6月 2017のアーカイブ
丁子刃が見事な脇指
武術としての試斬 ~初動を読ませない斬撃~
大きく振りかぶって勢いをつけて切る試斬を、修心流では良しとしていません。
あくまで武術としての刃筋確認稽古ですから、初動を読ませず、身体が動いた時には畳表が両断されている… 修心流が求めるのはそんな斬撃です。
動画で右袈裟の初太刀の後の左斬上にご注目頂ければと思います。
昨夜の稽古 ~奥居合~
この日の稽古課題は奥居合。
虎走と呼ばれる形、単に前に進むだけだと思っていませんか?
修心流居合術兵法では常に己が不利な状態に置かれたことを想定して稽古しています。腕を押さえる相手をそのまま後方へ押しやりながら抜刀できるか?
力を分散させず、軸をぶらす事無く真っ直ぐ進むと言う単純な動きですが、いざやってみると難しいものです。まずは正座の状態から稽古し、次に立膝にて行います。それが出来るようになったら、柄にかけた両腕を相手に押さえさせ、形通りの所作で相手を追い込む稽古を行います。
動画後半は戸脇と呼ばれる形における後方突きを立った状態で行っている稽古の様子です。
右手で抜刀する人が多く見られますが、それでは腕を掴んで来た敵に動きを封じられてしまいます。後方突きは万一前方から腕を掴まれようと、後方を突くと同時に、腕を掴む者をも後方に崩し飛ばさなければ業として成立しないと私は考えています。
こうした通常の居合道場では行わない稽古方法が修心流の特徴で、刀を使うと言うよりは、身体の捌き方を研鑽指導しているので、門弟の多くは合氣道や柔術の経験者、或いは現在もそれらを修練している方が多いです。
赤穂住則之 天保五年八月吉日 ~広島の大名登録刀~
実用兼美の武用刀 町井勲・藤安将平監修 刀心作
天心流兵法が発信する誤まった情報を真向から斬る! ~刀は地面に立てるものではない!! 4 ~
昨日より発信し続けている“刀を杖のように立てる所作”についてですが、その後新たなことに気付きました。
若い武士の花見の様子だとして紹介されているこの画に疑問を感じた私は、昨夜色々と調べてみました。
気になったのは以下の点です。
・同様の画題の他の画にも、ほぼ同ポーズで刀を杖にもたれかかるような人物が描写されていること。
・それらの人物は士分にしては衣装が派手であること。
ここで紹介されている画の人物も、刀に身体をもたせかけていること、衣装が士分にしては派手で奇抜です。
そこでこれらの画の全体を見てみました。
天心流が若い侍と紹介していた刀にもたれかかる人物…
士(さむらい)ではなく、かぶきおどりの役者であることが判明。
かぶき踊りは、出雲阿国(いずものおくに)が創始したといわれています。
こちらも刀を杖のようにしてもたれかかっています。
拡大した画像を見ると、唇に紅を塗っており、男装したかぶき踊り役者であることが判りますし、この画のように刀を杖にもたれかかるポーズは、かぶき踊り演目の一場面であることを窺い知ることができます。
天心流が発信したこれらの画に関する見解は完全に誤りであり、士分の者が、刀を杖のように立てることが当たり前の所作であったと言うのも大きな間違いであると断定できます。
また、刀を杖のように立てる所作について、天心流が発信した見解と情報は、“大小二刀を持っている=武士” との誤まった先入観によって、天心流が勝手に作り上げた虚構である証明と言えるでしょう。
また、昨日知人から大変有力な情報を頂きました。
つい最近、幕末の写真について解説するテレビ番組があったそうで、一枚の写真撮影に要する露出時間が2分程必要であったこと。改良されたカメラと撮影技法においても、20~30秒程露出時間が必要であったため、カメラマンは士に対し、身体のブレを抑えるべく、刀を杖のようにするポーズをとらせたのではないかと推測されるというもの。
更にこれに対して補足しますと、坂本龍馬の有名なこの一枚も…
気取って格好をつけるために台にもたれかかっているのではなく、ピンボケを防止するために台にもたれるようなポーズをとったのではないかと推測されるのだそうです。
刀を杖のように立てる所作は、士の時代には無かったと考えるのが妥当と結論付けて良いのではないでしょうか。
また、天心流兵法は江戸初期から伝わる流派で、様々な所作や作法が伝わっているとする割には、江戸時代には存在しなかったであろう所作を、江戸時代から存在したと主張している時点で大きな矛盾があり、江戸柳生を名乗るその伝系にも必然的に大きな疑問符をつけざるを得なくなります。
天心流兵法が発信する誤まった情報を真向から斬る! ~刀は地面に立てるものではない!! 3 ~
車のバンパーは、衝突の際に車本体や搭乗者を守るためにあります。
しかし、だからと言って無駄にバンパーを擦る人、当てる人は居ない。刀の鐺や石突金具も同じです。
現代人がバンパーを擦っただけで滅入るのと同じく、士達は鞘や鐺に傷がついたら滅入っていたはずです。
私が今から20年程前に、共に居合を修業していた友人とこのような会話をしたことがあります。
私「甲冑って高いやん? 新調した甲冑着て戦出てさぁ、相手に切り込まれたりして兜や鎧に傷がついたらどう思う?」
友人「そりゃぁ許されへんなぁ。弁償しろって思うし、弁償してもらえない戦の場やったら、絶対こいつ殺したる!って思うなぁ。」
人間なんてそんなものです。
秀吉が戦国時代までは単なる武器でしかなかった刀剣に、美術的な価値を認めさせた頃から、刀はただの刃物ではなくなりました。
士分の象徴であり、武士の魂にまで昇華したのです。
あなたが頑張って貯めたお金、もしくはローンを組んで最高級のベンツを買ったとしましょう。
バンパーは障害物に当っても車本体を守るためにある物だから…
バンパーは傷ついて当然のものだから…
そう言いながら笑ってバンパーを擦れますか?
刀も全く同じです。
今の時代の安価なカシュー塗とは違うのです。
本漆で鞘塗りを依頼したことがある人なら解るでしょう。
安いところに頼んでも、鞘塗りだけで10万円程が消えて行きます。
それだけのお金をかけた鞘に、自ら傷をつけるようなことをするでしょうか?
湯水のように使えるお金を持っている人は論外ですが、一般人の感覚ではできないものです。
重ねて言います。
刀も車のバンパーと同じです。
天心流兵法が発信する誤まった情報を真向から斬る! ~刀は地面に立てるものではない!! 2 ~
先のブログ記事を掲載した後、天心流兵法を名乗る団体が、いつものように後出しジャンケンの如く、言い訳記事をブログやツイッターで発信するであろうことは予測していました。
案の定必死になって刀を立てていたり、杖にしているような古画を引用して自分達の主張を正当化しようとしています。
必死になってネット検索している姿が目に浮かびますが、その努力をもっと別の方向に使えば良いのにと思うばかりです。
間違いを認める勇気も必要。そうしなければ人は成長できません。
三枚掲げたうちの下二枚は、刀を杖のように立てているのではありません。更に補足しますと鐺を傷めぬ場であることが想像できます。
例えば二枚目の絵なら、店先の板の間もしくは畳の上でのこと。無論鐺は痛みにくい場所です。
三枚目は莚の上と推測され、こちらも刀を杖のようにしている画ではなく、周囲に第三者が詰めて居るため、刀を踏まれたり、跨がれたりしないように立てているだけの画です。
問題なのは一枚目の彦根屏風の一部分を抜粋したもの。
これは明らかに刀を杖のようにしてもたれかかっていますが、花見の酒宴の席を描いたものであることを忘れてはいけません。また、この人物のいでたちにも注目すべきであり、派手な服装からしてかぶき者と言われる小姓の可能性が考えられます。
解り易く言えば、中学校や高校の校則で定められた制服とは異なる変形学生服で登校するヤンキーです。
天心流が言い訳として発信した情報では、校則違反の変形学生服をまとった生徒のみを指して、「これがこの学校の制服です! 古画でも証明されています!」と言っているようなものだと思います。
もう一つ付け加えますと、抜粋された画だけを見ると、屋外で刀を杖にしているように見えますが、屏風の全景をご覧下さい。
画では省略されているものの、これは屋外ではなく屋内を描いたものであることが履物を履いていないことからも解ります。
つまり、刀の鐺は痛みにくい場であり、ましてや酒宴の席でのことですから、サラリーマンが酔った勢いでネクタイを鉢巻のように頭に結んだ状態を描いたようなものではないでしょうか。
天心流兵法なる団体の言い分には矛盾が多々見られ、あくまで自分達が発した情報が正しいものだとしてごまかそうとしていますが、人に教える立場の人間は、間違いを繕うのではなく、間違いを間違いだと認め、是正すること、改善することこそ絶対的に必要なことだと私は考えます。
間違ったものであってもそのまま受け継ぐのが伝統だと天心流兵法の鍬海氏はネット上で書いていますが、そんな伝統ならさっさと消滅した方が後世のためではないでしょうか。
こんな格言もあります。
伝統とは革新の連続である
と…
情報と言うものは発信する側によって意図的に操作できるものであることを忘れないで下さい。
抜粋された写真や記事は、全景全文を目にするべきです。
さすれば自ずと真実と答えは見えてきます。
間違った情報、操作された情報に惑わされないで下さい。
真実を見抜く眼を養いましょう。
天心流兵法が発信する誤まった情報を真向から斬る! ~刀は地面に立てるものではない!!~
天心流兵法と名乗る団体が、最近ネット上において
“刀を杖のように地面に立てる所作を昔から伝わる作法である”
と、誤った情報発信を行いました。
私は現代に生まれた人間であり、武士が生きていた当時のことを全て知っているわけではありません。
よって、私が今から記述することは、100パーセント正しいかといえばそうではないかもしれませんが、居合術家として、また、一愛刀家としての立場から、その所作についてこれから記述します。
まず、私の結論から言えば、それらの所作は
「ありえない」
作法です。
天心流兵法を名乗る団体は、何か不都合なことを指摘される度に、常に後付け、言い訳がましく自分たちのことを正当化する傾向があるように個人的に感じております。
それは数年前、天心流兵法の中村天心氏が、床几の向きを間違えて座している写真を指摘された際の彼らの言い訳でもわかります。
この床机の向きに関しましては私がブログでも解説しておきましたが、日本画に於ける一種の決まりごと説が有力です。ブログ記事のリンクを以下に添付致しますので、お時間が許す方は是非ご一読下さい。
https://ameblo.jp/isaom/entry-11799994434.html
さて、今回天心流兵法と名乗る団体のブログに書かれた「刀を杖のように地面に立てて腕を置く所作」ですが、全くなかったかと言えば一部または一時期には行っていた人がいたかもしれません。しかしそれは戦が多かった時代、例えば戦国時代などに限定されるのではないかと推測します。
私が今回、この所作について記事にすることには大きな目的があります。
それは現存する刀(刀装・刀装具)を痛めることなく後世に伝え残していきたいというものであり、それは現代に生きる私達の役目でもあると考えます。
私がかねてより天心流兵法に疑問を感じるのは、間違いを改めるのではなく、それを正当化しようとしたり、後出しジャンケンのように後から言い訳がましく記事にして情報発信する姿に嫌悪感を抱かざるをえないからなのですが、今回、彼らは幕末や明治初期の写真を指して、刀を地面に立てる所作を正当化しようとしています。
あくまで私の見解ですが、江戸期においてそれらの所作が作法としてあったかと言えば、それはありえません。
半ば断言的になりますが、その根拠として、古い刀の拵を見れば自ずと結論は見えてきます。
私は刀剣商としての顔も持ち合わせており、これまでに数多の刀剣に触れてきましたが、鐺(こじり)や石突金具に磨耗が見られるものはありません。
日本刀形式の外装が付いた刀剣で、極端に石突金具に磨耗や傷がみられるものは、大東亜戦争時代の軍刀のみです。
戦時中の僅か数年の使用期間であるにもかかわらず、軍刀の中には2~3ミリ近く石突金具が磨耗し、石突金具先端の桜花が消え、酷いものには今にも穴があいてしまいそうな状態のものも見られます。
皆さんもご覧になられたことがあるように、軍人はやたらと刀を地面に立てていたからです。
軍刀の石突金具の磨耗と損傷は当時から懸念されていたようで、そうした石突金具の磨耗を改善すべく考案され、実用新案特許まで取得したのが若瀬軍刀製作所の特殊石突であり、これについては軍刀趣味人ならすぐにお分りいただけるでしょう。
ほぼ未使用の軍刀石突金具… 磨耗が殆ど無く、石突先端の桜花もしっかりと残っています。
一方こちらは頻繫に立てられた軍刀の石突金具… 鎚目が消え、桜花も磨り減っていて名残をとどめるのみ。これでも状態は一般的なもので、酷い物になると穴が空きそうになっているものもあります。
こちらは若瀬軍刀製作所製の海軍太刀型軍刀拵とその特殊石突金具
大東亜戦争時代の軍刀ですら数年の使用で上に紹介した写真のような有様です。
鐺金具が装着されていない水牛角製鐺が一般的であった江戸時代の刀が、天心流兵法を名乗る団体が言うように頻繫に立てられていたのであれば、鐺が磨耗欠損した拵が多々残っていてもおかしくはありませんが、そのような拵は殆どありません。このことからも刀を杖のように立てる所作は江戸時代には存在しなかったと証明できるでしょう。
居合の中では刀礼と言って、刀に礼をし、帯刀するまでの形も所作として存在し、その中では刀の鐺を立てる所作も含まれて居ますが、それはあくまで形式的なものであって、居合で学ぶ刀礼は日常的にされていたものではありません。
では、何故刀を杖のようにした侍の写真が残っているのか?
答えは簡単です。
カメラマンが外国式のポーズを取らせたに他なりません。
私は今回、ネット上においてではありますものの、様々な古画や写真を検索しましたが、幕末に撮影された写真以外では、刀を杖のようにしているポーズは見受けられませんでした。
古画の中には刀を立てているものもありますが、手は柄の上には乗っておらず、腹の前にもたせかけ、空いた両手で兜の緒を締めていたりと、杖のような所作を取るものではありません。
思うに幕末の時代、カメラマンの多くは外国人だったと想像されます。外国の軍人を写真撮影する際には自分の前にサーベルを立て柄を握ったり、腕を置くのが外国式の作法と言いますか、当たり前の所作だったのでしょう。また、武士であることの象徴である刀を前面に出すことで、写真に写る者の身分が判るようにしたとも推測されます。
但し、サーベルなら何でもかんでも地面に立てていたのかと言えばそうでもないようです。傷みやすい形状のものではそれらの所作は行なっていないようで、その証拠に地面に立てている外国サーベルの鞘を見て頂きますと、鞘の先が若狭式石突金具のように磨耗することを考慮した作りになっています。
この鞘の石突は日本軍のサーベルにも踏襲されています。
軍刀サイトより転載
下の写真は外国のサーベルの模造品ですが、同形の実物が多々外国に残されています。こちらの金具にも丸い形状の石突があるのが判りますね。
このように状況証拠から見ても、打刀形式の刀を地面に立てるような作法は、少なくとも江戸時代には無かったと結論づけることができます。
因みに腰から外した刀を立てるに当たっては、直接地面に触れさせず、草履の上や足の甲の上にこじりを立てるのが一般的だったようです。
そうした事実から見ても、天心流兵法が正しく江戸の作法を伝える流派と謳う点にも多々疑問符をつけざるを得ません。稽古動画を見ていても、非現実的な形設定が多いように感じられます。
また、補足として幕末や明治に撮られた古写真に写る人達全てが士分の者ではなかったことにも留意する必要があります。
これらの写真に写る人々は果たして本物の士分の人間かと言えば、実は外国向け絵葉書用に撮られた甲冑をまとった役者や町人が殆どです。
剣道では剣先を地面につけると怒られますよね。ところが古写真の中にはこんなポーズのものも…
明らかにカメラマンによってポーズづけされていることが判ります。
もっと酷いものになると…
あちゃぁ~ 抜き身の刀の切先を地面につけていますよ…(笑
因みに心ある士はカメラマンによるポーズづけにもささやかな抵抗を見せていることが窺がえます。
写真中央の人物に注目。鞘が傷まぬよう鼻緒の上に鐺を立てています。
更に天心流兵法を名乗る団体のブログにある写真にも…
刀を地面に立てるのが作法や所作だったのなら、どうして左端の人や中央後ろの人物は携刀しているのでしょうか?
後ろの人物は己が士分であることが判る程度に刀を上方に持ち上げ、敢えて刀が写る様にしていることが判りますし、左端の人物も刀を持つ手が写っていることから、写真を見る者に己が士分であることを明らかにしています。
このように写真を精査していくと、カメラマンがつけるポーズを拒否した士がいたことが判り、それだけ刀を大切に扱っていたということも解ります。愛知県だったでしょうか、太刀を杖のように地面に立てる信長像がありますが、あれは論外。現代人が想像で作ったブロンズ像なのですから。
今回の結論。
天心流兵法が発する情報を鵜呑みにしては危険。
証拠は物が語る。
刀を地面に立てるのは外国人カメラマンが侍にとらせた外国式のポーズ説が有力。
いずれにせよ、刀を痛めることにしかなりませんから、刀を地面に立てることは慎みましょう。
一人でも多くの方に正しい情報をお伝えしたいので、是非ともこの記事の拡散をお願い致します。