月に一度、例えばいつも利用している稽古場が利用できない日等に行うのみとなっています。

それでも日頃から私の下で研鑽を詰む門弟達は、斬り損じること少なく、返し斬りも難なくこなすのです。日頃から畳表を頻繁に斬っている居合、剣術修行者より上手です。

 

今日のブログ記事で私が皆さんに伝えたい事、それは…

 

・畳表を斬ることでは武術としての正しい間合は学べない。

・試斬とは文字通りその刃物の切味を試す行為であって、個人の腕試しを意味するものではない。

・畳表や竹を斬らずとも、正しい稽古を積めば刃筋は通る。

・刀を損なう試斬はすべきではない。

 

の四点です。

あなたが武術としての居合、剣術を求めているのなら、上記四点、心のどこかに留めてください。

 

最後に…

私の様々な物斬りギネス世界記録を見て、斬ることを否定してる割にやってることが違うではないかと思われる方もおられると思います。

私のギネス世界記録は居合研鑽の副産物であり、記録達成、記録認定を目指して築き上げたものではありません。全てテレビ企画等で頂戴したあくまで副産物。

故に番組の予算や企画内容によっては、前人未到の記録を打ち立てても、ギネス世界記録に登録されていないものもあります。

例えば… マッハ1.17で飛んでくるピンポン玉の居合斬りなんてその格好の例です。

私は愛刀家として、また、武術としての居合を嗜む一居合術家として、無意味な試斬や試斬体験会には一生涯否定的な立場であることに変わりはありません。

袈裟

自分で言うのもなんですが、私の追い求める居合は完成されつつあります。いや、既に完成したと言っても良いかもしれません。

現在、家庭環境や色んなものが変わりゆく日本で、実子達に技術を残すことが困難と判断したため、この技術をなんとか残したい一心から、時間がある時に私の居合論をせめて文字でだけでも残そうと思います。

 

私の世間の評価としては、他流批判が多いとか、自分こそが一番だと思っている。と言ったご意見をいただきます。

しかしながら私が追い続けてきた居合を語るに当たっては、他流批判したくなくとも、どうしても比較対象になるため、批判めいた言葉になってしまいます。

ですから己の居合を否定されるのが嫌だとか、私の他流批判を見たくないという方は、申し訳ありませんが私の記事を読まずにそっとブラウザを閉じてください。

 

まず、今回の題目にある『袈裟』についてですが、その概念を根底から覆さなくてはなりません。

袈裟と言えば単に斜めに斬ることだと一般的には教えますが、全くもって教える側も袈裟について理解できていないのが現在の居合、剣術の世界の有様です。

他者の居合形演武を見ると、樋が入っている刀を用いているのにもかかわらず、袈裟に振っても樋音が聞こえない。そういう現場をよく目にしてきました。

私の英信流居合の師であった吉岡早龍師ですら、時折樋音が聞こえないことが見られたものです。

 

何故樋音がしないのか?

 

答えは至極簡単なことで、腕で袈裟の角度を作っているからです。

全ての居合修練者を知っているわけではありませんが、私がここで言う武術としての袈裟が出来ている人は、なかなか見ません。

何を偉そうに言ってるんだと思われる方もいらっしゃるかと思います。

確かに文字や言葉だけでお伝えするのはなかなか難しく理解を得られないのも仕方ないかと思います。

そういった方の中で私が言う武術としての袈裟を知りたいと思って下さる方は機会を作って私の道場をお訪ねください。

お越しいただき体験して頂ければ納得していただけるようご説明いたします。

 

近頃はSNSの発達により、映える動画、写真を撮りたい素人さん相手に試斬会や試斬体験を積極的に開催する個人や道場が散見されます。現代の若い方が日本の文化に触れ知っていただけるのは嬉しく思うのですがその反面、私は常日頃から言っているようにこうした素人さんへの日本刀の損傷を招く試斬会には反対の立場にあります。

辛辣なことを書き綴りますが、はっきり言ってそういった道場の経営者様や試斬会の会主様は私の眼から見れば素人の方も多いです。しかしこうした経営者様や会主様が、武術や刀を知らぬ人にとっては、なんでも体験させてくれるありがたい存在のようで、刃筋もまともに立っていないのに、畳表が二つに切れている様子だけを見て、「流石ですね」「いつもながらお見事です」などと言ったよいしょよいしょのコメントを素人の方はSNSでつけるのです。

確かに経営者としては試斬会等で商売になるのなら、それは経営という角度から見ると正しい姿なのかもしれません。ですがそんなコメントに一喜する素人先生によって益々刀に負担をかける間違った刀法が広まり、それを漫画や絵のモデルとするため、刀剣や武術の知識を持たぬ人の間で、間違いが正しいものにすり替えられてしまうのです。実に嘆かわしいことではありませんか。

畳表は反撃してこない。刃筋とスピード、物理法則さえ合えば、多少刃筋が狂おうとも切れてしまうもの。故に意味のない試斬は本来行うべきではないのかなと私は思います。

今現在、海外に流出した刀剣も含め、日本刀の現存数は莫大です。故佐藤寒山先生曰く、戦前で600万振。戦後破棄されたり流出した物を除いても、300万振は残っていると言われます。何故これまでの数の日本刀類が残っているのかと言えば、使用されなかったからです。

時折刃筋確認のため、刀を使って物を両断する士はいたかもしれませんが、今の時代のように頻繁には行われていなかったのが事実です。

話を素人先生による試斬会に戻しますが、動画を見ていると酷いものです。愛刀家の私は思わず目を覆いたくなる。そんな動画が多々あり、そういう動画に限って再生回数は多く、素人によるいいねもたくさんついています。

頭上に振り上げた刀を、手首で斜めに角度を付けさせ振らせるわけですが、そもそもこの行為自体が間違い。畳表や竹を切るだけなら勿論問題はありません。物理法則に適えば切れるのですから。

 

私が今ここで語りたいのは武術としての袈裟。

ここのところ私が居合術を指導する居合道場修心館では、居合の形稽古を2週間程行っていません。ただひたすら袈裟の稽古をさせています。

袈裟斬が単に斜めに刀を振り下ろすことなら、門弟たちの貴重な時間を単純な同じ動作の繰り返しに充てたりはしません。私の下で修業11年目になる最古参門弟の柳原ですら、未だに満足いく袈裟ができず悩んでいます。

それほどまでに武術としての袈裟は難しいのです。

袈裟は腕で角度を作るものではなく、骨格、身体全体を使って作るもの。上段に構えたところで腕を掴ませ、相手と力ぶつかることなく袈裟に構えることができれば、それは武術としての完成された袈裟です。力がぶつからないと言うことは、袈裟に構えた時点で腕を掴んでいた相手が崩れます。そしてお互いに高い修練を重ねた者同士になると、身体に触れてもいないのに、袈裟に構えられただけで身体が崩れます。傍から見ればやらせのように見えますし、今現在の居合、剣術の世界では、間違ったものが正しいことと教え広められているため、私の袈裟理論についてもなかなか受け入れてはもらえませんが、実際に体感された方々は目から鱗が落ちたと驚かれます。

ここで全てを書き綴るわけではなく、私の門弟や私の居合に理解を示して下さる方に、今はヒントだけをお知らせしたいと思います。

 

全身→真向

半身→袈裟

 

半身とは身体をひねることではない。

身体を横に向けることでもない。

 

 

最後に、私がここで言う袈裟が出来るようになると、己の刀を損傷させにくいという効果もあることをお知らせします。

腕で角度を付け、袈裟に斬っている間は刀にかかる負担は大きい。正しい袈裟ができれば刃筋が狂うことはありません。

腕で袈裟に斬ると相手の刀とぶつかった時、刀は必ず破損しますが、正しい袈裟ではせいぜい刃先を丸めるか、刃こぼれしても小さなもので済みます。

御興味があれば、お互い木刀を構え、正眼に構えた相手の木刀に、ゆっくりと袈裟に振り下ろして下さい。手で袈裟に振っている間は相手の正眼を崩すことはできず、己の木刀が相手の木刀に沿って流れますが、正しい袈裟ができていれば、相手の正眼が簡単に崩れ、己の袈裟の軌道は保たれたままとなります。

これはつまり、振り始めから振り終わりまで、刀と己の身体が完全に一致しているからであり、逆を言えば最初から刀と己が一つになっているため、先を取られた時には己が大きく崩されてしまいます。

じゃ、ダメじゃん!

と思われる方がおられるでしょうが、崩れること、崩されることが察知できる体幹を身に付けると受身を取ることができるようになりますからそこはあまり問題はなく、注目してもらいたいのは強く打ち込んだにもかかわらず、刀の損傷が小さいということ。先をとられると力は己に返ってきます。故に刀の進行方向とは逆の方に力が進むと言いますか、衝突がなくなるため、刀が損傷しづらいのです。

言葉や写真、動画を駆使しても、こうした僅か0.1ミリの動きで相手を崩すという武術としての身体操作は、なんとなく想像することができたとしても正しくは伝わりません。故に真摯に何かを学びたい、身に付けたいと考えたとき、近場のありふれた道場へ通うのではなく、その道の一流と言われる人に師事することが大切。

ただし、体現できても教えるのが下手な一流人もいます。この場合、言葉も生活習慣も何も知らない土地にいきなり放り込まれて生きていくのと同じで、辞書すらない中、自分で翻訳し、正しく理解する必要があります。時間はどうしてもかかりますが、本来武術とはそういうもの。習いだして半年や1年で段位を取得できる今の居合、剣術の世界には疑問符しかつけられません。

袈裟

袈裟

と聞いてまず思い浮かべることは斜めに斬ることではないでしょうか。

ネットサーフィンをしていると、様々な人による袈裟斬り(素振り含む)を見ることができます。

が、私が理想とする袈裟斬りが出来ている人を、私はみかけたことがありません。交友関係が狭いのもあって、全ての人の袈裟を見ているわけではないのですが、少なくとも私が見たネットでの動画ではいません。

試斬動画で綺麗に袈裟斬りしてるじゃないか。

と思われる方もおられるでしょうが、斬れる斬れないの問題ではなく、今回私がお話しするのは、武術としての袈裟についてです。

試斬は刃筋さえ立てればどんな振り方でも斬れるものです。ですから試斬での袈裟斬りだけで判断してはいけません。

 

修心館今夜の稽古課題は袈裟でした。

私が理想とする袈裟とは、構えるところから斬り下ろしたところまで、どこをとっても相手におさえられない身体捌きで行うもの。

今夜の稽古では二人一組で木刀を用い、ひたすら袈裟に斬り込む稽古を行いました。

速く振る必要は無く、的確に剣先に重さがのっているかどうか。また、その重さが斬り終えるまで正しく続いているか。の確認です。

 

今のところ私が理想とする袈裟ができるのは最古参門弟の柳原のみ。

他の門弟達はまだまだ四苦八苦しています。

正しく袈裟を斬ることができなければ、二刀の業(わざ)は成立しません。

巷では二刀を用いる流派をちらほら見かけますが、果たしてどこまで技術があるのか…

諸手持ちですら正しく袈裟が斬れないのに、片手になればなおのこと袈裟に斬れるはずもなく、ただただ形通りに打太刀と仕太刀が演武しているだけというのが多いですね。

 

試斬で斜めに斬ることができたから袈裟斬りができると早合点は絶対してはいけません。

袈裟斬りを極めようと思えば何年もかかるものなのです。

このブログを読まれた居合剣術修行者の方、あなたの袈裟はいかがでしょう? 理に適った身体捌きで斬ることができていますか?

単純なもの程習得は難しい。今夜はそんなお話でした。

初伝形一本目 『前敵』

形の想定や理合を門弟達に覚えてもらうよう、基礎の基礎である初伝形一本目について記述します。広く一般の方にも公開しますので、御興味ある方は御一読ください。

修心流の単独演武の居合形初伝から奥伝は無双直伝英信流のものを、私が改編したものなので、これらの形を身につけても修心流とは言えません。ここまでは無双直伝英信流町井派と認識してください。

 

まず、初伝形における仮想敵との間合いは畳一畳、つまり約180センチです。己の中心軸から相手の中心軸までの距離と修心流では定めています。

私が出しましたDVD『神速の居合術』を御覧になられた方の中には、柄に手をかけるまでに無駄な動きが多いなと思われた方もおられるかと思いますが、何一つとして無駄な動きはありません。

DVDで紹介している動きは初伝の形の初伝之抜と言って、修心流では初心者のために組み上げたものだからです。

 

正座した際の左右の膝の開きはおよそ拳二つ分。剣道や一般的な居合に見るようなL字形に胸を張って座すでのではなく、股関節から上はやや前傾に、つまり己の中心軸を立てるように座します。

左手首を強く前方に突き出すと共に指は内側へ。右手は薬指の方向に落とすように伸ばし、手首を反れるだけ反らし、右肘を抜くと自然と右手は柄にかかります。

続いて座したまま右半身に切ることで右手は柄を自然と握る形となります。

この時に鞘を前に送らないこと。しかし横から見ると自然と鞘送りができている状態となります。私がメディアに登場して以降、抜刀の際に鞘を大きく前に出す流派、道場、人が増えたように思いますが、私の眼から見た感想を述べますと、皆理合に適っておらず、単に抜刀が早く見えるようにごまかしているだけ。

 

鞘出すな

鞘を送るな

鞘引くな

何もせずとも

刃は抜ける

 

上記は私が詠んだ修心流の極意です。

 

さて、話を元に戻します。

半身をきった時点で鯉口ははばき一つ分刀身が鞘から抜けている状態になりますが、鯉口は親指できるのではなく、左拳全体を右螺旋の動きにて自然と切ります。

抜刀は右手、左手、どちらも動かしません。正しい身体捌きを行えば自然と抜けるのです。世間一般的な居合では、抜付の際に上方に身体を立てながら抜刀しますが、実はこれが修心流に於いては禁忌とする所作。身体を立てながらの抜刀は右手を使わないと抜くことができません。そのため数多の居合人は鯉口を削り、ささくれさせるのです。

 

抜付での横一文字では相手の眼を狙います。抜きつけた際の刀は水平やや水流しと称し、横から見ると水平ではなく、必ず切先が下がる形となります。これが出来ていない者、理解できていない者は、勢い余って後方へ刀を飛ばしてしまうという失態を招くのです。

 

横一文字の後は真向斬りとなりますが、この際、刀身の中心が己の正中線に合致するよう、請流を兼ねた振りかぶりを行います。横一文字の抜付をかわされ、敵が素早く真向斬りで対応してきた際の保険をかけるわけです。

真向斬りは刀身が水平で斬り終えること。右手は右膝の位置と高さであること。世間一般に見る切先下がりの斬り下ろしは、実際には刀と柄を傷めるばかりで斬撃力も乏しいものとなります。振り切った刀は常に水平であることが大切。切先を地面に触れるか触れないかまで斬り下ろすことを指導するところが多々見受けられますが、私の経験から述べますと高確率で刀の折損を招きます。何故折損確立が高くなるのかはここでは割愛します。知りたい方は修心流にご入門下さい。

 

血振に以降するまでの所作。これも大切です。一般的な居合では、右手を斜めに傾けて大血振を行いますが、私個人の意見の述べますと、これは術理を知らぬ者が指導者となり、劣化コピーと化した居合が蔓延した結果のものと言えます。

手首を傾けるのではなく、小さく右半身となることで、左手は自然と鯉口に、右手で持つ刀はやや左へ刃が傾きます。これでなければ血振へ意向することはできません。相手を置いて試してみるとよくわかります。

刀の切先から動き出し、切先の高さを変えぬ心持で腕を横に送り、続いて肘が下がらぬよう肘から先だけを折りたたむようにします。正しい形ができていれば、鐔は頭部の剃り込みを入れる箇所あたりに自然と触れます。刀を振り下ろす際、間違った概念によって頭部を切ってしまう人が稀におられます。英信流正統派と称す団体の宗家自身が自らの頭を切った事故は、私の世代の居合人の間では有名な話。生意気ながら述べさせて頂きますと、所詮は形居合の宗家であって、武術としての居合の宗家ではなかったと言えるのではないでしょうか。

大血振は刀身に付着した血を振り払う所作ではありません。実際に刀で人を斬ってみると、驚くほど刀身に血はつかないものなのです。刀身には薄っすらと脂の膜が付く程度です。人が斬られる瞬間を見ることなどそうそうないことですが、私は過去、技量無き者の無謀な試斬によって、誤って人を斬ってしまう事故を目の当たりにし、その際刀の手入を私が行った経験から上記のことは断言できます。この時には夜間、病院へ救急搬送し、傷口を縫い合わせる大事故で、大変な騒ぎになったものです。

大血振は勢いよく刀を振り下ろすのではなく、右肩を前後に回すように行います。これが出来れば頭を切るなどの失態は絶対に起こりませんし、自然と刀は掌の中で回転し、振り終えた刀の柄は右腕に自然と触れるか触れないかの位置で止まります。横から見ると刀は刃先しか見えず、刀の長さを読ませぬ動きとなるわけです。

大血振や横血振で腕と柄の間が大きく開いている人を見かけますが、修心流ではこれを良しとはしません。数多の敵がいる戦場に於いて血振などという所作を行う暇はありませんが、万一柄を大きく開く血振であったなら、容易く敵に柄を握られ、刀を奪われてしまうことでしょう。

血振の後は寄せた反対側の足を引き、己の軸を真下に落としてから続いて中心軸を立て直します。身体が動くに伴い刀も自然とそれに付き従って動きます。身体が動いているのに刀が止まったままというのは理に適っていません。間違いだと断言します。

納刀は手首を使わず右肩で行います。切先の高さを変えぬ心持で肩を動かすと、自然と切先は上がり、鐔は左拳を超え、肘と手首の中間程のところへ来ます。それ以上動き続けると己の軸が崩れますので、程よいところで右肘を抜き、刀の棟を左腕にのせます。程よいところでと記述しましたが、これも実は自然と肘が抜けると言うのが正解です。

いよいよ納刀ですが、右手は一切使いません。左手も鞘を引くなど行いません。全ては身体捌きで行います。右手で納刀しているかどうかを見極める方法としては、右肘が上に向いている。右小指が伸びている或いは立っている。左手が鞘引きならぬ鞘開き(鯉口が外方に向いてしまうこと)になっている等が挙げられます。

どれだけ素早く納刀できていても、指が伸びている人は未熟な証拠と言え、そのような人の鯉口は見事なまでにささくれているものです。

納刀し終わった際の刀の位置は、鐔が臍前となります。刀全体を見ると帯を中心に鞘が前半後半同じ長さとなるのが正しい身体捌きの証拠です。

最後に居合を解くと言う所作ですが、一般的に多いのが五指を柄にかけ、柄を撫でるように柄頭へ手を移行させる人。居合を解くという所作も武術として成立していなければいけません。柄に触れた五指をずっと柄に触れさせるのではなく、ここも実は右肘の緩みによって自然と柄頭に右親指がかかるように行うべきなのです。居合を解くと言う所作に於いて、また、その所作の途中に於いて、いつ何時右手を掴まれても形通りに動き続けることができてこそ真の武術としての居合形。私は常日頃から門弟達にこれを説いています。

 

上記はあくまで私個人の考え、そして修心流居合術兵法に於ける心構えと術理を記載したものです。数多の他流派には相通じぬところもあることでしょう。参考になる箇所は参考にして頂き、取捨選択の上お役立て頂ければ幸いに存じます。